第21話 痩せた男
月曜日。
会社へ行くと、佐伯が朝から電話に捕まっていた。
「ですから、今日出荷は無理です。明日午前なら――はい。はい、分かりました」
受話器を置く。
私を見る。
「北辰です」
「また?」
「またです」
盆前というのは、世の中の全員が今日中に物を欲しがる季節らしい。
午前中はそれで終わった。
十一時過ぎ、私は倉庫へ降りた。 東亜機工向けの箱が通路を半分塞いでいる。
石井が伝票を片手に、数を数え直していた。
「課長、これ、昨日の分です」 「昨日?」
「出荷止めたやつです。先方の確認待ちで」
私は伝票を見る。 品番。数量。納期。 どれも普通だった。
普通の数字はありがたい。 足せば増えるし、引けば減る。
203のように、見つけるたび別の意味を背負って近づいてくることもない。
「今日の午後、返事なかったらもう一回電話しよう」 「はい」
自分でそう言ってから、少しだけ可笑しくなった。
以前なら「本社に確認して」と言っていたかもしれない。
最近、私は小さなことを自分で決めるようになっていた。
久世から連絡はない。
私はそれを少し気にしている自分に気づいた。
気にする理由はない。
彼女は本社総務。
私は地方の小さな商社の課長。
仕事がなければ来ない。
それだけだ。
昼。
小野寺が弁当を食べながら言った。
「課長、最近スーパー行ってます?」
「行ってるよ」
「裏じゃなくて?」
箸が止まった。
「何で」
「この前、見かけたって人が」
「誰が?」
「店長さん」
私は午後、フレッシュマートみなみへ電話した。
電話をかける前に、会社の窓から外を見た。
昼の町は、怪異とは縁がない顔をしている。
配送車が曲がり、制服姿の高校生が自転車で通り過ぎる。
遠くで草刈り機の音がしていた。
あの倉庫だけが、夜になると別の場所へつながる。
そう考えた瞬間、私は自分で首を振った。
つながった、と決めるのは早い。 私は何を見たのか。 何を思い込んだのか。
その二つを、分けておきたかった。
店長は高梨という五十代の男だった。
「裏の倉庫ですか。あそこ、もう使ってないんですよ」
「南京錠がついてますよね」
「ええ」
「番号、203ですよね」
電話の向こうで笑った。
「違いますよ」
私は黙った。
「普通の鍵です。南京錠も先月交換しましたし」
仕事帰り。
確かめに行った。
倉庫。
南京錠。
数字式ではなかった。
真鍮色の、小さな鍵穴。
私はポケットから203の鍵を出した。
入らない。
当然だった。
あの夜。
私は何を開けた?
「また来たんですか」
声。
振り返る。
痩せた男。
以前、ここで会った男だった。
白い半袖シャツ。
黒いズボン。
前より少し髪が伸びている。
「あなた」
男は倉庫を見た。
「開きませんよ」
「前は開いた」
「でしょうね」
「知ってるのか」
「知ってます」
初めて。
男は逃げなかった。
「名前は?」
「名前が必要ですか」
「普通は必要だろ」
「普通なら」
私は男を見る。
四十代。
いや、五十代にも見える。
妙に年齢が分からない。
「河西を知ってる?」
男の目が動いた。
「森山は?」
さらに。
わずかに。
「久世志乃は?」
男が私を見る。
「そこまで行ったんですね」
「知ってるんだな」
男は答えない。
「あなたは誰だ」
「昔、ここで働いていました」
「スーパー?」
「その前です」
「三崎物産?」
男は首を振った。
「ここがスーパーになる前」
私は旧地図を思い出した。
水上203。
「何があった?」
「倉庫です」
「何の」
「水を扱っていました」
「農業用水?」
男は笑った。
初めて見た。
嬉しい笑いではない。
「みんな、そう書きました」
「どういう意味だ」
男は私の手を見る。
203の鍵。
「それ、誰からもらいました?」
「拾った」
「嘘ですね」
「応接室にあった」
男の顔から笑いが消えた。
「森山さんが置いたんでしょう」
「森山はどこにいる」
男は私の後ろを見る。
私は振り返った。
誰もいない。
もう一度男を見る。
「帰った方がいい」
「質問に答えろ」
「富樫さん」
名前。
私は教えていない。
「なぜ俺の名前を知ってる」
男は答えなかった。
風が吹いた。
スーパーの室外機の熱。
惣菜の揚げ油。
夏草。
全部の匂いが一瞬だけ混ざった。
男は目を細める。
「まだ、そっちにいるんですね」
「何が」
「風です」
背中が冷えた。
「久世さんには」
男が言った。
「私に会ったことを言わない方がいい」
「知り合いじゃないのか」
「知り合いですよ」
「じゃあ」
「だからです」
男は歩き出した。
「待て。名前」
足を止める。
「榊」
「下は?」
「今は、それで」
「今は?」
榊は振り返らなかった。
「富樫さん」
「何」
「203を調べるのは、やめた方がいい」
「なぜ」
「意味がないからです」
私は笑った。
「意味がない?」
「はい」
榊は言った。
「203なんて、ただの数字です」
そして。
スーパーの明るい入口へ歩いていった。
私は倉庫の南京錠を見る。
ただの数字。
その夜。
アパートへ戻り。
自分の部屋のプレートを見た。
203。
初めて。
それが。
ただの部屋番号に見えた。




