第20話 風が知っている
久世は私のアパートへ来た。
初めてだった。
1DK。
布団。
小さな机。
本。
扇風機。
「何もないですね」
「悪かったな」
「褒めてます」
「どういう意味だ」
「余計なものがない」
私は冷蔵庫から麦茶を出した。
二人。
机。
向かい合う。
壁。
あの染みの出た場所。
「話して」
久世はしばらく黙った。
「全部は話せません」
「帰ってくれ」
「分かりました」
本当に立った。
「待て」
止まる。
私は頭を掻いた。
「そういうところ、嫌いだ」
「知ってます」
「何で知ってる」
「顔に出ます」
座る。
近いようで。
遠い。
「向こうって何だ」
「場所です」
「どこ」
「ここではない場所」
「死後の世界?」
「違います」
「宇宙?」
「その言葉では遠すぎる」
「じゃあ何だよ」
久世は壁を見る。
「隣です」
私は笑いそうになった。
だが。
笑えなかった。
「壁の向こう?」
「壁とは限りません。水。煙。音。数字。人間が境界として認識できるものなら、何でも」
「203は?」
「番号ではありません」
「じゃあ」
「まだ」
「またそれか」
久世は麦茶を飲む。
「富樫さん。私を信用しないでください」
予想していなかった。
「何だそれ」
「でも、今は私と一緒にいた方がいい」
「矛盾してる」
「はい」
「君は何者?」
久世は答えない。
外。
車が通る。
遠く。
踏切。
夏の夜。
「河西は?」
「近づきすぎた」
「森山は?」
「戻ろうとした」
「俺は?」
久世が。
初めて。
まっすぐ私を見る。
「まだ決まっていません」
背中。
冷たい。
「三回目って俺?」
「可能性は高いです」
「開くとどうなる」
「分かりません」
「嘘だ」
「本当です」
「君は開けたいのか」
長い沈黙。
久世は答えなかった。
それが。
答えだった。
私は立つ。
「帰って」
「はい」
久世も立つ。
玄関。
靴。
扉。
そのとき。
風。
部屋の奥から。
玄関へ。
強く。
久世の髪が揺れた。
彼女が止まる。
表情。
怒り。
ではない。
悲しみ。
一瞬だけ。
そんな顔に見えた。
「......また」
小さな声。
私は聞いた。
「今、何て?」
久世は私を見る。
「何も」
「誰に言った?」
「何がです?」
以前と同じ。
穏やかな顔。
私は玄関の扉を開けた。
久世が出る。
廊下。
「富樫さん」
「何」
「今夜は壁を開けないでください」
「開ける気ないよ」
「煙草も」
「それは吸う」
「灰皿へ置いたままにしないで」
私は黙った。
「なぜ」
「線ができます」
「煙で?」
「煙だけでは」
そこまで言って。
止めた。
「おやすみなさい」
階段を降りる。
私は廊下から見送った。
道路。
街灯。
久世は駅の方向へ歩く。
途中。
一度も振り返らなかった。
部屋へ戻る。
窓。
壁。
机。
私は煙草を一本取り出した。
火をつける。
吸う。
灰皿へ置かない。
手に持ったまま。
煙を吐く。
風。
ほんの少し。
煙が。
壁とは反対へ流れた。
「お前」
私は誰にともなく言った。
「味方なのか?」
風。
返事はない。
机の上。
河西の手帳。
ページが一枚。
自然にめくれた。
〈風は線を切る〉
その下。
今まで気づかなかった。
鉛筆。
薄い。
〈風を追うな〉
私は指でなぞった。
風を追うな。
なら。
何を追う。
時計。
23:47。
次の十三分まで。
二十六分。
私は時計から目を離した。
初めて。
待たないことを選んだ。
電気を消す。
布団へ入る。
壁を見ない。
煙を見ない。
数字を見ない。
目を閉じる。
外。
どこかで。
風鈴が鳴った。
一度。
それから。
静かになった。
あの夜から始まった染みは。
まだ。
そこにいる。
だが。
私はもう。
一人で見ているわけではなかった。
それが安心なのか。
もっと危険なのか。
今は。
分からない。




