第15話 風のない場所
赤い線は、コピー元にはなかった。
小野寺でもない。
私でもない。
久世は紙を光へ透かした。
「インクは新しいですね」
「分かるの?」
「乾いてるけど、古くはない」
「誰かのいたずら?」
「その可能性が一番高いです」
正しい。
赤い線は、河西の席から倉庫側の壁へ伸びていた。
現在そこには書類棚がある。
午後。
棚を動かした。
佐伯と石井に手伝わせた。
「何するんです?」
「壁を見る」
「壁?」
説明になっていない。
棚の後ろ。
灰色の壁。
何もない。
ただ。
床に近いところに。
四角い鉄板。
「点検口?」
石井がしゃがむ。
古いネジ。
塗装で固まっている。
建物図面を確認すると、そこに点検口の記載はない。
佐伯の顔が。
わずかに強張った。
「これ、開けるんですか」
「開くなら」
「やめた方が」
「なぜ?」
「古い建物ですから。配管とか危ないですよ」
もっともだ。
私は開けなかった。
業者を呼ぶことにした。
夕方。
久世が言った。
「今日は帰りましょう」
珍しい。
「調べないの?」
「安全確認が先です」
私は笑った。
「意外と慎重なんだな」
「意外と、は余計です」
会社を出る。
久世は駅まで歩くと言った。
私も途中まで同じ方向。
田んぼ。
用水路。
夕方の蝉。
空はまだ明るい。
「富樫さん」
「はい」
「怖くないんですか」
「何が」
「ここまで調べて」
私は考えた。
怖い。
壁。
声。
白紙FAX。
河西。
だが。
「知りたい方が強い」
久世は前を向いたまま言った。
「それは危ないですね」
「止める?」
「止めません」
即答。
「どうして」
「止めても行く人だから」
私は笑った。
「そんな人間じゃなかったんだけどな」
「人は変わります」
「河西も。森山も?」
久世は答えなかった。
コインランドリー白鳥の前。
「ここです」
「富樫さんの家?」
「あそこ」
二階。
203号室。
久世は見上げた。
表情は変わらない。
「203」
私は彼女を見る。
「知ってた?」
「社員住宅の登録で」
会社借上げだから、当然だ。
「上がる?」
口から出て。
自分で驚いた。
久世も少し驚いたようだった。
「今日はやめておきます」
「そう」
「また今度」
仲良くなりそうで。
ならない。
久世は駅へ歩いていった。
私は部屋へ戻った。
夜。
煙草。
壁。
何もない。
私は赤い線の写真を見る。
会社の壁。
点検口。
そして。
何となく。
自分の部屋の壁を見た。
最初に染みが出た場所。
高さ。
位置。
私はメジャーを持った。
床から。
四十二センチ。
会社の点検口も。
だいたい同じ高さ。
壁を叩く。
コン。
コン。
コン。
途中。
音が変わった。
軽い。
空洞。
私は手を止めた。
開けない。
今日は。
開けない。
そう決めた。
その夜。
午前二時十三分。
私は目を覚ました。
部屋は静かだった。
波の音も。
声もない。
ただ。
風がなかった。
窓を開けているのに。
カーテンが。
一度も動いていなかった。
私は初めて。
風がないことを。
怖いと思った。




