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第14話 一回目

翌日。


私は河西美津子へ電話した。


久世には言わなかった。


理由はない。


ただ。


先に聞いておきたかった。


電話の向こうの声は、思っていたよりしっかりしていた。


「三崎物産の富樫と申します」


沈黙。


「主人の?」


「はい」


さらに沈黙。


「今さら、何でしょう」


当然だった。


私は備品整理で昔の社員記録を確認していると説明した。


半分本当。


半分嘘。


「河西さんが使っていた机が残っていまして」


「机」


「はい」


電話の向こうで。


小さく息を吸う音。


「まだ、あるんですか」


「あります」


「捨ててください」


即答だった。


「何か――」


「捨ててください」


声が変わった。


「奥様」


「主人は、あの会社でおかしくなったんです」


私は何も言えなかった。


「会社が悪いと言ってるんじゃありません。でも、あの人は変わった」


「どう変わったんです?」


「よく喋るようになりました」


背中が冷えた。


「それまでは?」


「無口でした。何でも『わかりました』って。自分で決めない人でした」


私の口癖。


私は受話器を握り直した。


「煙草は?」


「吸ってました」


「煙を見ていましたか」


電話の向こうが。


静かになった。


「あなた」


声。


低い。


「何を知ってるんですか」


「何も。だから聞いてます」


長い沈黙。


「主人は、煙を見ると分かると言ってました」


「何が?」


「道が」


森山は線と言った。


河西は道。


「八月十日に何があったんです?」


「知りません」


「翌日、水の事故で――」


「違います」


美津子は強く言った。


「主人は川で死んだんじゃありません」


私は息を止めた。


「遺体は?」


「見つかってません」


社員名簿には、死亡退職、社外事故。


私は勝手に、遺体があったと思っていた。


「じゃあ、なぜ死亡扱いに」


「会社がそうしたんです」


「そんなことできますか」


「知りませんよ」


美津子の声が震えた。


「二十二年前です。警察も会社も、落ちたんだろうって。用水路に靴があったから」


「靴だけ?」


「靴と煙草」


そして。


もう一つ。


「鍵です」


私はポケットへ手を入れた。


真鍮。


203。


「どんな鍵でした?」


「知りません。警察が持っていきました」


私の手の中に。


鍵がある。


同じものかは分からない。


「奥様」


「もう、いいでしょう」


「最後に一つ」


私は聞いた。


「河西さんは、亡くなる前に『一回目』という言葉を使いませんでしたか」


電話の向こう。


呼吸。


そして。


「使いました」


私は目を閉じた。


「何と?」


「今度は一回目で止める、って」


電話が切れた。


*


昼。


久世が来た。


「何かありました?」


「どうして?」


「顔」


私は少し迷って。


全部話した。


河西美津子。


遺体がないこと。


鍵。


一回目。


久世は黙って聞いた。


怒らなかった。


「先に電話したんですね」


「悪かった」


「どうして謝るんです?」


「一緒にって言ってたから」


久世は少し笑った。


「仲間みたいですね」


仲間。


その言葉が。


妙に居心地悪かった。


「そういうんじゃないだろ」


「そうですね」


あっさり引いた。


近づいたと思ったら。


すぐ離れる。


その距離が。


私にはちょうどよかった。


「富樫さん」


「はい」


「一回目と二回目」


「うん」


「順番を逆に考えたらどうです?」


「逆?」


「誰かが二回やった、ではなく」


久世は私の手帳を見る。


「同じことが、二回起きた」


私は黙った。


河西。


森山。


そして。


私。


三人目。


そう思いかけた。


その瞬間。


窓の外から風が吹き込んだ。


机の上のコピーが舞った。


一枚。


二枚。


三枚。


小野寺が叫ぶ。


「課長、窓!」


私は立った。


紙を拾う。


そのうち一枚が。


私の靴に張りついていた。


古い防災訓練図。


河西の席。


203。


その上に。


赤いボールペンで。


一本の線が引かれていた。


誰が書いた。


私は久世を見る。


久世も。


紙を見ていた。


笑っていなかった。


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