表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
23/29

23. 五十五歳の、朝焼けの海

 港町サリナに着いた日のことは、匂いで覚えている。町の門をくぐる前から、風に塩と魚と船具の油が混じり、荷馬車の轍に(うろこ)がきらきらと踏み込まれていた。通りの果て、家並みの切れ目には帆柱が冬枯れの林のように立ち並び――海そのものは、日暮れの闇の中である。


 あれから、五週間が経つ。冬越しの逗留は、市の日と、洗濯の日と、何もしない日とでできていて、何もしない日の腕前だけが、日ごとに上がっていく。そして白状すれば、わたくしはまだ、海を見ていない。春の袋に、あの札が残っているからである。宿は坂の上の、海に背を向けた部屋を選び、港の用は同行者に任せ、市の日も水際へは下りない。五十五年待ったものである。袋の都合であと少し待つくらい、造作もない。段取りの女の、最後の意地というものだ。


 実を言えば、意地の底にもうひとつ、柔らかい理由がある。奪われた「いつか」と、自分で取っておく「いつか」は、別ものなのである。取っておくほうの先延ばしが、こんなに甘いとは。三十七枚を書いた夜々には、ついぞ知らない味だった。


 昼寝の二枚を燃やしてから、次を引く朝を、わたくしは初めて、わざと遅らせていた。箱の中で、日付の札が近づいていたからである。日付の札は、当日に使うのが決まり。ならば次の主役札も、誕生日の朝にまとめて引くのが段取りというものである。


 前夜は、早くに床へ就いた。波の音は、壁越しに聞くと、大きな寝息に似ている。この町はまるごと、あの寝息に合わせて眠るらしい。


 誕生日は、まだ暗いうちに始まった。扉を叩く音がする。


「時間です。……お誕生日、おめでとうございます」


 言い慣れない祝辞を、点呼の号令みたいに言う人である。浜で朝食を、という段取りらしい。灯りの下で日付の札を表に置き――『誕生日を、自分のために祝う』、五十一歳の字――それから袋に手を入れて、主役札を引いた。出てきた一枚に、さすがに少し黙る。


『朝焼けの海を見る』――五十三歳の字。


 袋の中の軍師は、今日も現役である。誕生日の朝に、生まれて初めての海。出来すぎた巡り合わせは、疑わずに頂くことにしている。


 五十三の年、書斎の地図帳で海を見た。飾り棚の貝殻も、絵の中の帆船も知っている。知らないのは、本物だけである。見たことのないものが、まだある――三十六回目の記念日、いちばん新しい札に、わたくしはそう書いた。書いてから、まだ二年しか経っていない。三十七枚の中で、いちばん若い願いである。


 五十一の年の誕生日は、よく覚えている。春の夜会の支度と重なって、わたくしは花の指図と席次の直しに一日を使った。夜会は成功し、誰かがわたくしの歳を思い出したのは、翌々日である。祝われる側の椅子は、あの家の宴の間に、一脚もなかった。祝われるというのは、存在の点呼である。あなたが今年もいてくれてよかった、という数えごとだ。誰にも数えられない誕生日を重ねるうち、わたくしは自分の歳を、家の行事の日付でしか覚えなくなっていた。


 今年は、娘からの文が先回りで宿に届いている。お母様、五十五は良い歳ですわよ、数字に半端がなくて。あの子の祝辞はいつも斜めから来て、それでいて、まっすぐ届くのである。


 外はまだ夜の底で、潮の匂いだけが濃い。海というものは、姿より先に、匂いと音で来るらしい。砂丘をひとつ越えると、暗がりの向こうで、大きなものが規則正しく息をしていた。寄せて、引いて、また寄せる。星がまばらに残る空の下、水平線だけが、かすかに白み始めている。


 砂浜に、帆布(はんぷ)の椅子が二脚、並べて据えてあった。毛布が二枚、湯気の立つ茶の鍋がひとつ、焚き火が小さくひとつ。


「宿から借りました。海は、長く見るものと聞きましたので」


「贈り物は、これ?」


「……椅子では、不足でしたか」


「いいえ」わたくしは腰を下ろした。帆布が、体を受け止めて軽く鳴る。「満点ですわ。祝われる側の椅子は、五十五年目にして、初めてよ」


 堅物は返事の代わりに、火の鍋の位置を直した。照れると、手が仕事を探す人である。


 東の空が、燃え始めた。


 灰色だった海に、まず一本、金の道が通る。道は波のたびに砕けて、砕けたぶんだけ広がって、やがて海ぜんたいが、朝焼けの色を薄く延ばした鏡になった。(かもめ)が鳴く。帆柱の影が長く倒れる。寄せる波の縁が、桃色に光っては消える。水平線から光の点がこぼれ、点は見る間に膨らんで、まぶしさが目の縁まで届いた。海の日の出は、山のそれより気が早い。遮るものが、ひとつもないからである。潮の匂いを深く吸い込むと、胸の中まで、朝焼けの色に染まる気がする。


「……広いのね」


 地図帳は、青一色だった。本物は一色ではない。金と、桃と、灰と、緑がかった深い青。五十五年待たせた甲斐のある景色か、と問われれば、答えはこうである。待たせた甲斐など要らなかった、もっと早く見ればよかった、いま見られてよかった――三つとも、本当である。目の縁が濡れるのは、朝日のまぶしさのせいにしておく。湖の水の次は、朝日である。……言い訳の持ち合わせが、そろそろ心細くなってきた。


「あら、五十五ですわ。急がなくては」


「急がれるのは、茶が済んでからに」


 差し出された茶は、火の味が少しして、砂糖がわたくしの好みの分量だった。四十年、人の癖を覚える仕事をしてきた人である。波は急かさない。椅子は逃げない。茶は熱い。誕生日というものは、こういう朝で良かったのだ。ずっと、こういう朝で良かったのである。隣の椅子で、同い年が海を見ている。祝う側の顔が、祝われるこちらより、よほど嬉しそうなのはどういうわけか。……訊かない。訊いたら、茶がぬるくなる。


 鴎が一羽、朝食のパンを狙って旋回してきた。隣の元近衛が、殺気のない一瞥だけで追い払う。四十年の警備歴は、鳥にも効くらしい。


 焚き火で、二枚を燃やす。五十一のわたくしと、五十三のわたくしへ。椅子と、海の広さを。


「残り、四枚」


「四枚、です」


 燃えさしの火の粉が、明るくなった砂浜で見えなくなる。残りの数を数える声が、今朝は少しだけ、名残惜しそうに聞こえた。どちらの声が、とは、申しません――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ