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24. 流れ星に、願いごとを

 誕生日から十日あまりが過ぎた頃、宿の女将が教えてくれた。今宵は、早春の流星群の極大だという。サリナの岬は、町の灯りから半刻(はんとき)歩いた突端にある。折よく朝の札が『流れ星に、願いごとをする』――五十二歳の字。添え札に『遠眼鏡で月を見る』四十二歳。夜まで待つ札は、初めてである。


 五十二の年のことは、あまり話したくない。話したくないから、話しておく。その年の記念日の夜、窓の外を星が流れたのである。わたくしは反射のように目を閉じて――何も、出てこなかった。欲しいものが、ないのではない。願いの言葉が、井戸の底で()れていた。三十五年、先延ばしを続けた女の井戸である。あの夜の怖さに名前をつけて、わたくしは紙に書いた。願いを思いつける自分に、いつか戻ること。


 何も出てこなかった数拍の、胸の中の白さを覚えている。悲しみですらないのである。悲しみなら、まだ欲の親戚だ。あれは、欲の井戸の底が乾いて、桶の音だけが響く白さだった。三十五年、先延ばしを続けると、人は願い方の筋から痩せていく。


 四十二の年の記憶は、もっと簡単である。猟の季節、物見の遠眼鏡を覗いてみたら、遠くの尾根が驚くほど近かった。面白うございますね、と言うと、管理の者は恐縮するのである。奥様のなさることでは、と。用のあるものだけを見るのが、あの屋敷の目の使い方だった。


 昼のうちに下見へ行く、と言い出したのは彼である。足元の岩の並び、風の抜け道、帰りの常夜灯の位置。夜の岬は、昼に覚えるものだそうである。段取りの女と準備の男の旅は、こういうところの手際だけは、しっとりと噛み合う。


 日が落ちてから、岬へ出る。焚き火は焚かない。星を見る夜は、目から火の色を抜くのだそうである。毛布は当然のように三枚重ねで、湯たんぽまで支給された。計画的な過保護は、今夜も平常運転である。


 夜の岬は、耳から冷える。波は下の暗がりで規則正しく岩を叩き、空は磨いた黒曜石である。町の灯りを離れただけで、星はこんなにも増えるものらしい。降るような、という言い回しを、わたくしは五十五年目に、初めて体で覚えた。言葉で知っていることと、体で覚えることの間には、三十七枚ぶんの距離がある。この旅は、その距離を一枚ずつ歩いて渡る旅だったのだと、袋の底が見えた頃になって、ようやく腑に落ちた。


 まず、月から。旅嚢から出てきた遠眼鏡は、軍の払い下げの無骨な筒だった。


「四十年、これで人ばかり覗いてきました。月は、初めてです」


「では、この筒にも初めてがありますのね」


 覗いて、息を呑んだ。月は、白い皿ではなかった。銀の砂漠である。あばたの縁に影が立ち、山脈が冷たく連なり、光る海と暗い海が地図のように分かれている。音のない景色を、長いこと見た。筒の丸い視野の中で、月は静かに傾いていく。世界に二人きりで、月と差し向かいでいるような、贅沢な錯覚である。用のないものを、ただ見る。ただ見るだけのものが、こんなに手が込んでいる。四十二のわたくしへ。世界は、覗いた分だけ、律儀に細かくできておりましてよ。


 筒を返しながら、四十年ぶんの夜警の目に月がどう映ったかを、盗み見る。岩のような横顔が、少年の目方になっている。初めてというものは、五十四歳にも五十五歳にも、まだこんなに残っているのである。残りを数えるなら、絶望より希望の側が多い歳だ。


 流れ星は、焦らすのである。


 半刻、首が痛くなるまで待って、最初の一筋は、あっという間だった。願いは、間に合わない。


「……早くありませんこと?」


「星は、待ちません。次は、願いを先に構えておくのです」


「あなた、慣れていますのね?」


「歩哨は、夜が長いので」


 夜の長さを知っている人の声は、夜によく合う。四十年ぶんの夜勤の上に今夜の静けさが載っているのだと思うと、隣の岩の輪郭が、少しだけ違って見えた。違って見える、を胸の中で言い直す。……大きく見える、である。正直は、独り言の中でくらい、通しておく。


 二筋目も、取り逃す。三筋目――西の空を、長い長い一筋が、ゆっくりと落ちていく。今度は、間に合った。目を閉じて、胸の内で、言葉が最後まで言えたのである。井戸には、ちゃんと水が戻っていた。五十二の年の怖さが、音もなく片づいていく。願った言葉が、箱の底の一枚と同じ字で書いてあったことだけは、自分に白状しておく。三十八年経っても、わたくしの井戸の底には、同じ水が湧くらしい。


「……何を、願われました?」


 珍しく、彼から訊いた。わたくしは毛布の中で、少し笑う。


「内緒よ。でも、ちゃんと願えましたわ。……あなたは?」


「…………守秘義務です」


「まあ。多いのね、あなたの守秘義務」


「はい。……近頃、増える一方です」


 増える一方の守秘義務を、わたくしは追及しない。追及しない優しさと、追及できない臆病は、夜の岬ではよく似た顔をしている。


 岬の風の中で、二枚を燃やした。火の気のない夜だから、燐寸(マッチ)の小さな火が、やけに明るい。


「残り、二枚」


「……二枚、です」


 復唱が、今夜は一拍、遅れて返った。


 宿へ戻って、箱を開ける。袋という袋が、みんな空である。残っているのは、峠の雪を待つ一枚と、底に裏返しで敷かれた、いちばん古い一枚。三十七枚をめくり続けてきた旅の、その底が、もう見えている。


 蓋を、静かに閉じた。旅の終わりというものは、どうやら箱の底の形をしている。


 壁の向こうの隣室は、灯りがまだ点いているのに、今夜は物音がしない。あの人は、次の宿場の下調べをしていないのである。地図を広げる音も、荷を締め直す革の音もない静けさが、どういう静けさなのか、わたくしには分かる。分かって、分からない振りをする。


 わたくしの耳は、この一年、隣室の支度の音で眠りに就くのに慣れてしまった。革の音、紙の音、砥石の音。旅の音を、いつのまにか、暮らしの音と聞き違えているのである。……聞き違えたままで終わらせない方法を、箱の底が知っている。知っているから、怖いのだ。


 まだ、めくらない。めくらないけれど――峠の雪は、そろそろ解け始める頃である――。

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