22. 借りた犬と、花の昼寝
六日目の夕暮れにサリナへ着き、冬越しの宿は、町はずれの丘寄りに定めた。逗留の届けは九週ぶん。旅の仕上げの冬を、この土地でゆっくり越すのである。着いて三日目の朝、荷ほどきも済んだところで、札を引いた。冬の袋の、最後の一枚である。
『本気の雪合戦をする』――四十一歳の字。
窓の外では、杏が三分咲きである。
「…………」
「…………雪は、ありませんな」
段取りの女の敗北である。夏の袋は夏のうちに、冬の袋は冬のうちに。仕分けたのはわたくし、引く順を運に任せたのもわたくし、そして南部の春の早さを甘く見たのも、わたくしである。天気にだけは、段取りが効かない。
悔しいので、窓を全部開けた。杏の薄紅の向こうに、春霞の山なみが柔らかい。雪を探すには、世界はもう、あんまり機嫌が良すぎるのである。負けというものも、旅で覚えた味のひとつだ。値切りに負け、朝寝坊に負け、天気に負ける。負けるたび、世界がわたくしの段取りより大きいことを思い出す。大きい世界の中で眠る昼寝は、さぞかし上等でしょう。
「持ち越しは一枚まで、と決めてあります。帰り道の峠にでも、雪が残っていることを祈りましょう。……ですから、引き直し」
次に出たのは『犬と昼寝をする』――四十八歳の字。添え札に、春の袋から『花畑で昼寝する』三十七歳。昼寝が二枚。運は、負けた側への手当てが上手い。
四十八の年、雨の晩に子犬が迷い込んだ。泥だらけの、耳の片方だけ立った子である。わたくしは一晩、寝台の下に隠した。あの屋敷に犬は何頭もいたけれど、あれは猟犬――道具であって、抱く犬は「行儀に障ります」の側である。朝、庭師に里を探させて、手放した。手のひらには体温だけが残って、その夜、紙になったのである。一晩じゅう、寝台の下の呼吸に耳を澄ませていた。生きものの寝息を数えて眠るのは、子供部屋の夜以来である。朝の籠は、軽かった。軽さというものが、あんなに手に残るとは。四十八にもなって、と自分で笑って、笑い切れなかったから、紙になったのだ。
宿の看板犬は、白毛の老犬である。名を訊いたら、女将が笑った。先代からいるので、みんな「じいさん」と呼ぶという。
「あら、同世代ね」
じいさんは尻尾を二度振って、同意とも抗議ともつかない返事をした。女将は半日の散歩を快諾し、干し肉ひと切れで話がつく。
杏の丘の麓は、野の花の原だった。白と黄色が風の形に揺れて、蜜蜂の羽音が陽ざしの音のように低く続く。毛布を広げ、真ん中にじいさんが迷わず陣取り、右にわたくし、左に岩がひとつ。青空は高く、杏の枝がその端に薄紅を差している。
三十七の年のわたくしへ。誰にも見られない昼寝は、こういう音がしますのよ。風と、蜂と、犬の寝息。
じいさんの背中は、日向の匂いがした。手のひらの下で、あたたかいものが規則正しく上下する。四十八の年に一晩だけ隠した体温の、これが続きである。六年越しの続きにしては、少し大きくて、だいぶ呑気だけれど。まどろみの中で、犬の心音と自分の心音が、ずれて、揃って、またずれる。誰にも見られない眠りというものを、わたくしは知らずにいた。屋敷の昼寝は、寝姿まで女主人の勤めのうちだったのである。ここでは、誰も見ていない。風と、蜂と、同世代殿だけである。
うとうとと、眠りの縁を出たり入ったりする。花の匂いは、湯と違って急かさない。まぶたの裏が明るくて、風が渡るたび、世界がさらさらと鳴る。誰にも見られていない。誰の予定にもない。昼の眠りがこんなに大きな買い物だったとは――三十七の年のわたくしは、知らないまま、窓の外ばかり見ていたのである。
目が覚めたら、陽が傾いていた。寝息は三つだったはずが、犬が腹を出して伸び、大男は律儀に仰向けのまま気をつけの姿勢で眠っている。寝相まで堅物である。
◇
同じ頃、王都にある侯爵家の屋敷から、若い夫人の馬車が出た。
行き先は実家。荷は来たときの半分で、置き手紙が一枚。――聞いておりませんわ。侯爵夫人が、こんなに地味なお勤めばかりだなんて。
欲しかったのは、きらびやかな椅子だった。座ってみれば、それは椅子ではなく、際限のない勤めの持ち場である。大広間の燭台は半分が空のまま、呼び鈴の音だけが、誰も来ない廊下を渡っていく。残った古株の料理番は、竈の火を落としながら呟いたそうである。――この家にはもう、人の名前を呼ぶ声がなくなった、と――。
◇
夕、宿に戻ると、娘からの文が届いていた。旅の便りの返事である。その束の中に一通、見慣れた、けれど久しい封蝋が混じっていた。セドリック。息子の字である。
詫び状だった。体面の話は、一行もない。屋敷が回らないという泣き言も、戻ってくれという頼みも、ない。ただ、こう書いてあった。あなたが屋敷の何だったのか、いなくなってから、毎日ひとつずつ分かるのです、と。
空気よ、と答えたのは秋のことである。あの子はどうやら、失くした空気の目録を、一枚ずつ自分で作り始めたらしい。返事は短くした。――知るのに歳月のかかるものは、上等なものですわ。お励みなさい。
書く前に、便箋を膝に置いたまま、しばらく杏の窓を見ていた。詫び状というものを、あの家から受け取るのは初めてである。あの家の詫びはいつも、なかったことにする形で済まされてきた。……三十三年育てた子が、なかったことにしない側へ、ひとりで渡ってきたのである。目の縁が熱いのは、春の風のせいということにした。
書いてから、一行だけ足しておく。庭の李の木は、春のうちに枝を払っておやりなさい、と。あの子が五つの年に登った木である。意味は、いつか分かる日が来るかもしれないし、来ないかもしれない。母親の手紙とは、そのくらいでちょうどよい。
手紙は、燃やさない。燃やすのは、わたくしの札だけである。夜の火鉢で、昼寝の二枚をくべた。
「残り、六枚。……うち一枚は、雪待ちですわ」
「峠の雪に、任務が増えました」
じいさんが宿の土間で、ふぁ、とあくびをした――。




