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21. 宛先のない手紙

 サリナまでは、川舟で六日下るのだという。荷を積んで下る老船頭の舟に、便乗の話がつく。


 出立の川港の朝は、冬の名残の色をしていた。水は鈍い銀で、岸の葦は枯れ色、それでも陽ざしだけは日ごとに厚くなる。日焼けした船頭は、客用の毛布を二枚、(とも)から出してくれた。札を使ったのは、川旅の三日目――両岸から人家が絶えた、いちばん広い流れの日である。


 舟が岸を離れると、川は見た目より速い。水面すれすれを水鳥が二羽、競うように滑り、(かい)の先から落ちる滴が、銀の水に輪を重ねていく。両岸の畑は目覚めかけの色で、風はまだ冬の味がするのに、陽の当たる頬だけはもう春である。季節の変わり目は、水の上がいちばん正直に知らせてくるらしい。


 今朝の札は『舟を、自分で漕ぐ』――三十六歳の字。添え札に『宛先のない手紙を、瓶に入れて川へ流す』四十七歳。水の上で叶う二枚を、束ねて持ってきた。


 三十六の年、遊覧の舟に乗ったことがある。飾り布の下の特等席で、岸の景色を眺める役である。若い漕ぎ手の背中が規則正しく揺れて、手のひらの豆を思った。侯爵夫人の手に、豆を作らせてはいけない。誰かがそう決めて、わたくしもそれに倣ったのだ。乗せられる側の席は、揺れまで上品で、退屈だった。退屈、と言い切るのに、少し勇気が要る。あの席は、たくさんの人が座りたがる席なのである。座りたい方には、差し上げます。わたくしは三十六年かけて、揺れの上品さより、掌の豆のほうが欲しかったと分かったのだ。


「漕がせてくださいな」


 船頭は目を丸くし、それから歯の抜けた口で笑って、櫂を差し出した。すかさず隣で講義が始まる。


「櫂は水を叩かず、押すものです。手首でなく腰で、まず視線は」


「拝聴だけ、しておきますわ」


 講義は、まだ続いている。曰く、流れは岸寄りが緩い。曰く、腰を入れれば腕は疲れない。曰く――わたくしは頷きだけを返して、櫂を水に差した。習ってから漕ぐのは、乗せられる側の作法である。今日は、間違える側の席に座りに来たのだ。


 聞かずに漕いだ。舟はただちに正直で、右へ寄り、左へ膨らみ、大きな字で川に蛇行を書いた。岸で洗濯をしていたおかみさんたちが、腰を伸ばして笑っている。船頭は舵で辻褄を合わせながら、涙を拭いて笑った。こんなに笑ったのは孫の初歩き以来だと言って、着いた先で舟賃を二割もまけてくれる始末である。笑いは、値切りより効く。歌に続いて二例目だから、これはもう法則と呼んでいい。


 笑われている間じゅう、胸のどこかが妙に清々しかった。三十七年、わたくしは笑われない完璧だけを積んできたのである。下手、という才能がこんなに風通しのよいものだとは。間違える側の席は、眺めもいいし、風も通る。


 それでも数十回漕いだころに、ふいに櫂が水を掴んだ。ぐ、と重みが腕に乗り、舟が素直に一間ぶん進む。掴んだ、という手応えは、釣りの引きとも剣の一振りとも違う。水と背中で握手をしたような感触である。船頭が、筋がいいと世辞を言い、コンラートが、世辞ではありません、と真顔で上書きした。どちらにしても、悪い気はしない。


 昼は、中州に舟を寄せてもらった。砂の上に毛布を敷き、パンと干し肉、それから紙とインク。四十七歳の札の番である。


 四十七の年、言えないことに、置き場所がなかった。飲み込んだ言葉は喉に沈むと知っていたから、夜中に手紙を書いたのである。書いて、宛名のところで手が止まり、朝に燃やした。宛先のない言葉は、行き場がないのではない。届け先を、まだ探しているだけである。


 わたくしは毛布の端で、便箋一枚ぶんを書いた。中身は、見せない。インクが乾くまで、川風が紙の端をめくりたがるのを小石で押さえておく。書いてみて分かったけれど、七年前と違って、手はもう止まらないのである。宛名の代わりに、日付だけを入れた。中身は、見せない。ただ、宛名の要らない言葉は、書いてみると存外まっすぐで、われながら少し赤面した。読まれたら困る程度には、正直である。だから蝋は、二重にした。


 書き終える頃、横から無骨な手が伸びて、紙を一枚、所望される。


「あら。あなたも?」


「……はい。一通だけ」


 岩のような背中を丸め、鉛筆を握って、この人はずいぶん長いこと書いていた。書いては止まり、止まっては川を見る。四十年、報告書を一行で済ませてきた人の一通である。長さの見当は、つかない。書き上がった二通を、それぞれ空き瓶に丸めて入れ、蝋で口を封じ、流れの真ん中へ並べて置く。瓶は二本、つかず離れず、冬の終わりの光を弾きながら下っていった。


「何をお書きになったの?」


「……守秘義務です」


「あら、わたくしも」


 二本が川曲がりへ消えるまで、二人とも、黙って見送った。言えないことは、まだある。ただ、置き場所はもう知っている。並んで流れていくのを見るくらいは、五十四歳にも許されるはずである。四十七の年、言えないことは、行き場のない重さだった。いまのは、重さが違う。瓶の中で乾いていく言葉は、いつかどこかの岸で、誰かに拾われてもよい言葉である。……拾うのが誰であってほしいかまでは、川にも言わない。


 夕、船宿の焚き火で二枚を燃やした。手のひらの付け根には、豆がひとつ、赤く育っている。乗せられる側の席を、今日、正式に降りたしるしである。


 その豆へ、横から無言で、軟膏の小さな缶が差し出された。軍支給の、角の丸くなった年季物である。指図のできる立場をやめた人は、差し出すだけ差し出して、あとをこちらの勝手に任せる。わたくしはありがたく塗って、缶を返した。役目は辞めても、旅嚢の中身は辞めないらしい。


「残り、八枚」


「八枚、です」


 船頭が火の向こうで、酒を舐めながら言った。あんたら、いい旅をしとるね。それから艫の方角へ顎をしゃくったのである。


「南は、もう花が咲いとるよ」


 川旅の残りは、あと三日。冬の袋には、まだ雪の札が一枚、残っているのだけれど――。


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