18. 世界一まずい名物と、娘
湯の町は、谷ぜんたいが薄く湯気をまとっている。石畳の隙間から白いのが立ちのぼり、路地の奥で源泉が鶏の卵の匂いを吐き、軒先という軒先に手拭いが干してある。着いた翌日、宿の前に見覚えのある旅装が立っていた。二度目なので、今度は驚かない。驚かない代わりに、胸のどこかが先に春めく。娘が来る、というだけで景色の目盛りがひとつ明るくなるのは、母親の身贔屓というものである。身贔屓は、直す気がない。
「保護しに参りましたの?」
「見物ですわ」娘は胸を張った。「文で読むのと、見るのとでは、別ですもの。……次は、わたしも行っていい? って、書きましたでしょう」
というわけで、本日は娘同伴である。今朝の札は『木に登る』――二十六歳の字。添え札に『「世界一まずい」と評判の名物を、笑うために食べる』四十歳、『果樹園で、もぎたてを齧る』四十九歳、『子守唄以外の歌を、大声で歌う』二十五歳。くだらないことに全力を出す札を、束で使う日である。
二十六の年のことは、いまでも覚えている。五つのセドリックが庭の李の木に登って、降りられなくなった。わたくしは梯子を呼び、庭師を呼び、それから叱った。危のうございます、二度となさいますな、と。でも……ほんとうは、隣の枝に登りたかったのである。あの子が見ていた高さを、一緒に見たかったのだ。叱る役は、いつも登りたい役の裏返しだった。母親は、叱った回数だけ、言いそびれた「一緒に」を溜めていく。五つのあの子の、泥だらけの靴。得意げに枝を指す小さな指。梯子の上から差し出したわたくしの手を、あの子は少し、悲しい顔で見た。……あの顔の意味が分かるまで、二十八年かかった。
湯の町の裏手の丘は、段々の柑橘園である。冬だというのに実が鈴なりで、葉の照りが陽をはね返す。園の親父に断りを入れると、登るのかい、と目を丸くされ、もいだ分は買っておくれ、と笑われた。
「お母様。まさかとは思いますけれど」
「そのまさかよ。ほら、あなたも」
「スカートですのよ!?」
文句を言いながら、娘は手袋を外している。血筋である。低い枝に足を掛け、二段、三段。五十四歳の膝が軋み、二十八歳が下から押し上げ、気づけば母娘そろって、枝の股に収まっていた。護衛殿は幹の下で、両腕を広げて構えている。二人分の落下を想定した配置だそうである。
枝の上は、風の通り道だった。段々畑と、湯の町の湯気と、遠くに冬の海が一枚。五つのセドリックが見ていたのは、こういう景色である。二十八年遅れで、わたくしはいま、登りたかった枝に着いた。隣にいるのは息子ではなく娘だけれど、遅刻の言い訳はしない。着いたことだけを、勘定に入れるのである。枝は固く、掌に樹皮の粗さが心地よい。叱る側の掌では、一生知らないままの粗さだった。
「……お兄様も、この高さを見ましたのね」
「ええ。あの子はいまだに、降り方を探しているけれど」
娘は何か言いかけ、やめて、代わりに手近の実をもいだ。四十九歳の札はここで成就である。皮を剥くと、香りの粒が霧になって散った。もぎたては、太陽の温度がする。皿と銀器を経由しない甘さが、指の先までしたたった。甘いものを、行儀の外で食べると、味の届く場所が深いのである。四十九の年に諦めた一齧りが、いま、指を伝って落ちていく。もったいないから、指も舐めた。淑女の作法は、枝の上までは追ってこない。
ふぅ……。わたくしはさわやかな酸味に包まれながら大きく息を吸った。
◇
昼は町へ下りて、四十歳の札。湯の町名物、長寿餅である。薬草を練り込んだ緑黒色の餅で、効能書きは立派、評判は「世界一まずい」。三人で一皿を囲み、同時にひと口。
――娘が固まり、わたくしは笑い出し、護衛殿は無言で完食した。
「に、苦い! 苦いというより、これは、その」
「ええ。壁土と薬味の間の味ね」
「……滋養は、あります」
娘が水差しに手を伸ばし、わたくしが笑い転げ、完食した堅物が「おかわりは」と真顔で問うて、店のばあさまを大層喜ばせた。まずいものを、笑うためだけに食べる。
四十の年には、卓に出るもの全部に意味と体裁が要った。無意味を一皿、家族で笑う。それがこんなに贅沢だとは。四十の年、わたくしは意味の重さで、少し窒息しかけていたのだと思う。意味のないものを、意味のないまま楽しむ稽古を、あの頃のわたくしに一皿、届けたい。
帰り道の柑橘園で、二十五歳の札も使ってしまう。夏至祭の輪舞の歌を、畑に向かって大声で歌った。子守唄以外の歌を、人前で歌うのは三十七年ぶりである。娘が真っ赤になって袖を引き、引きながら二番からは小声で和し、護衛殿は音を外さない低音を、石垣のように一定で支える。園の親父が拍手をくれ、代金をまけてくれた。歌は、値切りより効くのである。
二十五の年、自分のための声というものを、わたくしは子守唄の陰に置いてきた。取り戻してみれば、なんのことはない。調子っぱずれで、大声で、上等である。歌い出しの一小節、喉が他人の楽器のように硬かった。二小節目から、勝手にほどける。子守唄は誰かを眠らせる声で、これは自分を起こす声である。同じ喉から出るのに、身体の別の場所から鳴るのだから、不思議なものだ。
夕、娘が帰る。馬車に乗る前に、フェリシアはわたくしと、三歩後ろの護衛殿とを、順繰りに見る。それから、何も言わずに、にっこりした。言わないことに決めた顔である。誰に似たのだか。
言わないでいてくれる娘の隣に、言えないでいる母が立っている。……この親子は、どうにも品がよすぎるのである。せめて胸の内でだけ白状しておく。フェリシア。お母様はいま、あなたの察しの悪くないことが、少しだけ困って、だいぶ嬉しい。
「母を、よろしくね。……護衛として、ですわよ?」
「……はっ」
夜、宿の火で四枚まとめて燃やした。二十五、二十六、四十、四十九。にぎやかな灰である。
「残り、十二枚」
帳場へ鍵を返しに下りると、女将が声を潜めた。王都からのお客が言っていたという。モンフォール侯爵が、供も連れずに、南へ下っているらしい――。




