表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
17/28

17. 星の下で眠る

 南へ下る街道は、三週間の長丁場である。峠をひとつ越えるたび、冬が薄くなっていく。畑の緑が濃くなり、石垣の間に柑橘(かんきつ)の木が現れ、風の匂いから雪の気配が抜けた。南部というところは、冬の手加減を知っている土地であるらしい。馬車の窓を指一本ぶん開けて、変わっていく風を頬で計る。季節の境目を肌で越えるのは、これも生まれて初めてである。屋敷の季節は、衣替えの日付と暖炉の薪の量でできていた。本物の季節は、こんなに、なだらかで容赦がない。


 中日の宿場を過ぎると、宿のない晩がある。今朝は、冬の袋を初めて混ぜて引いた。出てきたのは、あつらえたように『星の下で眠る』――三十一歳の字。添え札に『釣った魚を、その場で焼いて食べる』三十歳。運の芝居がかりは、今日も現役である。


 三十一の年、わたくしは屋根の数を数えたことがある。寝室の天蓋、その上の天井、その上の屋根裏、その上の瓦。わたくしと空の間には、いつも四枚の蓋があった。警備と、体裁と、季節の埃よけと。星は、窓枠に切り取られたぶんしか知らない。蓋の下は、あたたかくて、安全で、そして少しだけ、息が浅かった。守られるというのは、そういうことである。蓋を数えたあの夜、わたくしは初めて、安全と引き換えに払っていたものの名前を考えた。考えて、分からないから、紙に書いたのである。


 野営の川原で、まず三十歳の札から。釣り竿は、当然のように旅嚢から二本出てきた。


「継ぎ竿です。骨組みは傘と共用です」


「その傘、雨の日に開くと竿になりません?」


「なりません。検証済みです」


 午後の川原は、水が冬の色で、光だけが暖かい。浮きを見つめるという仕事は、見た目より忙しい。流れに気を取られ、水鳥に気を取られ、気を取られたときに限って浮きが沈む。


 釣りの成績を先に申し上げる。護衛殿、四匹。わたくし、一匹。ただし当家の一匹がいちばん小さい。針にかかった瞬間の、あの手応えというものは、糸を通って心臓まで届く。竿を放り出しかけて叱られ、巻き方を教わり、水際で銀色がはねたときには、われながら年甲斐のない声が出た。掌の中で、命の重さが暴れている。三十七年、わたくしの食卓に載る魚は、いつも切り身の顔をしていた。獲る手と食べる口の間に、何人もの手が挟まっていたのである。挟まっていた手を、今日は全部、自分の手が引き受けた。


 塩を振って、串に刺して、火のそばに立てる。皮がちりちりと縮み、脂の粒が火に落ちて、じゅ、と鳴く。皿も銀器も給仕もない。自分で獲った一匹は、身が半分崩れて、少し焦げて、三十七年のどの晩餐より、話が早い味がした。


「三十歳のわたくしに、ひと口分けたいこと」


「……小さいですが」


「小ささも味のうちですのよ」


 夜は、火を挟んで毛布にくるまった。毛布は気づけば三枚に増えている。


「炭窯焼きになりますわよ、わたくし」


「暑いようでしたら夜半に自分が一部回収します」


 計画的な過保護である。南部の冬空は湿気が少なく、星がいちいち肉厚である。天の川が、ほんとうに川の幅で流れている。屋根が一枚もない。蓋のない空の下で眠るのは、五十四年で今夜が初めてである。火の当たる頬だけが熱く、鼻の頭だけが冷たい。世界と自分の間に、火の輪ひとつしかない夜である。


 火がぱちりと鳴って、ぽつり、ぽつりと、四十年の話が転がり出た。方面隊の冬の巡回のこと。街道の追い剥ぎが、実は隣村の水争いだったこと。祭り警備で、迷子を十七人届けた年のこと。


「隊長になって、何か変わりまして?」


「……呼ばれ方が」火に薪を足しながら、彼は少し考えた。「隊長、と。それだけで用が済むので――名前では、呼ばれなくなりました」


 あら、と思う。名前の札を燃やした夜のわたくしと、同じところに立ったことのある人だったのだ。肩書きというものは、上等になるほど、名前をよく食べる。


 呼んで差し上げようかしら、と思う。コンラート、と。……思って、やめた。呼ばせておいて、こちらはまだ「護衛殿」なのである。名前は、呼ぶほうが呼ばれるより、よほど覚悟が要る。その覚悟の在り処が、箱の底とつながっていることも、うすうす分かっているのである。


「ご結婚は?」


「……任務が、長引きました」


「まあ。どんな任務ですの?」


「…………守秘義務です」


 嘘が下手なのは、昔からだそうである。焚き火の向こうの横顔は、それきり火の番に戻ってしまった。わたくしも、追わない。……追わないのに、胸の奥で何かが半歩、勝手に前へ出ようとする。わたくしはそれを、毛布の襟ごと引き戻した。火の粉がひとつ、二人の間の闇をゆっくり上っていく。


 追わない理由なら、こちらの胸の奥に、裏返しで敷いてある。……もしも。もしも、箱の底の一枚とこの人が、同じ答えだったら。答え合わせが当たってしまったら、この旅の終わりは、旅だけの終わりでは済まなくなる。だから訊かない。だからまだ、めくらない。五十四歳にもなって、答えの当たることが怖い問いが、まだ残っているのである。


 紙の願いなら、燃やして終いにできる。どれほど寝かせた紙でも、燃やせば灰である。……人は、燃やせない。この願いにだけは、火の点け方も、燃やしたあとの始末も、わたくしはまだ知らないのだ。毛布の中で、胸の音だけが大きい。焚き火のせいにするには、火が少し遠い。


 星がひとつ、流れた。……いいえ、あれは春の袋の札の分。今夜は見なかったことにしておく。見なかったことにした星の尾が、まぶたの裏に長く残る。願いごとというものは、構えていない夜に限って、喉元まで出かかるのである。


 朝の熾火(おきび)で、二枚を燃やした。


「残り、十六枚」


 声に出してから、指を折り直す。冬の袋に三枚、春の袋に三枚、日付の札が一枚、いつでもが八枚、底に一枚。……減り方が、早い。旅は上り坂より、下り坂のほうが足が速いのである――。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ