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19. 言い返す。最後まで

 その報せの翌朝に限って、札がこれである。


『言い返す。最後まで』――三十三歳の字。


 袋を混ぜたのはわたくしである。仕込みではない。けれど今朝ばかりは、袋の中に軍師が住んでいる気がした。


 三十三の年の、あの晩餐を覚えている。お客の前で、ユベールはわたくしの実家を笑った。エヴレットの家格は持参金ごと買ったようなもの、という笑いである。客が笑い、夫が笑い、わたくしは扇の内で言葉を握り潰した。場を立てるのが女主人の勤めだからである。潰した言葉は喉の奥に沈んで、その夜、紙になった。二十一年、箱の中で待っていた言葉である。言葉を飲む、というのは比喩ではない。あの晩からわたくしの喉には、笑うたびに小さく引っかかる場所ができた。二十一年、同じ場所で、同じ言葉が引っかかり続けたのである。


 昼前、宿の中庭に、その人は立っていた。


 ユベール・モンフォール侯爵、五十八歳。上等な旅装に、埃と、年齢が積もっていた。半年前より、首のあたりが細い。若い恋人の隣で二十年若返っていた背筋が、いまは年相応である。


 痩せた首を見て、胸の奥がわずかに動く。憐れみか、と検分すれば、少し違う。三十七年、この人の皿と襟と客間を整え続けた手が、癖でうずいただけである。癖は、灰にするのに、紙より時間がかかるらしい。


「……探したぞ」


「あら。隠れてはおりませんわ」


「屋敷が回らん」単刀直入なのは、この人の数少ない美点である。「戻ってこい。大猟祭は……もういい。だが冬の社交が始まる。おまえの部屋は、そのままにしてある。……妻として、やり直してもいい」


 やり直しても、いい。二十一年前と同じ、上から差し出す形の言葉である。不思議なほど、胸は静かだ。二十一年温めた言葉は、出番の朝には、もう震えないのである。震えないことが、かえって少し寂しいような、清々しいような。……いいえ。今朝は、清々しいだけで参ります。中庭の冬の陽が、白く静かに、わたくしたちの間の敷石を照らしている。護衛殿は――一歩下がって、気配を消した。ここから先はわたくしの持ち場だと、正しく心得た一歩である。


 わたくしは、懐から今朝の札を出した。


「ユベール様。二十一年前の晩餐で、あなたはお客の前で、わたくしの家を笑いましたわね」


「……何の話だ」


「覚えていらっしゃらない。ええ、それがあなたですわ。笑われた側は、二十一年、覚えておりますの」


 息を、ひとつ。言葉は、湿らせない。この札は、涙で濡らす札ではないのである。


「あのとき言えなかったことを、最後まで申し上げます。――エヴレットの家は、貧しくても、娘に名前を呼びかける家でしたわ。あなたのお屋敷で、わたくしは三十七年、名前で呼ばれたことが一度もございません」


「な……にを、今さら」


「今さらですわ。今さら言うために、二十一年取っておいたのですもの」


 夫だった人は、口を開き、閉じ、それから一番言ってはいけないことを言った。


「待て。話を戻せ。屋敷が回らんのだ。おまえが、要るのだ」


「ええ、存じておりますわ。……けれどユベール様、あなたは今日もまた、お訊きにならないのね」


「……何をだ」


「『おまえは何がしたい』と。三十七年で一度も、今日も」


 沈黙が落ちた。中庭の井戸で、桶がことりと鳴る。


「わたくし、妻を辞めたのではありませんの。あなたを、辞めたのです」


 札を、目の前で懐炉(かいろ)の火種に近づける。三十三歳の字が、冬の陽の下で、音もなく燃え上がった。言うべきことは、最後まで言った。灰は、風が持っていく。燃える字を見ながら、喉の奥のあの場所が、灰と一緒にほどけて落ちていくのが分かる。声の通り道が、ひとつ広くなった。二十一年ぶんの言葉は、涙ではなく、ただの息で出て行ったのである。上出来だ。


「……その紙が、答えか」


「ええ。二十一年ぶんの、お返事ですわ」


 ユベールは、燃え尽きる紙片を最後まで見ていた。それから、初めて見るもののようにわたくしの顔を見て、掠れた声で言ったのである。


「……おまえは、そういう顔で笑う女だったか」


「ええ。旅先で覚えましたの」


 ユベールは何かを言おうと口を動かすが――言葉にならず、空回りするばかりであった。


       ◇


 馬車が去る。(わだち)の音が遠くなる。呼び戻しは、三度目で終いである。もう、追っては来ないだろう。追う資格の最後の一枚を、いま、あの人は自分で燃やして帰ったのだから――。


 見送って、わたくしは自分の胸に手を当てて、検分をひとつ。勝った、という味はしない。するのは、終わった、という味である。ざまあみろ、は言わない。言わないことに決めているのではない。三十七年を返してもらった女に、もう用のない言葉なのである。


 ――その夜。宿の中庭の火鉢の前で、護衛殿が不意に居住まいを正した。嫌な予感というものは、こういう静けさの中で当たる。


「護衛の任は、本日で終いにいたします」


「……あら。この旅、まだ終わっておりませんけれど?」


「はい。ですから、自分から申し上げます」彼は膝の上で、岩のような拳を握った。「これから先は、役目ではなく――自分の意志で、隣を歩かせていただきたい」


 火鉢の炭が、ちりりと鳴った。冬の夜気の中で、そこだけ橙色である。


「……では、危険の際の指示に従う義理も、なくなりますわね」


「はい。――ただの、コンラートとして参ります」


 ただの、コンラート。四十年の階級を全部脱いだ名乗りを、この人は敬礼なしで言った。役目という言葉は、この半年、わたくしたち二人の、行儀のよい隠れ蓑だった。役目なら隣にいられる。役目なら、手も取れる。その蓑を、この人はいま、自分から脱いだのである。……脱がれてみると、こちらの蓑の薄さが、急に心もとない。わたくしは箱の蓋に手を置いて、今夜の残数を、初めて二人分の声で数えたい気分になる。


「残り、十一枚。……道連れの験直(げんなお)しに、ひとつ申し上げておきますわ」


「はい」


「わたくし、歩くのが遅くてよ。役目でないなら、急かしても無駄ですわよ」


「存じています。……四十年、待つのは得意です」


 その返事の意味を、わたくしはまだ、訊かないでおく――。


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