定説はある程度疑え――将棋のAIと、歴史の「文字」に殺される現代(前編) したり顔の印籠 ――極小のデータに踊る現代人
テレビをつければ、八重歯の若手歴史家が一次史料を掲げて語っている。
「太田牛一の『信長公記』の記述によれば、これまでの通説は間違いで、これが真実です」
画面の向こうで熱弁を振るうその姿を見るたびに、私は胸の奥が少しばかり寂しくなるのを禁じ得ない。
これと同じ既視感を、私は現代の将棋界でも目撃している。ネットの画面の隅に表示される「AIの評価値(%)」という目先の数値だけを見て、大山康晴や中原誠、あるいは泥沼流と呼ばれたあの熱血漢・米長邦雄といった昭和の巨星たちが盤上で繰り広げた手を、「悪手だ」「疑問手だ」と断じる現代の「観る将」たちの姿だ。
誤解しないでほしい。私は彼らの努力や情熱を否定したいわけではない。米長先生があの時代に命を懸けて盤上に向き合っていたのも、若手学者が歴史の闇に必死に光を当てようとしているのも、紛れもない事実であり、敬意を表すべき営みだ。
しかし、現代の私たちは、ひとつの罠に陥ってはいないだろうか。「目の前にある、数値化・文字化された極小のデータ」が世界のすべてだと信じ込み、そこで思考を止めてしまうという罠だ。
そもそも、彼らが拠って立つ戦国時代の一次史料など、結局のところ何が残っているというのか。キリスト教布教という絶対的な目的のもとに書かれた「フロイスの報告書」と、没落しかけた貴族たちが京都の狭いコミュニティの中で書き留めた「公家の日記」。全体のほんの数パーセントに過ぎない、人間の主観が歪めた文字情報だけを引っ張り出して、「これが歴史の正解だ」と満足してしまうのは、あまりにも勿体ない。
データが極少だからこそ、私たちはその先を「推理」し、「推測」しなければならないはずだ。文字の羅列をただなぞるだけでなく、深く首を捻り、当時の人間たちが何を見つめていたのかを必死に考え抜く。それこそが、本来の学問であり、人間が持つべき大局観ではないだろうか。
「盤面」を見ない権威たち ――歴史学界の閉鎖性と保身
だが、現代の取り組み方は、その「首を捻る」という最も泥臭く、最も知的な作業を避けているように見える。それは、歴史の真実よりも「身内のコミュニティ」と向き合う時間が長すぎるからかもしれない。
日本の歴史学界や考古学界を覗けば、そこには強固な学閥と前例踏襲の壁がある。「私は太田牛一の専門」「私は鎌倉時代の専門」と細分化されすぎたタテ割りの世界の中で、学者たちは自分の得意戦法(専門)の殻に閉じこもりがちだ。戦国時代のダイナミズムを知るには経済学や心理学の視点が必要不可欠なのに、隣の専門には関心を持たず、自分の論文の体面を守るための局地戦に終始してしまう。結果として、都合の良い文字だけを抽出するチェリー・ピッキングや、身内だけで資料を独占する秘密主義が生まれてしまう。
将棋界を見習うがいい。将棋界であれば、どれだけ偉い大棋士が築いた定説であろうとも、名もない若手やAIが「こちらが正しい」と盤上で一手を示せば、一瞬でこれまでの常識がひっくり返る。事実に対して常に開かれた、完全なる実力主義の世界だ。
不都合な事実に目を瞑り、文字の奴隷となって未来への推測を放棄してしまう姿勢は、かつて最新の研究を拒絶して盤上から去っていった偏屈な古参棋士の姿と重なって見えてしまうのだ。
「部分」に殺されるな、大局を観よ
私たちは今、データや文字という「部分」に殺され、考える力を奪われかけている。
数パーセントの文字が真実のすべてを語っているわけではない。AIの評価値が人間の大局観を上回ったからといって、かつて人間が盤上に懸けた熱量や、不完全な情報から未来を推理しようとした知性まで否定される筋合いはないのだ。
だが、この国において「データを扱う者」の不条理は、学者の向き合い方だけに留まらない。話はさらに根深く、この国が抱える致命的な「国家のインフラ(病理)」へと繋がっていく。
日本という国がいかに「歴史」と「書類」を軽視してきたか。
その驚くべき国家の病理と、そんな国の中で唯一、完璧な公文書を残し続けた将棋界の奇跡について――話は後編へと続く。




