定説はある程度疑え――将棋のAIと、歴史の「文字」に殺される現代(後編)
数千年前の中国に敗北する、現代日本の「書類」
前編では、極小の文字データやAIの評価値に頼り切り、そこから先を「首を捻って推測する」という大局観を失った現代の病理について触れた。だが、この「データ」や「事実」に対する向き合い方の歪みは、個人の姿勢だけに留まらない。この国が古くから抱える、致命的な構造の欠陥――すなわち「国家のインフラ(病理)」へと繋がっている。
近頃、日本の自治体や文化庁もようやく重い腰を上げ、最新技術による調査やデジタルアーカイブ、民間へのデータ開示を「おずおずと許可」し始めた。だが、その根底にある行政の書類管理のずさんさや秘密主義、前例踏襲の足取りの遅さは、見るに耐えない。
歴史を振り返れば、日本という国は元来、客観的な「公文書」を残すという概念が決定的に希薄だった。戦国時代はおろか、古代に至るまで、私たちが個人の主観に満ちた「日記」や「報告書」の数パーセントに頼らざるを得ないのは、国家がシステマチックに記録を保存してこなかったからだ。
対比すべきは、紀元前3世紀の古代中国である。
もちろん、中国の歴史書とて「勝者の誇張」や「都合の良い書き換え」に満ちているのは言うまでもない。だが、彼らは記録の『保存』に対する熱量と執念の桁が違った。
秦の始皇帝や前漢の時代、地中から掘り出される膨大な「竹簡・木簡」のネットワークを見れば、彼らの記録への執念は文字通り狂気的だ。地方の末端の役人が、誰から、いつ、何の税をどれだけ徴収し、どう処理したかが、木札にびっしりと正確に記録され、厳重に管理されていた。誇張や嘘も含めて、すべてをひとつの「国家の巨大なデータインフラ」として未来へ残すという、圧倒的な大局観とプライドがあったのだ。
不都合な公文書をシュレッダーにかけ、改ざんし、前例がないからと歴史的調査の手続きをもたつかせる現代日本の行政は、数千年前の古代中国の官僚機構に、インフラの時点で完全に敗北している。学者と行政がもたれ合い、真実を地中に埋もれさせている現状に、私は強い憤りを覚えざるを得ない。
将棋の「棋譜」という奇跡 ――この国に残された魂の公文書
国家が書類を軽視し、歴史の真実を霧の彼方に消し去っていくこの日本において、しかし、唯一の「奇跡」として完璧に機能してきた公文書がある。
それが、将棋の「棋譜」だ。
江戸時代、家元たちが将軍の前で指した「御城将棋」の記録から現代に至るまで、棋士たちは自らの思考のすべて、命がけの呼吸のすべてを「一手、一手」の文字として完璧に保存し、誰もが検証できるようオープンにしてきた。
ここには、行政のような隠蔽も、学界のような秘密主義もない。盤上で起きた事実に100%誠実に向き合い、何百年もの間、人間の知性の足跡を執念で守り抜いてきたのが将棋界なのだ。
だからこそ現代の棋士たちは、自分たちが何百年も美しいと信じてきた定跡や美学を、AIという異形の知性に「評価値」という数値で一刀両断に破壊されてもなお、その事実を誠実に受け入れ、血肉に変えて進化を続けることができる。
文字の奴隷となり、保身のために情報を独占する歴史学者たちへの最大のカウンターが、この「棋譜」という完璧な公文書と、それをお互いに共有し合ってきた将棋界のクリーンな実力主義の歴史なのだ。
誠に遺憾ながら ――未来の答え合わせは見届けることができない
歴史も、将棋も、人間が生きる営みだ。データや文字の裏には、必ず「書けなかった嘘」や「すくい取れなかった情熱」がある。だからこそ、私たちは手元にあるデータを受け入れつつも、「ある程度疑い」、首を捻ってその先を推測し続けなければならない。
しかし、歴史とは実にもどかしく、そして残酷なものである。
これから先、重い腰を上げた行政が少しずつ調査を進め、さらに決定的な新しい史料が地中から発見されれば、今の若手学者がしたり顔で語っている定説など、誠に遺憾ながら、あっさりとひっくり返るだろう。
だが、その本当の「新発見」がもたらされ、真実の答え合わせができる頃、テレビでドヤ顔をしていたあの学者たちはもう現役を退いているか、この世にはいない。
……東北の空を見つめながら、こうしてペンを握っている私自身もまた、この世にはいないのだ。
私たちは誰も、自分が生きている間に、歴史の本当の未来を見届けることはできない。
だからこそ、私は今、この限られた生の中で、データや文字に殺されない「人間の大局観」について、どうしても書き残しておきたいと思ったのだ。




