009「崩壊した町で 9」
住宅地な中を琥珀の背に揺られながら進んでいた天月は、ようやく仁成の意図に気付いた。
「くそっ、あのクソガキめっ。初めから私だけ逃がすつもりだったな。くそっ、くそっ、くそおおおおおおおお」
仁成の手の平で転がされていた事にようやく彼女は気付いた。
天月彩音は元々軍人になるつもりなど無かった。幼い頃の夢は女の子らしく、アイドルやモデルといった華やかな世界に憧れる普通の女の子だった。
だが、中学を卒業前に彼女が暮らした街は瘴気災害に巻き込まれ、彼女を含む多くの住民は着の身着のままの状態で避難を余儀なくされた。
そして、避難先となった隣町に彼女を迎えに来る家族は一人もいなかった。
15歳。進学先の地元の高校も廃校となり、頼る親戚もいなかった彼女の生活は苦しいものだった。
そんな彼女に転機が訪れたのが3年後の18歳の時。国が定期的に行っている魔力測定。彼女も幼い頃から何度か受けていたが、一度も魔法師基準に達するような数値が測定されたことは無かった。
だが、その日彼女は準魔法師基準の数値が認められた。
魔力は誰もが持っている。ただ、魔法や強力な魔道具を扱えるだけの魔力を持つ者は少ない。
国が定める魔法師基準に達する者は百人に一人。日ノ本の人口割合から言えば100万人ほどいる計算になるが、全ての人が魔法士を目指すわけではない。
何より、この基準は魔法師になるための最低条件を満たしたに過ぎず、魔法師になるためには長い訓練と実績が必要となる。
その基準には達していた天月だが、彼女には魔法士育成を目的にした学校に通う金も、または魔法士に師事するコネもなかった。
だから彼女は軍に志願した。
軍では準魔法師でも魔法師育成課程を受講することができ、ついでに給料も出る。準魔法師資格でも、民間では貴重な資格として重宝されているため、条件を満たしていても資格を取るための道が無い人は、この軍に志願する人も多い。
ただし軍で準魔法師と魔法師資格を取った場合、最低でも五年以上の軍役に就くことが義務付けられていた。
軍に入隊した天月に待っていたのは過酷な戦闘訓練かと思いきや、彼女が苦手とする座学だった。
これは、わざわざ軍に志願してまで魔法師資格を取りに来る者の多くが、金銭的な理由が多く。魔導学の基礎も学んでいないものが多いためだった。
午前は基本的な基礎教育から始まり、言葉遣いや礼儀作法。そして彼女の場合は魔法師になるための、専門知識も学ぶ必要があった。
同時に体力と戦闘訓練も始まり、入隊から数ヵ月は彼女にとって地獄と言える程過酷で濃密なものとなった。
何度か脱走も考えたこともあったが、訓練課程も半年が過ぎた頃、彼女の魔力は再び上がっていた。まだ魔法師基準には達していなかったが、魔力の成長速度と伸び幅は目を見張るものがあり、彼女は準魔法師過程から密かに魔法師過程に変更され、訓練が続けられた。
その結果。彼女は二年間の訓練課程の間に魔力が大幅に上がり、魔法師資格を取れるまでに成長していた。これはかなり稀な事だった。
魔力の覚醒する期間は三つに分けられる。生まれながらの先天性魔力覚醒者。3から14歳前後までの期間に覚醒する普通魔力覚醒者。そして、15歳以上で覚醒する後天性魔力覚醒者の三つ。
この中で後天性魔力覚醒者は、一部を除き魔力の成長が見られない事が常識であり、準魔法士級の彼女も漏れなく他の後天性魔力覚醒者と同様に期待されていなかった。
しかし、風向きが変わったのは軍入隊から初めての魔力検査を受けた日。
先天性、及び通常魔力覚醒者は三ヵ月に一度、年に計四回受けるこの魔力検査は、後天性だけは半年に一回とされていた。
その半年に一回の魔力検査で、天月は魔法士の入り口である六等級後半。つまり五等級に迫る魔力に成長していることが発覚した。
この結果を受け、天月は準魔法士課程から魔法士課程へ転課。課程修了から通常勤務をこなしていた三年後のある日、部隊幹部から「給与アップと退役後のキャリアもあるぞ」と唆され魔導兵課程を受修、修了後元の部隊に戻るかと思いきや特殊魔導旅団の補助部隊に転属。
彼女はそこでも頭角を現し、一年前にこれまた幹部に騙される形で受けた特殊課程を修了したの後に、特殊魔導旅団に配属され現在に至っている。
「くそがっ」
天月は自分に腹を立てていた。
全快には程遠い状態だったとしても、彼女は軍人であり、それもエリート部隊である特殊魔導旅団の魔導兵である。その彼女は今、魔導の心得を何一つ受けた事ない仁成に再び助けられた。助けなければいけないのは自分の方なのに。
だが、残り時間がないと言った瞬間の仁成の顔から、「仕方のない大人だなぁ」と聞こえた。そして最後に見た顔は「あとは任せなさい」だった。
仁成には伝えなかったが、彼女は高所から硬いコンクリートの上に落下したことで全身の骨が折れていた。また、魔境内で活動をするために必須な瘴気対策装備の故障も重なり、絶体絶命の状態だった。
瘴気を溜め続けた生物は、身体機能に影響が出始め、最期は中毒による死か衰弱死が待っている。
彼女は徐々に機能を失っていく装備に焦り、余分に魔力を消費して生命力の補助に当てながら身体を癒し続けた。
そして近寄って来る魔獣を撃退すること三日。何とか歩ける状態になった彼女は、バリケードと明かりの見えるホムセンに望みをかけ、動き出した。この時、重たい装備も脱ぎ捨てている。
ホムセンに到着してからも、彼女はすぐに脱出することは叶わなかった。
結局、二週間近い時を療養せねばならず、彼女は身体の治癒と同時に魔力を瘴気の中和にも当て続けた。それでも瘴気が身体を蝕む方が早く、彼女に残された時間は無くなり続けていた。
さらに身体の痛みや傷は癒えたとしても、体力までは完全に回復していない。一部の骨は歪んだまま、帰投後に手術と治癒士による治療が必要な状態。
常に身体を魔力で強化しなければ、歩く事さえ難しいのが彼女の現状だった。今も魔力強化を切れば、琥珀の背から振り落とされる。普段の自分なら、自前の握力だけで何とかなっているはずだった。
あの三発の射撃も、瘴気の中和を切ってまで行った命がけの射撃。それでも、灰炎には掠り傷一つ与えることが出来なかった。
己の不甲斐なさを忌々しく思いながらも、同時に万全の状態だったとしても、今持っている型落ち装備では、以前よりもさらに強くなっている灰炎を相手にすることは出来ない事も理解していた。
「死ぬなよ」
彼女に出来ることは、自分を救い、逃がしてくれた仁成の無事をただ祈るだけだった。
天月が仁成の心配をしていた間、当の本人は土手上で堂々と灰炎に姿を見せつけながら南下を続けていた。時折、灰炎が琥珀たちの方向に向かわない様に、ショットガンを大きく振って挑発も忘れない。
「おー、おー。奴さん随分切れてるなぁ。それだけ人間が憎いってことか」
住宅と瓦礫が混在する中を、灰炎はまるでアメリカの広大な荒野に真っ直ぐ伸びる道路を走っているかのように、一直線に仁成に向かって突き進んでいる。
普通ならあり得ない光景を前にしても、仁成は慌てることは無かった。
たった二ヵ月。だが、そのたった二か月の間に彼は濃密な体験と光景を見続けて来たことで、既にこの魔境に毒され適応していたのかもしれない。
南からは灰炎とまではいかないが、車と変わらない速度で合成獣が月夜を追って迫ってきている。
仁成の作戦はこの合成獣と灰炎を戦わせ、その間に北の耕作地帯を通過することは変わらない。天月が勘違いしている訳ではなく、仁成が作戦の全貌を話していないだけ。
仁成の射撃技術は高くない。たかが二か月程の弾丸を節約しながらの訓練で上手くなるはずもなく、アサルトライフルでも有効射程は50mを下回るだろう。実際、ホムセンまでの道中でも30mほどまで引き付けてから発砲している。
だからこそ、天月の存在は大きい。この作戦は間違いなく彼女の存在失くして成立しなかった。
彼女の魔力制御と長距離射撃を可能とする射撃技術。そしてそれを可能とする魔導銃があるからこそできた作戦。
もし天月にその技量がなければ大人しく下がるしかなかったが、彼女が最も得意とする事が狙撃だったこと。その事を雑談の中で聞いて覚えていた仁成は、彼女に一番重要な灰炎を挑発するための役目を託した。
しかし魔導銃と言えど、使用するのは中距離に最適化されているアサルトライフル。長距離射撃を可能にするには、彼女の持つ魔力のほぼ全てが必要とし、撃てたとしても最大4発。その後は魔力が自然に回復するまで、ちょっと強い一般人になり下がると作戦前に天月は話していた。
実際彼女は挑発が成功した瞬間に、仁成のことなどお構いなしに我先にと逃げている。だが、彼女の走る速度はとても遅く、そして歪だった。
だが、天月は見事に自分の役目を果たした。
そして逃げ切れるか怪しい琥珀と千影も一緒に、彼女も始めから逃がすことにしていた。ただ問題が一つ。あの熊が逃げる天月に向かっていく可能性があること。それを防ぐには、誰かが目立つ場所で灰炎を引きつけなくてはいけないことだった。
そして、その役目が出来るのは自分しかいない。
この危険な役目を引き受けたのは、別に仁成が死にたがりなわけでも、彼女に惚れているからとかではない。単にチラチラと拝ませてもらったお礼程度のつもりだ。最悪、早死にするだけ。そんな軽い気持ちで仁成は土手を走っていた。
童貞のまま死ぬのは癪だが、善行を積んで死ぬんだから多少は天国にも行ける確率が上がるだろうとか。一応、灰炎相手にも逃げ切れる月夜が、自分を助けてくれる可能性もある。
そのほんの僅かな望みに賭け、仁成は何となく引き受けた。
「まぁ、男だしな…。それをいうとあれか…。月夜は女だったな。その女頼りの作戦で格好つけてる俺って、だせぇなぁ…。まぁ、いっか」
仁成は天月と月夜の働きに感謝しつつ、ついに足を止めて灰炎に身体を向けた。その両手に持つショットガンに集中する。
おそらく、天月の話から仁成は無意識に魔力を魔導銃に注いでいる。
まだ魔力という見えざる力を感じることも、見ることも出来ない。だが、今はその力を意識してショットガンに注ぐ。注げているかどうかなどこの際どうでもいい。お呪い程度の気持ちで、仁成はあるかどうかも分からない力を注ぎ続けた。
「天月の姉ちゃんみたいに銃が光らねぇんだよなぁ。あれ格好良かったから、俺にもできねぇかなぁ?」
仁成は天月が見せた光りを思い出しながら、魔力?を注ぎ続ける。
しかし、仁成は一つ勘違いしている。確かにあの光は魔力だが、あれは彼女が極度の緊張化で射撃に集中するあまり、魔力制御を乱したことで溢れてしまった魔力。それを彼女はまた拾いつつ銃に注いでいた。
魔力の可視化現象は、新人がよくするミスである。見た目は確かに映えるかもしれないが、魔法師としては未熟な証拠でもあった。
そんなことを知らない仁成は、既に100mを切りそうなほど近付いて来た灰炎を前に、暢気に光を出そうとしていた。
「出ねぇ。まぁ、いいか。生き残れたら、天月の姉ちゃんに教えてもらえないか聞こうかな。まぁ、その機会が来るかはさておき、後ろはどうなってるかな」
軽く後ろを振り返り月夜との距離を確認した仁成は、やはり彼女は強く賢いと改めて思った。先程より走る速度を上げ、しっかりと合成獣の攻撃を躱しながら誘導を続けていた。
月夜からは灰炎の姿は見えていないはずだが、土手先から舞い上がる砂埃から、あとどのくらいで灰炎が仁成に到達するか推測し、合成獣と灰炎をぶつけるタイミングを調整している。
「さすがだね。あれでまだこの辺りだと中堅くらいなんだろうな。そう考えると灰炎よりやばいよなぁ」
月夜と一瞬視線を交わした仁成は、再び視線を正面に戻す。ほんの一瞬視線を外していただけのつもりだったが、既に灰炎は仁成まで50mを切るまで近付いている。
前回は500m以上離れた位置から見た。その時も大きいと感じたが、今はそれよりもさらに大きい。
間違いなく、この一帯の魔獣の中でも最強の一角に数えられる魔獣。
その最強は、あの長い距離を速度を一切緩めることなく迫って来ていた。
「40、30・・・」
仁成は灰炎との距離を呟きながら、足元の土手下まで来た灰炎を見て足を止めて相対し、ショットガンの銃口を向ける。
まだ、撃たない。
1mでも近い距離で、ショットガンの弾丸をその無駄にでかい身体に撃ち込む。
俺なら出来る。あの硬い蜥蜴を一発で仕留めたこのショットガンなら出来ると信じる。
逃げ出したい気持ちを押し込み、震える手足に無理やり力を籠める。
引き金を引き絞りたい気持ちを抑え、人差し指だけ力を抜く。
まだ。まだ。まだ。
灰炎が一歩近づく度に、その身体を覆う炎の熱で仁成の皮膚はチリチリと鋭い悲鳴を上げる。
耐火性も備えているはずの服もあまり意味を成さず、仁成の全身を熱く焦がし続ける。
厚い手袋越しでも伝わる銃の熱は、それを包む手を容赦なく爛れさせ、添える頬の肉の焼ける匂いが鼻を通り抜ける。
それでも仁成は動かない。
腕や足を飛ばせるとは微塵も考えていない。
一発でもいい。ほんの僅かな違和感でもいい。何なら、当たらなくても良い。
合成獣に有利な状況を作り出すために。たったそれだけのために仁成は立ち続ける。
まだ土手に上がり切っていないのに、灰炎は仁成を見下ろし、覆いかぶさるようにその巨躯で影を落す。
仁成は目の前にゆっくりと迫る鋭く、そして燃える爪を視界に収め、灰炎の赤く燃え上がる隙だらけのどてっ腹に向けて、ショットガンの引き金を引き絞った。
ードンッー
銃声と共にショットガンは原形を留めないほど壊れた。だが、少なくとも銃弾は命中した。それを見届けた仁成は射撃姿勢のまま、迫る灰炎の憎しみと怒りの籠る眼を見詰め返す。
「さ、ずか。づ、きよざん、でずねぇ゛」
灰炎の炎の熱気は、仁成の喉を通り肺を焦がす。息さえ苦しい中でも、仁成は月夜を信じ立ち続けた。
そして、爪が仁成の肩から胴を引き裂こうとしたその一瞬。毛先を燃え上がらせた黒い影が爪よりも一瞬速く通り過ぎて行く。
それに遅れて、何も無い空間を爪が引き裂き、その勢いのままに土手のアスファルトが大きく抉れた。
そしてほぼ同時、灰炎の巨躯に無数の牙が殺到した。
飛び掛かって来た身体は、まだ灰炎より少し小さい。だが、パワーはほぼ互角。スナイパーライフルの銃弾さえ弾く硬い毛と皮膚をものともせず、合成獣の牙は皮膚の下に届き、灰炎が久しく感じていなかった痛みを与え、血を流れさせる。
合成獣は仁成の作戦通り、目の前をハエの様に走り回る小物ではなく、より自分の餌に相応しい獲物、灰炎に標的を変えた。
そして、ほぼ同格に近い怪物同士の生存闘争の火ぶたが切って落とされた。
全身を炎に包まれ爪に引き裂かれそうになっていた仁成を、間一髪のところで口に咥えて救出した月夜は、全身に魔力を漲らせながら全力疾走で増水した河川に飛び込んだ。
流れる水の勢いに負けない様、爪を伸ばして川底にしがみ付き、仁成を咥えたまま月夜も全身を水に浸ける。
仁成の身体から燃え上がる炎と熱は、しばらくの間流れる水を沸騰させ続けていたが、徐々にそれも治まり始め、身体から炎と熱は水に溶けて行った。
月夜自身も、ほんの一瞬目の前を通過しただけで毛先は燃え、仁成を咥えた口内は焼けていた。しばらくは柔らかい物しか食べられないだろう。
自身の傷も冷やし終え川から上がった月夜は、川上からこちらの様子を窺う鰐を一瞥すると、すぐに子供達の匂いが香る北西に向けてその場を後にした。
去る彼女の背後では、二体の魔獣の激しい戦いによって生じた轟音が空気を震わせ、高く上がり続ける砂煙は風に乗り、辺りを夕闇に変貌させた。時折真っ赤に燃える炎が砂煙の中で昇るその様は、現実とは思えないほどの光景をこの世に顕現させていた。
天月は仁成の指示で動く琥珀たちにされるがまま、以前仁成が整備場に帰るために計画していたルートを通って北に抜けていた。
「っ!あの音はっ?!」
琥珀たちも気になるのか、その場に止まって山林で遮られた仁成と月夜がいる方角に顔を向けた。天月も琥珀から降りると、二頭が見詰める方角に身体を向ける。
鳴りやまない轟音。それは作戦が成功したことを報せていた。
「本当にやりやがった。あのクソガキ…。それに比べて…」
しがみ続けたことで震える手に視線を落としていた天月は、裾を強く引っ張られた。
背後を見ると、彼女の服の裾を咥えた琥珀と、西に鼻先を向けて待機している千影の姿があった。
「お前ら、まだ子供だろ?母親だって無事か分からないのに…なのに強いな」
琥珀の頭を撫でながら、顔を上げた。
そして琥珀を先頭に天月を背に乗せた千影の二頭は、大地主が居なくなり静まり返った耕作地帯を一路、県道に向けて駆け出すのだった。
それからしばらく、天月たちは一度も魔獣と遭遇することなく仁成が曲がった交差点まで来た。そして通過しようとした瞬間、一段と激しい轟音が暖かい空気と共に天月たちの元にも届いた。
二頭は再び足を止めると、灰炎と合成獣が戦っているであろう方角に振り向いた。
小さな山林があるため、実際にその戦いを見ることは叶わないが、巻き上がる竜巻に混ざる様に昇る火柱が天月たちの目を釘付けにした。
「・・・行こう」
少しだけ足を止めていた二頭は、天月の言葉に素直に従い魔獣の気配が一つもない耕作地帯を、常外の光景を背後に従えて進み続けた。
交差点から西にさらに進んだ先、田畑は徐々に狭くなり一山越えるだけ短い峠道に差し掛かる。
この峠を越えると再び北西の耕作地帯に入り、そのまま道なりに休まず走り続ければ、1日もしない内に目的地である軍が駐留している関所に辿り着く。
天月が2日と言ったのは、道中どうしても避けられない魔獣との戦いや、想定したルートが通れない事も考慮しての日数。街の中心から歩いたとしても、二日圏内にどの関所もある。
「ここで…一時間だけ待とう」
峠に入る手前、町のスポーツ推進のために設けられたであろうテニスコート。周りを囲んでいたであろうネットは一部だけ残し、柱だけが寂しくコートを囲んでいる。
天月は設置されたベンチに座り、道中でも飲んでいたペットボトルの水を一口飲み、大きく息を吐いて気分を落ち着かせる。
「あれに、仁成は立ち向かったのか…」
天月は少し震える手を見ながら、先程山を挟んで見た光景を思い出していた。
魔獣を狩ることを目的に設立された部隊に所属する彼女にとって、さほど珍しくない光景の一つ。それこそ、手が震えるほど恐怖した事はここ最近は記憶にない。
これほどの恐怖を感じたのは、入隊して三年目の初任務。三等級の魔獣の討伐の補助任務以来だった。だが、その時と今では状況が全く違う。
傍には頼れる部隊の先輩や仲間がいた。
戦闘補助に、瘴気から身を護る兵装に身を包んでいた。
最新の魔導銃やその他兵装は、自分の全力でさえ壊れないほど強度と威力を持ち合わせていた。
だが、今はそれら全てが何一つ揃っていない。
身に付けていた装備は、落下時の衝撃で機能を失い動かなくなった。運ぼうにも全身で軽く100kgを超える重装備。運搬は諦め、破棄せざる負えなかった。武器も何時の間にか手元から無くなっていた。
あるのは外骨格に取り付けていた大口径の拳銃一丁のみ。それも潜伏時に襲えって来た魔獣を倒すためにマガジンの半分以上を消費していた。
そして仁成と出会い、今では正規軍でも使われなくなった数十年前の骨董品を渡された。正直、それを渡された時の彼女は「こんな古い玩具でどうしろと?」というのが正直な気持ちだった。
魔導銃ではあるが、組み込まれた魔導術式は最新の物に比べ、効率も威力も半分以下。リミッターが解除されているおかげで、魔力を余剰に込めれば第四等級の魔獣に傷を負わせることができるかどうか。
何より、整備時にわかった懸念がもう一つ。銃に施された魔導術式があり得ないほど摩耗していた事だった。
仁成がどれほど魔力を込めていたかは知らない。だが、例えリミッターが解除されていたとしてもここまで摩耗することは稀。それこそ、二級以上の魔法士が使っていたなら話は変わるかもしれない。だが、仁成は魔導に関しては素人。そんな彼が、どうやってこれほどまで術式を摩耗させることが出来たのか。
答えは一つしかない。
仁成が二級を越える魔力を有し、魔力を無意識化で操れる才能の持ち主だということ。
その事実に彼女は背筋を凍らせた。
もう一つ、彼女は瘴気汚染の問題も抱えていた。
その問題を解決する方法は至って単純。出来るだけ早くこの区域から離れ、瘴気除染を受けること。それだけだった。だが、すぐに脱出できるだけの体力が残っていなかった彼女は、焦りもある中で仁成に世話になりながら回復に専念した。
そしてようやく身体の痛みが消え、脱出できる段階まで来た時、脱出路の全てが塞がっていた事に、彼女は初任務の恐怖を再び感じ始めていた。
だがそんな彼女を他所に、仁成は大胆な作戦をその場で立て、実行して見せた。
「はぁ、情けない大人だ。お前らもそう思うだろ?あれ?」
さっきまで近くに伏せていたはずの琥珀と千影。その姿は何時の間にか、忽然と消えていた。
すぐに天月は周囲を見回したが、痕跡は何処にも無く、まるで初めから一人だったかのようにテニスコートは静かだった。
ベンチに力無く腰かけた天月は、膝に肘を置き、額を合わせた手の上に乗せた姿勢のまま、脇に置かれたアサルトライフルを一瞥する。
それはまるで餞別だと言わんばかりに存在を主張していた。
そして天月は、自分を置いて消えた琥珀たちに。いや、仁成にしてられたことを悟るのだった。
そして、彼女の傍には少し涎で濡れたメモ帳が置かれていた。
「あぁ~、失敗したぁ~」
メモ帳をパラパラ捲ること丁度真ん中。そこに仁成からの伝言を見つけ、天月は再び自分の不甲斐なさから肩を落とすのだった。
灰炎と合成獣の戦いは互いに一歩も引かない激しいものとなっていた。
戦いが始まった当初、初撃で無数の傷を与えた合成獣の方が有利に戦いを進めていた。だが、本腰を入れ始めた灰炎の力の前に、何時の間にか均衡し、そしてやや灰炎が優勢になり始めていた。
しかし、これは合成獣と灰炎の実力差を考えれば、あり得ない状況とも言えた。それもこれも、全ては仁成が身を挺して作り出した灰炎の隙があったからこそと言える。
そのおかげで自分よりも格上の灰炎を相手に、合成獣はほぼ互角の戦いを繰り広げることが出来ていた。
灰炎が相手にしている合成獣の特徴は、何と言っても格上相手にも怯まない精神力と、身体的な頑強さと再生力にある。一言で表せばタフなのだ。
そのタフさを支えているのが、取り込んだ様々な魔獣が持つ魔臓を、そのまま取り込み自身の物にしてしまうことで生まれる大量の魔力のおかげである。
複数の魔蔵を持つことで、本来なら出来ない事を2つも3つも両立させている訳である。
対して灰炎は魔獣としての格では合成獣より一段と半分ほど上。
格が一段違うだけでも、体格も膂力も体力の差は大きく広がる。何より、体内の魔臓の大きさと性能も格段に上がる。
合成獣が魔蔵を取り込んだことでその不利を補ってはいるが、それでも単体が持つ魔力総量は灰炎の方が高い。
そのため重傷を負った今の状態でさえ、灰炎は合成獣よりも単純に強い。
だが、何故か戦いは拮抗した状態が続いていた。
その理由は単純に、灰炎が全力を出していないからである。
灰炎の増悪と怒りは常に人間に向いている。そしてその怒りは、狩り損ねた獲物に向いていた。
自分の母を殺し、狭い檻の中に長年閉じ込め続け、僅かな餌で見世物にし続けた同じ人間である仁成と天月の二人に。
灰炎は目の前の敵を倒したら、すぐに匂いを辿り追うつもりでいた。その人間に従っている犬たちも、自分の腹に収めるために。
そのための体力を残しながら、灰炎は戦っていた。別に相手を舐めている訳ではない。このくらいで十分だろうと全力で戦っていないだけである。
だが、何故か倒せない。
今の自分ならこの程度の傷では死ぬことはないし、戦いに影響もない。既に自身の炎で傷を焼き、血は止めている。
実力差を考えれば、すでに決着が付いていてもおかしくないはずだった。
灰炎は気付いていなかった。今の自分が普段よりも少しだけ、ほんの僅か実力を出し切れていないことに。
そしてそれを生み出したのが、灰炎自身が侮り、真正面から向かって行った人間の手によるものだとは思いもしないだろう。
仁成の放った銃弾は灰炎に届いていた。
灰炎が纏う全てを溶かす炎を超え、その下に待つ硬い毛を掻い潜り、さらに硬く厚い皮膚を貫いた。
たった一粒の弾丸。その一粒が灰炎の魔臓に食い込み、僅かな傷を与えていた。
その僅かな傷は、灰炎をじわじわと追いつめていた。
何時もよりほんの僅かだが、魔力が弱く。何時もよりほんの僅かだが、魔力の動きが鈍い。
言われなければ気付かないほどの僅かな違和感。
それが、仁成がかました奇跡。
それに気付かないまま、灰炎は戦い続けていた。
そして、戦いが始まって一時間、その時は急に訪れた。
灰炎が纏っていた炎の勢いが落ち、そして一瞬消えた。炎はすぐに戻ったが、少し経つとまた同じ様に勢いが落ち始め、また消えた。
それが数回繰り返されたのち、炎は消えたまま戻らなかった。
初めてのことに灰炎は一瞬怯んだ。そして、それが致命的な隙を産んでしまった。
合成獣はその隙を見逃さず、灰炎の喉元に最も強い牙を持つ頭を食い込ませた。それに続いて同じ形の四本の足と違う形の二本の足が、例え折られようと引き千切られようともお構いなしに、灰炎の身体にしがみ付き放さない。
他の頭や眼は自然に瞼が落ち、全ての力を一つの頭に集中させる。
すると灰炎に突き立てていた牙と顎に変化が起き始める。
それまで分散していた魔力が集中したことで、一瞬だけ灰炎を上回る膂力を得た。
その瞬間、合成獣の牙は灰炎喉深くに突き刺さり、喉笛を嚙み千切った。
魔力を集中させた反動か、それとも自身が扱え切れない力を使ったからか、喉元に食らいついていた頭はほんの僅かに膨張し、破裂する。
同時に暴れる灰炎に合成獣は吹き飛ばされ、そのまま動かなくなった。
灰炎は今自分に起こっていることが分からず、混乱したまま暴れ回る。
それでも、これまで培ってきた経験から、無意識に魔力を喉に集中させ、噛み千切られた部分を再生させようする。
だが、魔力は乱れ狂い、出そうとも思っていない炎が勝手に身体を纏う。
かと思えば前脚に魔力が集中し、叩きつけた地面ごと前脚が砕ける。
また炎が勝手に身を纏い、今度は際限なく上がり続ける火力は自分自身を焼き続ける。
そして、灰炎は自身が生み出した特大の火柱の中で、息絶えるのだった。
静まり返る住宅街。そこには二体の魔獣の死骸が転がり、辺り一面は焼け野原に変わっていた。
それからしばらく、避難し隠れていた様々な魔獣が姿を現し始めると、二体の魔獣の死骸に群がり、骨の一本まで残さない勢いで食べ始めた。
合成獣の方はまだ息はあった。だが、過度な魔力の行使に魔蔵が耐えられなかったのか、それとも再生が追い付かないのか、生きたままその身を食われ続け、やがて全ての瞳から光が消えた。
こうして、町を支配していた魔獣の一角は崩れ落ちたことで、北の耕作地帯では、しばらくの間魔獣の縄張り争いが激化する。
その一方、町に混乱を招いていた合成獣がいなくなったことで、町の西側には平穏が戻るのだった。




