034「彷徨う魂 4」
光さえ消える闇が支配する虚。そこにまた、堕ちて来た魂が姿を現した。
腰の少し上まで伸ばした艶のある栗毛の髪を靡かせ、胸元が大きく広がったスーツから覗く谷間は、一歩歩く毎に大きく揺れて擦れ違う男達の視線を独占している。
しかし女はそんな視線など一切気にせず、紅いヒールを履きこなして颯爽と街中を進む。そして、鏡のように磨かれた陳列窓の前止まると、そこに映る自分の姿を様々な角度から確認し始める。
少し釣り上がった大きな瞳は自身に満ち、少し薄めの唇には明るめの口紅が艶やかに光っていた。
軽く髪を整え再び歩き始めた女は、その後も街行く男たちの視線を浴びながら、ビジネス街の人混みの中に消えて行った。
「ほう。これは中々だな」
まるで映画館の様に真っ暗な闇の中に映る光景。それを映像の中に映っていた女の横に立ち見ていた仁成は、耳元で囁くように話す声に意識を向けた。
「この人、何やったの?」
「見てれば解る」
声の主はそれだけ告げると、黙り虚ろに溶け込み気配を消した。
未だその姿を互いに知らないその声の主は、この虚ろを管理する者であり、仁成をこの虚ろに堕とした張本人。彼か彼女かは分からないが、その存在は度々仁成を連れて、虚ろに堕ちてきた魂の記憶を見せた。
そして今回も管理者に呼ばれた仁成は、一人の女の人生を見せられていた。
仁成は気配を消した管理者から意識を外すと、目の前で上映され続ける映画に視線を戻した。
場面は変わり、女はオフィスビルの中で六人の男女とテーブルを囲み、商談を進めている所だった。ただ、何を話しているのかは分からない。
この映画の主演である隣に立つ女は、その見た目から西洋人。話す言語は英語に近いが、仁成は日本語しかまともに話せない生粋の日本人。映像の中で何が話されているかなど、分かる訳がなかった。
字幕の無い映画を延々と見るだけ。だが、虚ろでは唯一と言っていい娯楽はこれくらいしかないのも事実だった。
仁成は映像から少し視線を外し、隣で一言も喋らず、ただ映像を見続ける主演女優の顔を覗き込んだ。
その女の顔は、映像の中に映る若い女の面影を残しつつも、年齢とともに増えた深い皺に加え、化粧はそれを隠すように濃く、派手になっていた。
だが、その表情はこれまで堕ちて来た魂同様に、何の感情も浮かんでいない。まるで感情の無い人形のように、ただじっと目の前の映像を見詰めている。
映像は再び変わり、少し歳を重ねた女の姿が映る。
女を中心に三人の男女が小さなオフィスに集まっている場面。
全員にスパークリングワインが注がれたグラスを手に取ると、乾杯して祝杯を挙げる。
女の年齢はまだ若い。二十代中頃か三十に届かない当たりだろうか。そこに集まる男女も彼女と同年代と思われた。
「起業っぽい感じだな」
それからの日々は、豪雨後の河川の様に怒涛の流れで過ぎて行く。女はどうも社長らしく、資金集めのために銀行や投資家の元を訪れたり、若手実業家が集まる懇親会、メディアの取材など多岐に渡る仕事をこなしながら、生き生きとした姿を見せている。
さらに時は進み、女は二十代から三十代へ。その容姿は生来の妖艶さにさらに磨きがかかり、そこに落ち着きと余裕のある大人の女性へと成長した女がいた。
自信に満ちた二十代の頃と違い、颯爽と歩く姿にもその違いが見て取れた。だが、街行く男達の視線を集めている所は変わらない。
「う~ん、まだ分からないなぁ」
この記憶を辿る映像は、魂によって大きく変わる。幼少期から始まる魂もいれば、大人から始まる者と様々。ただ共通していることは、その魂にとって人生の分岐点となる場面であること。
だが実際には違う。仁成が見ている映像は部分的な記憶。当事者である魂は、自我が芽生えた頃から命が終わりを迎えるその時まで、魂に刻まれた生涯を見ている。
二十代の頃と違い、女が歩く街並みは毎回違う。歴史ある町並もあれば、高層ビルが立ち並ぶ大都会まで様々。その中には日ノ本の首都、京の都もあった。それら行く先々の街で商談らしき光景が延々と続いた。
ここまで来れば誰にでも分かる通り、女は二十代前半で順調にキャリアを重ね、そこで出会った若き才能達と共に独立起業。そして、順調に歳を重ねながら会社も成長させていった。
傍から見れば順風満帆な人生を送っているかのように見える。だからこそ、仁成は不思議だった。
何故彼女が、虚ろに堕とされたのかと。
二十代後半で立ち上げた事業を軌道に乗せ、社員を100人も雇える程に成長させている。さらに新事業の立ち上げに、若手起業家に対する支援の他に、孤児院や貧乏学生への金銭的支援などの慈善事業を積極的に行っている姿もあった。
そんな彼女が何故?。仁成はさらに進む彼女の軌跡をじっくりと見ながら、戸成に佇む女の横顔を見た。相変わらず無表情なその顔からは、何の感情も感じられなかった。
彼女の全盛期と呼んでも過言ではない三十代が過ぎ、瘴気汚染を起因とする事業の失敗を乗り越えた四十代を経て、最期の映像が流れ始める。
女の容姿は、仁成の隣に立つ魂とほぼ同じ。つまり、それは彼女の終わりが近づいている証拠だった。
仁成は今だに女が何をして、この虚ろに堕ちたのか分からなかったが、この最後の映像にその全てがあると確信し、より集中した。
そして、彼女のこれまでとは全く違う姿を覗くことになった。
「どうだった?」
それまで気配を消していた管理者から話しかけられ、仁成は何と答えれば良いか迷った。
既に映像は終わり、辺りは何時も通りの真っ暗な闇に戻っている。同時に、隣に居た女の魂も虚ろに取り込まれ、消えていた。
「…なぁ、虚ろに消えたらどうなるんだ?」
「それは…、実は私にも分からない」
「分からない?」
「私とお前は虚ろに溶け込める。ここに堕とされた魂がどうなるのか、その先を知ることが出来ないのさ」
「なるほどね。確かに言われてみればそうか」
「それで?」
再び問いかける管理者。それに対し、仁成は覗いた女の人生を振り返りながら、最期に見た女の本性に背筋を凍らせた。
「怖かったね。そして醜かったよ…。あの笑顔と自信に満ちた顔。でもその裏では…」
「幼い子の生き血を啜り、若い男女の体液を貪る魔女だっただろう?」
「どっちが本当の姿なの?」
最後に流れた映像の中で女の顔と身体は、女性にとって華と言える二十代前半の若さを取り戻し、多くの若い男女と交わり、身元の知れぬ赤子の血を啜り、貪り続けていた。
その中のほとんどの男女と子供や赤子は、彼女が援助していた孤児院の子供や苦学生だった。
「どちらも本当の姿だ。魔女と言っただろう?あれは、魔に堕ちた魂の姿だ」
「魔に堕ちた?」
「そう。現世に自由を与えられた魂は、時に魔に堕ちる。そして、魔に堕ちながらも善を知る魂を虚ろは特に好んでいる」
「好みがあるのね。この虚ろにも」
「はははは。言葉の綾だ。実際に虚ろが選り好みしているかは、私にも分からない。だが、この虚ろに堕ちる魂は魔に魅入られた者だけだ」
「魔と言うと魔力がまず思い浮かぶけど、あれってそもそも使ったら駄目な力なのか?」
「あぁ、あれか。あれは魔とは程遠い力だ。命ある者なら誰もが持つ生命力を起源とする。命ある者が持つ歴とした力だぞ」
「あぁ、確か天月の姉ちゃんもそんなこと言ってたな。つまり、魔力と魔は全く別物なのか」
「そこは自分の目で確かめるんだな。お前はまだ自由を与えられた魂。試練を越え、その先を自ら切り開くこともその自由の中にある」
「それにしては、この虚ろについてはいろいろ教えてくれるんだな」
「虚ろう魂だからな。教えておかねば、最悪現世に戻した瞬間に滅びかねない。本来は教える事は無い。だから、現世では虚ろのことを話せない様に魂に縛りも掛ける」
「いいよ、それくらいなら。それにしても、面倒なら消せばいいのに。何故しないんだろ?」
「消すのにも手順があるんだよ。お前の場合は逸脱し過ぎてて、その手順が取れないんだ。だから、虚ろう魂のまま記憶を与え、現世に居る間に通常の魂の容に戻すんだ」
「俺って、本当に面倒な存在なんだね」
「確かにそうだな。虚ろにいる私からすれば同僚程度の感覚だが、白世に居る連中からすれば、相当面倒な存在だろうな」
女の記憶を垣間見てから数日。また堕ちて来た魂の記憶を覗き見た仁成は、管理者と記憶の感想を言い合っていた。
そこから、虚ろについて、そして自由を与えられた魂について、仁成なりの解釈を交えて議論がされていた。
「何故かって?自由を与えられし魂は徳と欲、そして善悪が同時に混在する存在だと何度も言っただろう。ある意味、虚ろと言える」
「言われてみればそっか。美徳と悪徳があったし、どんなに徳を積んだ善人でも、悪い所と欲はあったしな。…もしかして、欲にも善悪が在るのか?」
「そうだ。善人であろうとする心もまた欲だからな。現世の者は徳に関しては善悪があると定義したが、欲にまで善悪があるとは考えてすらいない。愚かな事だが、それもまた自由なる魂が越えるべき試練と言える」
「試練ね。それで、この間の女とさっきの男は試練に失敗した訳か…。でも、何で虚ろなんだ?普通地獄じゃね?それに魔に堕ちても、必ずしも虚ろに堕ちるわけじゃないんでしょ?それにさっきの男は魔に堕ちてすらいなかった」
「そこが面白いところでな。虚ろは矛盾の塊だ。これまで見て来た者達の記憶。何かに気づかなかったか?」
「…あぁ~、さっきの男もそうだけど、善悪を同時に抱えてたな」
「その通りだ。この間の女は、表では慈善を行い、その裏では慈善を与えた相手から性と生き血を啜った。他の者も同様だ。ホームレスを雇いつつも、その裏では彼らを安く扱き使う者。さっきの男は、命ある者を病や怪我から救いながらも、その裏では権力で自ら開発した効果を抑えた新薬を与えて、多額の金銭を得ていた。どれも、同じ命に善悪を与える矛盾した行為でありながら、それが成立している」
「確かにそうだけど、そんな奴一杯いるでしょ?なのに、堕ちてくる奴は少ないのは何で?」
「基準は私にもよく分かっていない。何せここは虚ろだ。私の予想だが、虚ろに魅入られるかどうか。ただそれだけだと思っている。それに、ここに堕ちた魂よりも酷い魂はたくさんいる。大抵は白世に行けず、地獄に直行だ。そこで、現世で得た徳と欲の善悪を洗い流す」
「善行も?」
「当たり前だ。さっきも言っただろう。善悪が混在するのが自由を与えられた魂だと。善は悪の温床であり、その逆も然り。だからこそ、善があり、悪がある」
「つまり、善なる魂だとしても、その中には悪も持ち合わせている訳か」
「その逆もな。悪を忌み嫌う。それもまた悪と言える。悪を受け入れ、善と為さんとする者。善を受け入れ、悪と為さんとする者。全く違う様でいて、両者は全く同じ存在だ。意外かもしれないが、善を知りながらも悪を貫いた者は、白世を通り越し、常世に通されることもある。極僅かだがな」
「へぇ~。てっきり、悪党は全員即地獄行きだと思ってたよ」
「まぁ、その記憶次第だ。それほど多くはいない。ただ欲に溺れただけの悪党は地獄に放り込まれる」
「美学を持った悪党か。それはそれで虚ろみたいな存在だな」
「はははは。確かにそうとも言えるな。さて、お前に伝えておかねばならない事がある」
「どうぞ~」
「お前の魂の記憶を創る目途が立った」
「おっ、ようやくかぁ。結構掛かったね」
「まぁな。上位神が特別に創造して下さることになったんだ」
「ほうほう。それはありがたや。でも何で?」
「此処に入れる神は少ないと言っただろう。ましてや、一度消失した魂の記憶の創造は下位神でも可能だが、時間も手間もかかる。それに白世は今だ混乱中だ。此処に入れて、魂の記憶を創造できる力ある神が此処に来る。だが、その前に白世の混乱を沈めるそうだ。此処に来る前に寄って下さり、その現状を見て力を貸して下さると仰ったそうだ。だから今しばらくは、お前は此処に留まることになる」
「了解。それにしても、何でわざわざ此処に?」
「今のお前が、虚ろ以外に存在が赦されない魂だからだ。つまり、何処にもいない存在ということだ。だから魂の記憶も創れない。また、お前が今の状態で白世や現世、そのどこかに足を踏み入れれば、そこを虚ろに変えてしまう。だから、虚ろでお前の魂の記憶を創り、その空っぽの魂に入れる訳だ」
「ほえ~。それはまた、とんだご迷惑をおかけしまして。本当に申し訳ない」
「まぁ、あまり気にするな。こちらに来られる上位神もなかなかにぶっ飛んだ御方だ。全く別の世界を管理されている御方だが、お前の存在を何処かからお聴きになり、管理をほったらかしてまで見に来ようとしたらしい。それを皆で何とか止めて、代理神が派遣されるまで待ってもらった」
「凄い神だな」
「ははははは。確かにな。だがその分、優秀で力のある神だ。白世の混乱も半月以内には治めて下さるはずだ」
「なら、残りの時間は訓練に集中しようかな」
「あぁ、あれか。虚依流忍術だったか?」
「そう。俺が開祖のね」
「開祖も何もお前しか使えないうえ、現世では使えない技だがな。だが、そこが良い。お前のその無意味なところに情熱を注げるところを、私は高く買っている。はははははははは」
高笑いを最後に管理者の気配は消えた。だが、管理者は何時でも仁成を見ている。
「まっ。確かにその通りなんだけどねぇ」
自虐交じりに呟きながら、目の前の何も無い、だけど在る空間に向けて手を伸ばし、それを握った。
仁成がこの虚ろに隔離されてから、堕ちて来る魂の記憶を覗き見するか、管理者から虚ろについての講義と議論を重ねるか、もしくは雑談くらいしか暇を潰せるものがなかった。
そこで仁成は、虚ろの中で何かできないかと様々な事を試し始めた。
最初は自分の身体を触ることは出来るかに始まり、虚ろの中に闇以外の彩を映し出せないのかなど様々な事に挑戦した。
失敗しては虚ろについて考え、息詰まると管理者にも相談した。
しかし、管理者は必要以上の情報は与えられないとして、仁成の質問に答えないことも多かった。だがしかし、仁成が自力で何かを閃いたり、試行錯誤することは止めなかった。ただ「足掻け」と告げるのみ。
たまに堕ちて来る魂の記憶を覗き、管理者と雑談し、また虚ろについて考え試す。そんな刻を送っていたある時、仁成は不意に握った手の平に何かを掴む感覚を覚えた。
そこからは早かった。テーブルクロスを引くように闇を引っ張たり、粘土のように闇を丸めて投げたりもした。
そしてもう一つ、これまで仁成は自分の身体を触れることが出来なかった。虚ろに溶け込んでいるため、身体に実体が在って無い状態だったのだが、手の平限定で身体に触れるようになり、意識すれば手の平を見ることが出来るようになっていた。
これを気配を消しながら見ていた管理人は驚愕していた。まさか本当に、虚ろに干渉できるとは思っていなかったからである。
さらに言えば、一部分とはいえ自身の実体化。それは虚ろの管理者にとって必要な技術の一つ。仁成には虚ろに入り、溶け込めればいいとしか言っていないが、本当の所は様々な技術と能力が虚ろの管理者には求められる。
「足掻けとは言ったが、何もそこまで溶け込めとは言ってないぞ。これ、バレたら怒られるかな?…見なかった事にしよう。そうしよう」
管理人はそこで考えるのを止め、逆に仁成が何処まで虚ろに深く溶け込めるか興味が湧き、それを見守ることにした。
一見すれば、何か手異界の掟に抵触し様な問題だが、自由を与えられた魂が自ら道を切り開くことを是とする天界において、管理者の彼がそれを止める事の方が問題になる可能性があった。
だからこそ、管理者は何も告げず、仁成の好きにさせることにした。もちろん、虚ろの中だけで完結する範囲でだが。
それからも暇があれば仁成の探求は続いた。とはいえ、さすがにコツを掴んだ最初の頃のようにはいかなかった。あれから変化があったとすれば、見える範囲が手の平だけだったのが、手首から上に広がったことくらい。
なかなか新たな変化が起こらなくなり行き詰った仁成は、「変化が止まった時、それは基本に立ち返る時」と言う、何処かで聞いた台詞を思い出し、最初に出来るようになった掴む事を極めることにした。
地道に闇を掴む練習を続けていくと、初めの頃は空ぶることも多かった成功確率が徐々に上がり、掴んでいられる時間も伸びていった。さらに、掴める範囲も広がっていくと、仁成は虚ろ内でロッククライミングの真似事を始めた。
意識としては、足は使わない。脚を無いモノとして意識し、闇に浮かび上がる手だけで昇って行く。実際にこの虚ろには上下前後左右の概念は無い。けど在る。手を離せば足は着くし、下に昇る様に意識すれば落ちていく。
そんな不思議空間で仁成は、上に下に、前に後ろに、そして左に右にと、手だけを使って昇って行った。
それから少しして、仁成は手でも出来るなら足でも出来るのではと気付き、まずは壁を歩くイメージで上に歩き始めたが、どうしても下が地面、上が空と言う固定概念が頭から離れず、出来るようになるまで相当な時間を要した。
手では出来るのに何故?と行き詰りかけた時、虚ろに新たな魂が堕ちて来た。そして、その魂は人ではなかった。つまり宇宙人、あるいは異星人だった。
その魂の容は、仁成には何故かぼやけてはっきりと見えなかった。しかし、その魂の記憶は問題無く覗けた仁成は、地球とは全く異なる星で近隣惑星を開拓するほどの文明を目の当たりにした。
「これ以上は、お前には早い」
その瞬間、仁成の視界は無くなり、気付けば堕ちて来た異星人の魂から引き離されていた。
「えぇ~。もうちょっとくらい良いじゃん」
「駄目なものは駄目だ。あれを想像し、現世で自ら創作するなら構わない。だが、決して交わることのない現世を盗み見ることは許されていない。特に、遥か先を行く文明の情報は、逆に未来を狭めるからな」
「まぁ、言わんとする事は何となく分かるけどさ。ところで、さっきの魂の容がぼやけてて見えなかったのは、交わることがない現世の魂だからか?」
「そうだ。記憶にも残っていないだろう」
「…ほ、本当だ。少しは見えてたはずなのに、全く思い出せない」
「そういうものだ。さて、さっき覗いた記憶に関してだが、特に問題にはしない」
「いいのか?」
「あの程度なら、お前達の世界の創作物の中にあるからな。それにしても、白世は相当混乱しているな」
最後に意味深な言葉を残して管理者は気配を消した。
それからしばらくの間、仁成は掴むことと歩くことの二つを練習し続けた。
そして、ようやく壁に身体を垂直にして歩けるようになり、続けて身体を地面と平行にして歩くことにも成功した。
だが、まだ仁成の頭に残る固定概念が邪魔をして、歩いている途中で何時の間にか地面を歩いていた。
特に苦手としたのが、天井を歩くこと。上下左右の感覚が狂い、数歩から数十歩で天井は地面に変わってしまった。
仁成は過去に遊んだ、戦闘機を操作するアクションゲームで似た感覚を経験していた。戦闘機を反転させると、当たり前だが地面が頭上に、空が足下に変わる。すると上下左右の操作も反転してしまう。この反転状態での操作を仁成は一番苦手にしていた。
その時の感覚に似たものが天井を歩いた時の仁成を襲い、平衡感覚が無意識に地面は下と認識してしまうのである。
それでも仁成は諦めずに練習を続けたことで、ある程度満足のいく所までは歩けるようにはなった。
だが結局、この固定概念は最後まで仁成を苦しめ続け、天井を歩き周ることは出来なかった。
「白世の方は順調に混乱が収まり始めている様だ。もうすぐでお前の魂の記憶を創れるだろう」
あれから半月と少し。ようやくその時が来たと待ち侘びていた仁成は、天井から壁伝いに地面に降りた。
「随分歩けるようになったな」
「それでも、天井は自由に歩けないんだよね。どうしても下が地面と考えちゃって」
「まぁ、それは星に縛られている命の定めだ。宇宙に出れば、またその常識は覆るだろう」
「俺が生きてる間に宇宙に出れるかは疑問だけどね。それより、ちょっと面白いことが出来るようになったんだよ」
「ほう。見せてみろ」
「とくと見よ。虚衣流忍術『モザイク』」
仁成が忍術名を呟くと、虚ろの闇の中から黒白のモザイク状の仁成が姿を現す。
「だははははははははははははは。お前は馬鹿か天才のどちらかだろ思っていたが、これは傑作だ。最高に馬鹿らしい。ははははははははは。何だその無駄に技術だけは高い、無駄な技は。はははははははははは」
「ふふふ。そう、これは無駄に技術だけ高い技だ。だけどこれ、結構良い練習になるんだよね。例えばこれ」
止まない笑い声に、仁成はさらなる無駄な技を披露した。今度はモザイクが反転し、黒と白の位置が入れ替わる。
「さらにほい」
さらにそこから仁成は、黒と白のモザイク柄を自在に操り、床屋のサインポールのように動かし始めた。
「だははははははははははははは。お前は俺を笑い死にさせる気か。ははははははははははははははは」
「さらにこれならどうだ!」
まだ終わりではなかった。管理者に最後の止めを刺さんと、仁成は切り札を出す。
そして、笑い声は止んだ。
「見事だ。何時から見えていた?」
管理者の声は落ち着いている。ただその声には、神あるいは天使と言う存在がどれほど強大かを、仁成に教えるのに十分な力が籠っていた。
「…結構前からだよ」
「何時だ?」
管理者は間を置かずに、完全ではないが管理者の姿をモザイクで再現して見せた仁成に問う。
「堕ちた魂の中に居た魔女。あれの記憶を覗いた辺りから少しずつ」
「ふむ。それはあれか、赤子の生き血と若い男女の性を啜っていた女の事だな?」
「それ」
「確かに、それは相当前だな」
黙り込む管理者。だが、気配は消えない。
「あのさ。堕ちて来た魂の記憶。あれって普通は見れないんじゃないの?」
「…その通りだ。虚ろに溶け込み、その眼を開くことが出来なければ見れない」
「やっぱりね。あんたは俺のこと初めから見えてたんでしょ?」
「あぁ、見えていた。とはいえ、お前の魂は空だ。他の魂よりも不安定で見えずらい。おそらくだが、刻を重ねれば私より虚ろに溶け込めるかもしれない」
「あんたが俺を堕ちた魂の記憶を見せ始めた頃、俺はほとんどその記憶は覗けなかった。それが段々と見える様になって、隣に立ってる魂の容もはっきりと見えるようになった。魔女の前後辺りだったと思う。あんたの姿がぼんやりとだけど見え始めた。ただ、見て分かる通り完全には見えてないし、あんたが気配を消すと姿を思い出せなくなる」
「ならばいい。それはまだ、私達の姿が見えていない証拠だ。他の神の前では決して見えることを話すな。私達の姿は本来、現世に縛られる魂には見えない。見えているのは、魂の記憶から再現された虚像だからな」
「あぁ、だから白世に居た職員全員、見慣れた顔と服装してたのか。おかしいと思ったんだよなぁ」
「少し前、異星人の魂が堕ちて来た事があったな」
「あったね」
「あれも本来は見えないはずなんだが、お前はぼんやりとだが見えていた。だから止めさせた」
「ん?ということは記憶は見られても問題無かった感じか?」
「あぁ、全くな。詳細は伏せるが、見られても問題無い程の記憶しか覗けなかったはずだ。記憶の映像もぼやけていただろう?」
「と言うか、解像度がめっっっっちゃ低い写真みたいに断片的なものしか見れなかったよ。魔女の時の様な動きのある映像じゃなかった」
「だろうな。現世が違うと認識が違う。だが、そこまで見れていたなら、相当だ。やはり止めて良かったな」
「まぁ、それで「やっぱお前危険だから消すわ」とか言われないなら、止めてもらって助かったよ」
「ははははは。やはりお前は面白いな。その可能性も十分あったかもしれないな」
「やっぱり、消す方法は他にもあるんだね」
「ある。だが、お前の魂の記憶を創り直すより、余程面倒で誰もやりたがらないだろう。私も断る」
「さいですか。それより、他にもそれなりに形になって来たんだけど、見る?」
「…はぁ。見せてみろ。どうせ、くだらない技ばかりなんだろう?」
「ひひひ。とくとご覧あれ」
それからしばらく虚ろでは、仁成が自信満々に術名を叫ぶ声と、それを見て腹を抱えて笑う管理者の声が続くのだった。




