003「崩壊した町で 3」
警察署生活20日目。半月以上の時を警察署で過ごしていた。
本来は20日前後を目安に町からの脱出を考えていた仁成は、それを見送った。その理由は二つ。
一つ目は疲労。自分は大丈夫。そう思っていた。思い込んでいた。
しかし、平和な日本で暮らしていた何処にでもいる普通の高校生が耐えられるほど、今の環境は優しくなかった。食料はある。水もある。毛布もあるし、少し硬いが寝そべれるソファーもある。
だが、人はいない。
急激な環境の変化に仁成の心は擦り減り続け、常に緊張を強いられていることに気付けなかった。
15日目の朝。起きあがれなかった。自然に涙が零れ、何時の間にか声を上げて泣いていた。
そして二つ目。射撃所で拳銃以外の練習が出来なかったこと。
地下の射撃場は狭く、壁に跳弾を警告する張り紙がされ、拳銃以外の銃の射撃禁止が書かれていた。
アサルトライフルとショットガンの練習は駐車場で行うことにした。この時はまだ屋上に続く扉の鍵を見つけていなかったためだ。
だが、周辺をうろつく変異した動物を警戒しながら行う練習は、想定以上に仁成に体力、精神の両方に疲労を与え、練習時間も必然的に短くせざる負えなかった。
屋上での練習が出来るようになるのは、警察署生活も一月になろうとしていた30日目まで待たねばならない。
全ての鍵を確認し終えていたと思っていた仁成は、屋上に続く扉の鍵を探し続けていた。だが、幾ら探しても見つからなかった。仕方なく鍵束を改めて確認していくと、その中の一つであっさりと開いた。
全ての鍵束を見つけたのは12日目。階毎に分けられた鍵束は全部で四つ。一階の鍵束は地下の分もあり、一番鍵が多かった。
鍵を全て見つけた仁成は、四階の生活スペースを優先して片づけを行っていたのだが、最初に全ての鍵を確認せずに進めたため一つ余っていた鍵の存在を忘れていたのである。
自分の阿保加減に呆れつつ、早速屋上に上がった仁成は周囲を見渡した。それまで四階の部屋からも町を見渡してはいたが、やはり一階分違うだけあり見渡せる範囲はより広く、町を一望できた。
仁成は一通り全方位を見渡した後、町の中心がある南側の縁に立った。地図では市役所の位置は警察署から真南にあることは把握済みである。
そして、警察署内で見つけた双眼鏡で市役所のある方角を確認した。
だが、初日にあれが市役所だろうと目星を付けていた建物は何処にもなく、 あったのは暗い靄だった。
市役所は町のほぼ中心にある。仁成の世界でもほぼ同じ位置にあったと記憶している。そして今いる警察署は町の中心から見て、ほぼ北側に位置している。
警察署から市役所に行くには、警察署前にある町を南北に貫く通りをただ南に真っ直ぐ進めばいい。ただそれだけなのだが、その途中を倒壊したマンションが完全に塞いでいた。
市役所に行くためには東西にある別の通りを迂回するか、少し危険だがその間に在る住宅街の中を進むしかない。
だが、肝心の市役所は何時の間にか無くなり、謎の暗い靄に包まれ何かしかなかった。
全体像は手前の建物に隠れて見えなかったが、おそらく全体があの靄に隠れているのではないかと、仁成は予想している。
そして同時に、強い忌避感をその物体から仁成は感じた。
目的の場所が無かった。あったのは謎の黒い靄。
あれには近づかない方が良い。本能に近いその勘を信じ、仁成は市役所周辺は近づかない事にして、最初の仮拠点周辺かさらに街から離れた場所に拠点を移すことにした。
元々最優先だった水と食料の確保は、既に警察署にあった物資だけで十分足りるという判断ももちろんあった。
暗い靄を見た仁成は、すぐにでもこの場を離れたかった。だが、いまだ銃の扱いになれず体力も無い状態では、以前より増えている気がする変異動物から逃げ切ることも、撃退する事も出来ないと判断し、引き籠り生活を続けることにした。
おそらく市役所と思われる建物がある位置に暗い靄を確認したその後、町の様子も確認した仁成は、数日前に遭遇した大型化した生物以外にも、仮拠点に向かう方角に大型化した生物が予想以上にいることを知った。
そして、それら生物は互いに縄張り争いも繰り広げており、昼夜関係なく警察署周辺でも発生していた。
しかし、ここで仁成は一つの疑問を持った。何故たった一月ほどで、これほどまで大型化した生物が増えたのかが分からなかった。仁成が警察署に来るまでに目撃した変異動物よりも明らかに数が多かった。
だが、見える以上そこに居るのは事実として変わらない。
仁成は疲労困憊の状態で進むよりも、しっかりと準備をして戻ることにした。そして、最低でももう一月以上は警察署内に留まることも視野に入れて、まずは体力造りを始めることにした。
翌日から仁成のルーティンは変わった。
もし町を離れることが出来ない場合、再び物資を集めるために町を探索することになる。その時、この警察署を拠点にすることになる。
警察署を拠点にする一番の理由は、何故か変異動物が警察署に近づかないから。その理由は全く持って不明だが、駐車場に入って来ても建物の近くまでは近寄ろうともしなかった。
だが、まだ安全とは程遠いと感じていた仁成は、署内の清掃と整理整頓後に、さらなる基地化を進めることにした。
実の所、警察署の基地化は既に始めている。
此処に引き籠ることになった日から片付けと並行して、外から変異動物が入って来れない様に出来る限り急いで進めていた。
一階の割れている窓は、近くの建材置き場から手に入れた板材や太い角柱などで塞ぎ、その後ろに棚などを置いた。扉に鍵をかけただけでも良かったが、安心を得るために妥協はしなかった。
玄関のバリケードに開いていた隙間も、詰めれそうな物を片っ端から詰め込み塞いでいる。
そして階段などにもバリケードを築くために、使わない部屋にある机や椅子などを運び出す作業を、体力作りの一環として毎日コツコツと続けていた。
その次に行ったのがトイレの改修。
今迄は一時的な仮宿と考えていたため、浅い穴を掘って埋め直すだけだった。しかし、何時頃までいるか見当がつかない状況では、いずれ用を足す場所が無くなるため、深い穴を掘って簡易トイレを作ることにしたのである。
出来る限り掘り進めた穴の深さは1.5mほど。その上に厚みのある板材を二枚、中央に隙間を開けて置いて足場にした。署内にあったパーテンションで囲いも造り、雨が降っても穴に入らない様に余った板材で軽く角度を付けて屋根も取り付けた。
肝心の射撃だが、拳銃でさえまともに撃てない今の仁成では、アサルトライフルやショットガンをまとも扱える訳もなく、かなり苦戦していた。
それでも、徐々に拳銃の反動にも慣れて来て、正確さはともかく的には当たるようにはなった。
屋上に上がった翌日から、アサルトライフルの練習も始めた。しかし、拳銃とは違う姿勢と反動に、仁成は三年前の事故で痛めた肩に若干の違和感を覚えた。
数日すると、肩の違和感は痛みに変わったため射撃練習は休み、何か使える物は無いか倉庫を漁りながら、解決策を模索していた。
「薄すぎるのかな…」
倉庫部屋から出て、姿見の前を通った時にふと気付いたのは、動きやすいからと薄いジャージで過ごしていた自分の服装だった。
ジャージよりも厚手の服か、銃床が当たる肩に何かタオルなど一枚かませれば、反動の衝撃を少しは和らげることが出来るのではないか。そう考えた仁成は、ひとまず服を集めた倉庫部屋に向かった。
衣類やタオルなどは、三階の階段に一番近い部屋に集めている。
その中で仁成は警官の制服から防弾ベストなど、自分のサイズに合った服を改めて並べ、一つ一つ着てはサイズや着心地を確かめて行った。
そして、何故こんな田舎町の警察にあるのか不思議な装備もある。それが特殊部隊が着る様な少し厚手の服とタクティカルベスト。
今後のことも考え抜いた末、少し厚手の特殊部隊仕様の服とタクティカルベスト。そして腰に付けるベルト型ホルスターを選び、寝る時以外はその装備で過ごすようにした。
まずは慣れる所から。それが仁成の考え方だった。
また同時に裁縫道具を取り出して、タオル生地で肩当も自作した。学校の家庭科授業でしか触っていない素人のため、出来栄えは悪いがそれなりのものは作れた。が、実際に使ってみると動きは阻害するし、逆に銃を構える動作にも影響したため、試作品一号君は倉庫送りとなった。
さらに時は進み、警察署生活も二ヵ月が経った。
一日のルーティンを毎日欠かさず行う日々を送っていた仁成は、肩当の制作や装備慣れ、そして体力造りを黙々と続けながら、署内にバリケードを着々と築いていた。
射撃訓練は地下ではなく屋上でするようになった。実際に警察周辺にいる好戦的な変異体を相手に、実戦訓練を兼ねた間引きを行うためだ。
距離が開くとまだ命中精度は低いが、動く的を実際に撃つという経験は地下に籠っていては出来ない貴重な経験だった。
実は一月前、一度仮拠点に戻るために警察署を出発している。だが、結局道中で遭遇する変異体(仁成が付けた大型化した動物の総称)の数と、大型化した個体を前に逃げ帰ることしか出来なかった。
逃げ帰っている途中、住宅の瓦礫から飛び出して来た猪の突撃を受けた。
猪自体はショットガンを数発撃ちこんで倒したが、突撃の衝撃で足を軽く捻挫する怪我を負ってしまった。
怪我自体は二週間ほどでほぼ完治したが、このままでは町からの脱出など到底できないと感じた仁成は、少しでも変異体が少なく強個体がいない道を屋上から探した。
既に最期のバリケードも完成し、署内で使用しない部屋の窓は全て塞ぎ終え、鍵も閉めて一旦署内の整理は終わっている。
物資の殆ども上階に移動させ、一階と二階には必要ない物しか残っていない。
余った時間はこの世界の情報を少しでも得ようと、少しずつ読み進めていた警察署内で見つけた本や資料などを読み漁った。
そこで分かったことは、やはりこの世界は仁成が知る世界ではない事。そして、魔法に類似する力が存在する可能性が高いこと。加えて、その力によるものなのかは不明だが、仁成のいた世界とは生態系が違う可能性を知った。
だが、肝心の仁成が欲しかったあの謎の黒い靄や、変異し大型化している動物については全く情報が無かった。
「はぁ、まじでファンタジ~」
溢れかえった異世界ものよろしく。自分にも何か特別な力があればと思う反面、そんな都合の良いことは無いかと思い直す。
溜息と共に資料を閉じた仁成は、部屋に運び込んだホワイトボードの前に立った。
射撃訓練を始めて一月以上経つ。毎日欠かさず行っているリロード練習と射撃までの動作はそれなりに様になり始め、フル装備での体力造りも順調に進んでいる。
それに加え、肩当試作十三号君を正式に採用した事で、肩への負担は格段に改善した。
さらに移動しながらの射撃訓練(実際に発砲しない)を署内を歩き周りながら行い、クリアリングの練習も行っていた。
この訓練は、仁成がこれまでの自分の行動を思い返し、よく生きてたなと思い返して始めた事だった。
例えば初日。危険な変異生物が闊歩する町中を弁当とお茶だけを手に歩き、一体の変異生物と出会わずに一夜を過ごせたこと。
それに続き、変異生物が住宅を寝床にしている可能性を考えもせず、無防備に覗いたり、足を踏み入れたりもしている。この警察署もその一か所だ。
狭い閉鎖空間に何かがいるかもしれないのに、少し太い鉄筋一本で警戒もせず入った。その後もスコップだけで外に出たり、トイレをしたりとあまりにも無防備、無警戒だったと反省している。
「ふぅ。準備完了」
午後も6時が回った頃、一日かけて輸送準備を終えた仁成は夕食をたべながらホワイトボードに書き込んだ偵察情報を確認する。
「よし。まだ万全とは言い切れないけど、脱出するか」
決意を言葉にした仁成は、すでに終えている出発準備を再度確認し、装備の点検と倉庫の鍵を閉めて回り、裏口の鍵だけを鞄に入れて、その他の鍵は四階の私室にしている部屋に隠した。
そして、少し豪華な夕食を食べた後、すぐに眠りについた。
翌朝。早めに起きた仁成は手早く朝食を済ませ、何時ものジャージから戦闘服に着替える。
そこに防弾仕様のタクティカルベストを重ねて着ると、各ポケットに各弾倉と幅のあるサバイバルナイフを差し込む。次にベルト式ホルスターを腰にまき、拳銃をホルスターに収めた。
アサルトライフルは銃口を下にして身体の前に来るように肩に掛けると、仁成は一階に向かった。
一階の裏口まで来ると、持ち運ぶ物資を入れた箱が三つ積まれたカートと背嚢が仁成を待っていた。一つ目は携帯食料と水。二つ目は弾丸や電池などの貴重な消耗品。三つ目は日用品である。
カートの側面には、仁成が自作したショットガン用のホルスターと共にショットガンが取り付けられ、何時でも引き抜けるようになっている。
基本は出来る限り戦闘は避ける。遭遇したら近づかれる前に倒すことを基本に、アサルトライフルで応戦。近づかれたら威力の高いショットガンに持ち替える。これが仁成が自分なりに考えた戦闘方針。
そして背嚢を背負うと、約二ヶ月ぶりとなる最初の拠点に向かって、仁成は警察署を再び後にした。
当初は市役所を目的にしていた仁成は、第一に町から離れることを目標に切り替え、必要な物資だけを持って警察署を後にした。
整備場のさらに東には、最初に仁成が立っていた住宅街があり、そのさらに東には河川がある。この河川を北に抜けるとこの町より大きな街があるはずだった。まずはその町を目指すことに決めた仁成は、一度整備場に於いて来た聖典の回収を目的に、戻ることにしたのである。
もし、何かしらの理由で脱出が不可能な場合。仮拠点の近くで新たな拠点を探すことも考えてはいるが、最悪は警察署に戻ることも視野に入れていた。
出来る事なら変異動物が少ない場所に拠点を構えたいところではあるが、ホームセンターや衣類関係の店、そして日用品と食糧品が期待できるスーパーマーケットなども見つけておきたい。
それらを探しながら、仁成は変異動物が闊歩する危険な町を、一路北に進み始めた。東に向かわないのは、猪などの巨大化した動物の縄張りを避ける意味もあるが、それ以上に町の中心街から離れるためでもある。
これは屋上偵察を繰り返すうちに気付いたことで、変異生物は町の中心に行くほど、変異の度合いが強くなる傾向がある。そしてその要因は、仁成が忌避感を抱く、あの暗い靄にあるのではないかと考えている。
もしこの仮説も正しいなら、最初の拠点付近の生物が警察署周辺の生物程大型化していない理由も付く。
同時に一つの懸念が沸き上がった。
それは仁成も人と言う生物であるという事。あれに近づくことで仁成自身も変異する可能性が有る。そうでなくとも、既に二月以上警察署に滞在している。既に変異が始まっていてもおかしくない。
もしかしたら、初日からこの町を去る選択こそが正解だったのかもしれないが、今更それをいっても遅すぎた。
警察署を出た仁成は一路北に向けて進み始めた。そして三つ目の交差点まで進んだところで一度西に向かって進み始める。
本来仮拠点に向かうならこの交差点を東、あるいはそのまま北上するのが正しいのだが、どちらも屋上から偵察した結果それぞれ変異生物の強個体が暴れていることを確認している。
東は以前帰ろうとした道中で見かけた蛇と戦っていた巨狐と、警察署に辿り着く前に見た巨猪の縄張りがいる。どちらも迂回ルートを探したが、仁成の記憶が確かなら、そのほとんどが瓦礫や道が崩壊している。空のカートなら持ち上げて進めばいいが、今は荷物積み込んでいる事でそれも出来ない。引きながら進むには適していない道を進むより、遠回りでも確実に物資を運べる道を選んぶことにした。
そして仁成が地図と屋上偵察から導き出した答えが北の迂回ルートである。一度西に進み、北上。その先にある耕作地帯を東に向けて進むことにした。
仁成はカートの持ち手は持っていない。自分の腰とカートの持ち手を繋げるアタッチメントを自作し、常に両手が空いた状態を維持できるようにしている。戦闘になった場合は、ワンタッチで腰からカートを切り離せるようにもしている。さらに二輪だったカートにもう一輪付け足し三輪にしたことで、安定性も確保している。
この辺のギミック工作は、日ごろからプラモを弄っていた経験から得意とするところだった。ただ、彼自身は余り創造力が無い。
既存の技法を真似ることは得意でも、新たに生み出すことは苦手にしていた。
プラモの改造やディティールアップなどのアイデアや技法は、プロモデラーや動画サイトに上がっている先人達の物を参考に自分なりにアレンジして行っていた。今回のギミックもその一つ。
背中にカートを引き連れて歩く様は、何処かの国民的RPGの隊列に似ても無くも無いが、どちらかというと後ろ足を引きずるケンタウロスである。
出発から一時間ほど、幾つかの十字路を超えて北西に向かう斜めに走る横道に入った仁成は、時折写しの自作地図を開いては道路の傷み具合など注意事項を書き込みながら進んでいた。
カートを引きながら移動するため、道路の状態によっては通れる通れないが必ず出て来る。既に一か所、この道に入った最初の三差路で予定していた右の道が倒壊した家屋の瓦礫で埋まっていたため、直進してから右の道に合流する横道を通る迂回ルートを使っている。
今回は物資輸送が一番の目的だが、同時に地図上では道があっても、実際には通れない道を確認することも目的の一つである。さらに変異動物の縄張りも把握出来れば、次からは近づかない道を選べるだろう。
こうした情報を仁成は写した自作地図にその都度注意書きを付けたしながら、次回以降の往復をより楽に行えるように考えていた。
「此処までは順調」
数階の戦闘を挟みつつ、迂回ルートの半分ほど進んだところで一度休憩を挟むことにした。選んだ休憩場所は、事前に地図にも休憩場所として注意書きが書いてある小さな公園。
ブランコと滑り台、砂場などの最低限の小さな遊具が置かれた公園。端にある屋根付きの休憩スペースにはベンチが二つ置かれ、その脇には水飲み場が併設されている。
カートを腰から離してベンチの脇に置いた仁成は、水飲み場に向かう。
その水飲み場は上部に噴水の様に上に噴き出す蛇口と、側面に通常の蛇口がある一般的な公園なら何処にでもある見慣れた形をしている。
「出るか?」
仁成はゆっくりと蛇口の栓を捻り、水が出ることを願う。だが、水は一滴も零れては来なかった。
警察署などの水道も停止していたため、初めから期待はしていなかったとはいえ、それでも少しの期待をしていた仁成は項垂れながらベンチに座った。
当たり前と言えば当たり前の話ではあるが、水道水は地下水や河川を流れる水をポンプで汲み上げ、浄水過程を経て各家庭や施設に送られる。それを管理するのは自治体であり、誰も居ないゴーストタウンと化しているこの町に施設を管理している者は誰も居ないし、電力も止まっている状態で上下水道が稼働しているはずもない。それに稼働していたとしても、普段から使用している厳しい日本の基準を満たした水が出て来るとは限らなかった。
ゴーストタウン化してどのくらい経つのか正確には分からないが、年数によってはすぐに飲める水が出て来る事は決してないだろう。
仁成はカートの一番上に置いているクーラーボックスから、水を取り出して一口飲んだ。この時も出来るだけペットボトルの口には直接触れない様に、空中で傾けて飲んでいる。何処かで見た雑菌対策である。
一日で飲み干すなら直接口を付けても良いかもしれないが、飲料水は食料以上に貴重な資源であるため、必要量以上に取ることを控えていた。
仁成の世代は大震災後とあって、避難訓練以外にも災害知識を学ぶ特別授業が義務教育課程に盛り込まれていた。その中の一つに、備蓄用の飲料水の賞味期限なども含まれていた。
仁成が記憶している期限は5~10年。この世界の基準が同じだと仮定すればの話だが、おそらくそこまで大きな違いはないと願って、仁成は飲んでいる。それに警察所の書類などの日付けから、ゴーストタウン化して五年は経っていないと仁成は予想している。
さらに一口飲んだところで、水をクーラーボックスに戻すと足を延ばして休める。
警察署内の平坦な床や階段とは違い、この町の道路は至る所で穴が開いていたり、亀裂が走っていたりと状態は良くない。もちろん全てが悪いわけではない。今進んでいる道路は比較的穴も少なく、亀裂も見た限りは経年劣化で出来た小さなものしか見られない。
町の中心に行くほど道路状況は酷くなる傾向にはあるが、場所や区画毎によって状態はかなり違った。仁成が初めてこの世界に来た時に立っていた住宅街は全体的に酷かった。その逆に仮拠点周りは家屋も残っていたし、道路もそこまで酷くなかった。
この違いは何なのか?舗装技術云々の話ではない。おそらくこの町は爆撃かそれに近い何かがあったと仁成は予想している。
そしてそれはおそらく変異体の殲滅のため。その変異体は今も平然とそこらを闊歩している所から見て、失敗したのだろうとも予想できた。
「行くか」
10分ほどの休憩を終えた仁成は、カートと自分を繋げようとした手を止めた。
「お前らか」
公園の出入り口付近に視線を向けると、そこには三頭の犬が座って仁成を見詰めていた。
真ん中に座る母犬はおそらくシェパード系。だが、雑種しか飼ったことのない仁成には正確な犬種は分からない。賢そうな凛々しい顔立ちをしている。
子犬は少し顔付きが違う。別の犬種との間の子である事は解るが、それが何かは分からないが、三頭が親子である事は何となく分かる。
この三頭は普通の犬ではない。この町にいる大型化した変異種。
母犬は小柄な馬ほどあり、それから考えると子犬の方はまだ中型犬サイズだが、母犬と同じくらいまで成長するのではないかと予想できる。
この親子犬は仁成が屋上で射撃訓練を始めた頃から、警察署の駐車場で寝泊まりし始めた変異体の動物である。四六時中、駐車場にいる訳ではなかったが、寝泊まりは屋根付きの駐輪場でしていた。
そして親子犬を見掛ける様になって半月、母犬だけが姿を少し消した日があった。そして間が悪い事に、もしくは初めから狙っていたのか、母犬とほぼ同じくらいの大きさの蜥蜴が侵入して来た。
これを屋上から見ていた仁成は、何となくアサルトライフルで蜥蜴を撃ち応戦した。しかし、蜥蜴の皮膚が予想より分厚く、皮膚下までしか弾は届かなかった。
それでも、蜥蜴の気を逸らす事には成功し、子犬はその場から逃げることに成功していた。
仁成は二階まで降りて、射撃用に塞いでいない部屋に入るとショットガンに持ち替えて、蜥蜴を探そうと窓に近づこうとした所、下から蜥蜴の顔が目の前に現れ、それに驚いた仁成は反射的にショットガンをその顔目掛けぶっ放した。
さすがに顎裏の皮膚は分厚くなかったのか、その一発で蜥蜴の顔は内側からぐちゃぐちゃになり、大きな音を立てて駐車場に堕ちた。
そして、仁成が強個体の変異体を初めて狩った日となった。
それ以前にも、警察署に侵入しようとしてくる野犬や野良猫はいたが、威嚇のつもりで撃った弾が偶々当たり狩ったことはある。それに何故かは不明だが、やはり変異体は警察署の入り口前で足を止め、中にまで入ろうとはしなかった。
そのため、今回の様に目と鼻の先まで接近して戦ったことは、この警察署に来る時にバールで戦って以来一度もなかった。
何よりも、大型化した強個体相手との戦いは初めてのことだった。
仁成はしばらくの間、身体は自然に震えて力が入らなかった。
それから暫し、荒くなった呼吸を整えると窓の外に顔を出し下を覗いた。そこには母犬が駆けつけており、大蜥蜴の死骸の周りには二頭の子犬もいた。
子犬は先程の襲われたことへの報復なのか、蜥蜴を前脚で何度も叩いていたが、母犬はじっと仁成を見詰めていた。
仁成はその母犬に「食べるなら好きにしろ。見えない所で食えよ」とだけ伝えると、その日は何も食べず、落ち着かない心音を聞きながら眠りに堕ちた。
翌日、仁成が駐車場を覗くと、蜥蜴の死骸は消えていた。一応屋上にも上がり探してみると、入口から死角となる北側の屋根付きの駐輪場からはみ出した蜥蜴の尻尾を見つけた。その近くにはあの親子犬の姿もある。
どうやら仁成の意図を理解し、入口からも仁成からも見えない位置まで獲物を運んだことが分かる。
そして、この出来事は改めて自分が異世界にいるのだと仁成に実感させることになった。
他の変異犬と違い、この親子犬は仁成に牙を剥くこともなく、吠えもしなかった。
一度トイレに行こうと外に出たその出会い頭、5mほどの距離で母犬と相対した時は心臓が止まるほど驚いたことがある。だがそれ以後、三頭は常に仁成から一定の距離を取るようになった。
一応彼女達のおかげで、警察署に度々入り込もうとしていた野犬や野良猫が近寄らなくなってはいた。そのお礼にという訳でもないが、彼女達が寝ている屋根付き駐輪場に、署内にあったドッグフードを置いてみたりもした。
母犬は相当頭が良いのか、最初は警戒して子供にも食べさせなかったが、仁成が屋上から声を掛けると先に一口食べ、その後は全て子供達に食べさせていた。
これではお礼にならないなと思い、次からは三つの皿に分けて与えると母犬も食べるようになった。それ以降、毎日同じ時間に仁成は駐輪場に餌と水を置いた。この時も、仁成が皿を置いて去るまで三頭は警察署の敷地から出て待つ賢さも見せていた。
そして現在。その親子犬は、仁成の後ろを一定の距離を保って付いて来ている。
公園から出発した仁成は、しばらくの間親子犬を放置した。というのも、連れて行っていいのか判断がつかなかったからだ。
確かに親子犬は仁成に危害を加えたことは一度も無い。だが、普通の犬とは違う。母犬の体躯から分かる通り変異体だ。それも仁成が強個体と分類している個体だ。
その変異体がこの世界でどの様な扱いを受けているのか、仁成は知らない。
仮に変異体を手懐けペットとした場合、それが罪になるのかも不明。そんなこんなで仁成は、背後を護る様に付いて来る三頭の犬をどうすればいいか分からないまま、北上を続けていた。
「考えても分からんよなぁ…もう、いいや」
しばし考えた後、仁成はカートを腰から離して振り向いた。そして親子犬に手招きし、近くに来るように促してみた。一応右手はすぐに拳銃が抜ける様に、ホルスター付近に置いたが、おそらく抜く前にやられるだろう。そう思いながらも仁成は手招きを続けた。
手招きされた親子犬は最初こそ警戒していたが、母犬がゆっくりと進み始めると、それに続くように二頭も斜め後ろから進み始めた。
そして初めて相対した時とほぼ同じ距離で母犬が止まり、子犬たちも止まった。
しばし見つめ合ったあと、仁成は自分から母犬に近づいた。そして、母犬の目の前まで来ると手袋を外して、母犬の鼻先に手の甲を近づけた。
母犬はその手を数秒ほど嗅ぐと、左右の子犬にも嗅ぐように促し、子犬たちは二頭同時に仁成の手を嗅いだ。
嗅ぎ終わった子犬はその手をぺろぺろと舐め始め、仁成もしばらく好きにさせた。
「よし、行くぞ。ついて来い」
仁成はそう一声かけて、カートを腰につなげると歩き始めた。
すると母犬が一声鳴き、それを合図に子犬が仁成の左右に着き、母犬は少し後ろを歩いて付いて来た。
「…まじで賢いなこいつら。うちの犬も見習ってほしいぜ」
家に仁成しかいない時かつ、飯時にしか撫でさせないどこぞの馬鹿犬を思い出しながら、自然と両手は左右の子犬の頭を撫でていた。
「よしよし。ホムセン見つけたらブラシとか持って行くか」
こうして、一人だった仁成に仲間が出来た。




