029「華の都 9」
再び仁成を無事に保護した里香子達は、隠れ家のマンションから退去するとカブキヤに一時身を寄せ、カブキヤが買い取り予定だった物件を仁成の金で買い上げ、新たな隠れ家とした。
しかし、全てが順調という訳にもいかなかった。
無事に取り戻した仁成だが、生命活動こそあるものの意識は戻らず、刻一刻と里香子達はある決断を迫られていた。
その間も、彼の身体は再生を続け、保護時にあった打撲痕や骨折痕、裂傷などのあらゆる傷は、灰炎から受けた火傷同様に一部の傷痕を残して癒えた。
その中でも側頭部に残る痕は里香子達の心を傷めた。
本来なら医療施設に入院させ、精密検査と治療を受けさせたいところではあったが、仁成の再生力を信じ、居場所の秘匿を優先させたこと。
そして、もう一つ。ある者の言葉により、そうする他無かったとも言える。
仁成が誘拐され追跡を開始した里香子達は、御庭番の力も借りてMIAになっていた元第四師団所属の魔導兵数人を街中で捕縛した。
だが、捕縛された彼らは逃走が不可能と判断するや否や、その場で自死を選び、仁成の行方に関する情報は聞き出すことが出来なかった。
そこから、一切の痕跡を見つけることが出来ないまま夕刻になり、陽が落ち始めた頃異変が起こる。
京の都からそう離れていない旧国道が通る山中に、突如瘴気が発生。京の都は非常事態宣言が出され、華の都は大混乱に陥った。
街中にはあちこちに警察や消防関係者が配置され、首都防衛を任される第一旅団が瘴気の発生源である山中近くに展開。厳戒態勢が敷かれた。
これには身分を隠し潜伏している里香子達も無理に動けず、仁成捜索が困難になった。
この事から、一度状況の整理と態勢を整えるために隠れ家兼指揮所となっているマンションに戻った彼女達は、そこで理外の存在に出会うことになる。
「おお、遅かったではないか。帰りを待ち侘びていたぞ。かかかかかかかかか」
蕪木琴音も同行し、マンションに戻った里香子達を待ち受けていたのは、仁成の皮を被ったナニかだった。
そのナニかは、リビングのテーブルに仁成が作っていたプラモを広げ、しげしげと眺めながら親し気に里香子達に話しかける。
だが、その周りに漂う異質な魔力を前に、里香子達は一歩もその場から動くことが出来なかった。
「あ、あなたは仁成君、かしら?」
何とか絞り出した言葉は、里香子自身気付かないまま震えていた。
「あぁ、この身体の童のことなら、相違ない」
仁成の姿のまま、古風な語り口調で喋る異質な存在は、悠然と椅子に腰かけたままプラモの腕や脚のパーツを動かしては、興味深く弄り回していた。
「おっ!これはいかん。童に叱られてしまうな。かかかかかかかかか」
扱い慣れていないのか、弄っていた腕の可動域を越えて動かしたことで、肘に当たるパーツが折れて肘先から先が取れた。
「そこの女。櫻耶の末裔だな。これを童が目覚めるまでに直しておいてやってくれぬか?それにしても、童は器用だな。我では作っている最中に壊してしまうぞ。かかかかかかかかか」
里香子の背後、そこで暗器を忍ばせ、いつでも動き出せる様に待機していた琴音は、まさか蕪木家でも極僅かの人間しか知らない初代の名前を言い当てられ、狼狽した。
「な、何故。その名を知っている」
「ん?櫻耶から聞いたからに決まっておろう。可笑しなことを聞く。それより、直せるのか?」
「直せる。いや、それよりもっ」
琴音はつい返事を返してしまったが、自分の方がおかしいのかと錯覚してしまうほど、ナニかの口調と態度は自然だった。
「直せるなら良い。あぁ、そうであった。ついでに皇に伝えておけ。あれは魔の物も生み出さぬし、放っておけば自然と潰えるとな」
続くナニかの言葉に、里香子達は驚愕し、さらに警戒を強める。
「無知を晒す様で申し訳ないのだけど。あれとはもしかして、山中の瘴気の事であってるかしら?もしそうなら、何故あれが自然に潰えると言えるのか説明をお願いできるかしら?」
「…まぁ、よかろう。うぬらは童の我儘に振り回されておるようだしな。何、そう大した話ではない。あれは猿共が終を選び、我がその終を与えた結果に過ぎぬ。ただの偽物よ。だが、近付くのは止めておくとよい。偽物ではあるが、うぬらでは近づくだけで終を迎えるだろうからな。かかかかかかかかか」
「まさか…、瘴気を生み出せるとでもいうの?」
「女。確か里香子だったか。勘違いするでない。偽物だ。あれを魔ノ境など、我は終えても口に出来ぬほど、似ても似つかぬ代物よ。しかし、あれが魔ノ境と勘違いするとはな。かかかかかかかかか。笑かしてくれるではないか。あれと魔ノ境の違いも見抜けぬようでは、聊か心配になるぞ。良いか、これは先達からの助言よ。大海の輝く水面ばかりに気を取られるでない。その下には深く、暗い広大なうねりと流れがあるのだ。うぬらはまだ、その水面から覗いているに過ぎない。深く、より暗いその先を覗き見よ。さすれば、今よりも魔を理解出来よう」
語り掛けるナニかの言葉には、童に諭すような慈しみと同時に、数百、数千年の長きに渡る重みが感じられた。
「あぁ、そうであった。忘れる所であったわ。我も年か。うぬの部屋に猿共の所におった女子二人を寝かせておる。若い女子は赤子を身籠っておるから大切にせよ。子は国の宝であり、未来であるからな」
ナニかの言葉が言い終わる前に、里香子は反射的にリビングを横切り、自室を確認する。そこには確かに、壮年の女性と若い女性の二人が寝かされていた。妊婦の女性には体を冷やさないように、毛布を一枚多めに掛けられている。
「ここに医療班を至急寄越せ。店主とその息子の家族の可能性が高い。身元の照会も忘れずに行え」
里香子は共に来ていた女性隊員に二人を任せると、リビングに戻りナニかの正面に立ち、深く頭を下げた。
「気にする必要はない。あれは少しでも、天の神々が童を見逃してくれぬかと、助けたまで。あぁ、安心するが良い。あれらには魔が溜まらぬように運んでおる。若い女子には、元気な童を産むように伝えよ」
「はい。必ず」
里香子の返事に満足気に頷くナニかは、それまでの何処か飄々とした雰囲気から真面目なものに変り、彼女の眼を真っ直ぐと貫いた。
「良き良き。さて、ここからは少し真剣に話しをするとしようか。まずこの魄の童は既に死んでおる」
誰もが動けずその場で固まる。
ただ一人、里香子だけは何となく察していたのか、拳を握り締め小さく震わせていた。
「猿共は分かるか?」
「…は、い。お、おそらく、仁成君を拉致しようとした第四師団の魔導兵の生き残りで、す」
確かに仁成は千の命を奪う決断をしたかもしれない。多くの人はそれを残酷と評するかもしれないし、それは正しい。だが、見方を変えれば彼は公平に機会を与え、公平に裁いたとも言える。
法があってない様な地、それが瘴気汚染区域。その中で生きる者にとって、時に人が定めた法は意味を成さず、むしろ邪魔になる。
第四師団との交渉時、仁成の態度はあれだったが、それでも彼は最後まで話を聞く姿勢を示し、促していた。
何かあったとすれば、仁成は対等な交渉進めようとし、第四師団は保護という名目を笠に上から交渉に臨もうとした。この両者の違いが、すれ違いを生み、最悪の結果となったことは間違いない。
それでも、里香子は思う。仁成を対等な交渉相手と見なかった第四師団の落ち度だと。
「なら話は早い。あの猿共は愚かにも、自ら招いたことをあろうことか童に責を押し付けおってな。ほれ、これを見よ」
ナニかはそれまで隠していた仁成の身体中にある打撲痕や、軽く陥没している頭部を見せた。
それをまじかで見た里香子は、一瞬にして魔力を全身に漲らせ怒りに震える。
「そこの落ち着け。今更怒ってもどうにもならん」
一瞬。里香子を柔らかな風が撫でる。それだけで、彼女の魔力は凪いだ海の様に穏やかに流れ始めた。
「…うそ。今、何を…」
驚きが怒りに勝り、里香子は呆然と立ち尽くす。彼女は一瞬にして、何をされたか一切分からない恐怖に包まれていた。
崩れかけた里香子を一馬と琴音が支え、椅子に座らせるのを待ってナニかは話を再開した。
「童の頭部は…何と言ったか?あぁ、確か脳であったな。それが半分ほど潰れ、全身の骨は折れ、筋が切られた。他にも贓物に骨が刺さっておったな。致命となったのは間違いなく脳が潰れたからであろう。童の再生力なら、他はどうとでもなっていたであろうが、この脳の治癒には我でも少々手こずった。これらは全て、ある程度代わりに癒しておいた。あとは勝手に再生するであろう」
「あ、あの」
「何だ、櫻耶の子孫よ。申して見よ」
「あ、あの。仁成君は死んでいるんですよね?ですが、今もその身体は動き、話をし、呼吸もしている様に見えます」
「あぁ、それは当たり前だ。魄(身体)は我が生かしているからな。魂は既に身体から離れ、天の神々の裁定を待っていよう」
「裁定?地獄の閻魔様の所でしょうか?」
「そこは現世で欲に溺れたまま終を迎えた咎人が行く、終の無い自由が待つ場所だ。俗に地獄と呼ばれるが、童の魂がまず行く所は白世であろう」
「白世…」
聞き慣れぬ単語に、琴音は今だ呆然とする里香子を一馬と一緒に支え、首をかしげた。
「我がそう呼んでいるだけだがな。現世での生を謳歌し、欲に溺れ、何を悟り、何を成したか。それを見詰め直す場と言えばよいか。その場所は個々人によって見える容が大きく異なる。ある者は神社仏閣のようであり、ある者は野原だったという。おそらく、その者が歩んだ道に関係するのだろう。共通するのは真っ白な世界ということだけじゃ。そこでは、天の神々によって幽世に留まるか、常世に昇るか、はたまた現世に戻される。地獄は見詰め直すまでもなく、咎人が向かう場だ。他にあるとすれば、現世を彷徨うかだが。童は彷徨うほどの未練も怨も残しておらぬし、何事も無ければ白世に赴き、現世に戻され、次の自由を与えられるであろう」
「次の自由…輪廻転生ですか?」
「そうとも言うな。童はまだ何も成しておらん。悟りも開いておらぬし、生を謳歌したとも、欲に溺れたとも言えぬ。おそらく、現世に戻される」
「では、また人として生きると?」
「それもまた違う。現世には多くの命が宿り、自由を得ておる。この世だけが、現世と思ってはいかんな。この星以外の現世に自由を与えられるかもしれぬ」
「えっと、それは宇宙人に転生するということですか?」
「はぁ。これだから最近の者は宇宙の理を知らぬし、忘れおってからに。良いか。この現世は一つの様に見えて、その実多くの現世が幾重にも重なって出来ておる。あの太陽にも、あの月にも。うぬらが気付かぬだけで自由を謳歌し、欲に溺れる魂魄がおる」
「えっ?月にもいるんですか?」
「おるかは分からぬ。我も全ての命を知らぬからな。だが、数多の星々に数多の命が自由を得て、さらなる高見に昇り、常世に至る道を歩んでおるのは確かな事よ。我らもまたその一つに過ぎない」
「な、なら、何れは他の星の命と出会える?」
「いずれは辿り着けるかもしれぬな。だが、うぬらにはまだ早い。種として成熟も成しておらぬし、理も得ておらぬ。そうだな…、うぬらは現世を彷徨う魂に触れ、話すことは出来るか?」
「えっと。それは幽霊とかの事でしょうか?」
「それで構わぬ。呼び名の違いに過ぎぬからな。それで、触れることは出来るのか?」
「いいえ。普通は見ることも出来ません」
「本質はそれと似ておる。我は言ったな。多くの現世が幾重にも重なっておると。宇宙は一つじゃ。だが、その中には命と同じだけの数の現世が重なり同時に存在しておる。現世は互いに交わることはない。命が理を得て目覚めねば、その術に届かぬからな。人は周りの命に比べれば、まだまだ幼い。極一部の者はそれに気付き、理を得たが、種全体が目覚めるには暫しの刻が必要であろう。まぁ、何が言いたいかと言うとじゃ、まだまだ未熟。精進せよと言っておるのよ」
「あっ、はい。精進します」
「良き良き。さて、話を戻そうかの。童の魂が既に死を受け入れ白世に向かったのなら、この魄に生き返ることはない。この現世に転生する可能性はあるがな。その刻は諦め火にくべよ。そして大地と大海と大空、それぞれに撒いておくってやるとよい。さすれば、現世に降りた慈悲深き神々を通じ、童の親元に何らかの形で届けてくれようぞ」
「まだ白世に行っていない場合は?」
「この魄(身体)に戻るか、それとも現世を彷徨うかのどちらかであろう。もし戻ってくるなら、童の意志で戻る必要がある。同時に神々がそれに眼を瞑って下さるかにもよろう。まぁ、童はこちらの現世ではまだ何も成しておらん。一度くらいは神々も眼を瞑って下さるであろう。期は月が満ち、その姿を消すその刻まで。それまでに戻らねば、先程言ったように諦めよ。よいな?」
「はい…分かりました」
「それまでは、我がこの魄を保っておいてやろう。それにしても男子の魄は、女子とは勝手がやはり違うのぉ。だがこれも一興か。しばらくこの魄で、現世を楽しませてもらうとするかのぉ。かかかかかかかかか」
仁成の姿をした謎の女。それも魔法を理外の域にまで高めた存在を前に、仁成以上の危険人物を抱えたかもしれないと、琴音達は不安を抱えるのだった。
「おお、そうであった。もう一つ。我の存在はうぬらと皇だけに留めよ。もし破れば、童の魄を死した刻に戻す。よいな」
その日の夜遅く帰ってきた琴音によって、里香子達の所属は変更されたことが告げられた。だが、所属先は告げられず、ただ従う事を強いられるのだった。
京の都近郊に発生した瘴気によって、仁成誘拐を計画した関係者を含め、多くの要人が避難したことで、一時的に宙に浮く形となっていた。
その間に隠れ家の移設などを済ませるべく、翌日には復活した里香子が再び指揮を執り、今後の事が話し合われた。
まず初めに、仁成の中にいるナニかを何と呼べばよいか悩んでいた一同は、結局本人に聞いてみることにした。
そして、その本人からあっさりと「童の名で呼べ」と言われ、不思議に思った里香子がその理由を尋ねた。
「名は体を表す。これは人が言葉を生み出し、そこに意味を持たせたことで言葉は力を持つようになった。それが言霊じゃ。魂と魄は我でさえ見えぬ何かで繋がっておる。これは童の魄。我の名で呼び続ければ、この魄は我の名で上書きされるかもしれぬ。そうなれば二度と、童の魂はこの魄に辿りつけぬ。名と言霊はそれほど強い力なのじゃ。我がこの童の魄を己が物に出来ぬのも、この魄が童の名で世に認められておるからじゃ。重ねて言うぞ。言葉や名の力を侮るでない。努々忘れるでない」
妙に説得力のあるその助言に、里香子達は素直に従い、彼女のことを仁成と呼び続けることになった。
「まぁ、我と童は性が違うことにも救われておる。魂が異性である分、そうは容易に定着はせぬだろう。だが万一のこともあり得るでな。同じ性なら、容易かったであろうがな。かかかかかかかかか」
女の独白に何処まで本当か、それともホラなのか分からない一同は、只々苦笑いを浮かべることしか出来なかった。
だが、女の知と技が彼女達の常識を遥か超えた先にある事は確か。何となく、彼女の独白は真実である事を皆が感じていた。
その後、隠れ家の場所を移すこと。店主とその息子の家族を保護する準備など、様々な事柄が決まる中、琴音が午後から用事があると告げ、隠れ家のマンションを後にした。
結局その日、琴音が再び姿を見せることは無かった。
琴音の代理として副棟梁の男が午後からの会議に参加し、一時的にカブキヤに厄介になる事が決まると、女から一つの案が出された。
「童の金で、裏手の店舗を買ってしまえば良かろう。なかなかに稼いだのではなかったか?」
さすがにそれはと固辞した里香子達だったが、「童なら気にしないであろう。それに童の財になるのであれば、なおさら悪い話ではない」と押し切られる形で購入が決まると、カブキヤを経由して裏手の店舗が密かに仁成の所有物件として二日後には取引が成立し、引っ越しが始まった。
それから一週間ほどは問題無く過ぎたが、それ以降は度々妨害や襲撃が再会された。だがその事如くを、女が誰にも気づかれぬことなく魔法で、文字通り闇に葬り去った。人気のない場所であれば、わざわざ襲撃者を自らの元に引き込み、魔獣を召喚して遊ばせることもあった。
女が操る謎の魔法のそうだが、里香子達が驚いたのは召喚された魔獣の方だった。召喚された魔獣のほとんどが異形の見知らぬ魔獣や魔物。そのどれもが、灰炎と遜色無いかそれ以上の強さを誇っていた。
そして何故か、そこに月夜達も混ざっていたこともある。
それについて疑問を持った里香子達だったが、魔獣を召喚するというとんでもない離れ業を見たからか、それとも女が話す気がなさそうだったのを察したのか、聞くことはなかった。
ただ一度だけ、好奇心を抑えられなかった一馬が勇気を振り絞り、女に聞いた事がある。その時の彼女の答えは「何でもかんでも我に聞かぬ事じゃ。自らの知恵を絞り、答えを探すことも重要じゃ」とはぐらかされた。その後、この件に関して何一つ彼女は答えてくれなかった。
ただ、全ての疑問に答えないというわけでもなく、時折こちらを試すような形で語ってくれることもある。それは弟子や子供を導く師の様な教えでもあった。
「ふむ。少しばかり我は用が出来た。あぁ、安心せい。身体は維持しておく故、寝かせておけばよい」
仁成の命の期限が刻一刻と迫る中、ナニかは里香子達にそう告げると気配を消し、何処かに去っていた。
それから三日。彼女は戻ることなく、仁成もまた意識が戻ることなく時間が過ぎ、四日目に入ってようやく女が戻って来た。
「童はまだ帰って来ぬか。諦めの悪い小僧と思うておったが、これはもう諦めた方が良いかのぉ」
帰って来て早々に不穏な事を口走る彼女だったが、周りは誰も反論しなかった。里香子達もまた、仁成が彼女の言う白世に行き、次の生に転生したのではないかと考えて始めていたからである。
「まぁ、まだ約した期日まで時間はある。最後まで見届けてやろうかのぉ」
そう言った彼女は、残りの三日の間一度も表に出て来ることはなかった。
第20旅団旅団長景月は、遠く離れた京の都から届く報告書に目を通す度、そこに書かれた「意識不明」の文字に溜息を吐き、諦めの二文字が浮かんでは頭から振り払う毎日を送っていた。
仁成の誘拐から始まった一連の事件はもちろん秘匿されている。
それどころか里香子達の所属は事件後から、一時的に第20旅団から切り離されたことで、景月の元には断片的な情報しか入って来なくなった。
唯一分かっていることは、仁成が無事に救助された事だけ。
仕方なく外部の協力者を雇い、密かに調べさせてもみたが、上からの圧力によって引かざる負えなかった。
仁成を直接保護する自分が、何故蚊帳の外に置かれているのか分からないまま、仁成誘拐事件から一週間以上の時が過ぎようとしていた頃、ある人物が彼の元を訪ねてきた。
「お待たせし、申し訳御座いません。隆愛殿下」
彼を訪ねてきた人物は、爽やかな笑顔溢れる青年。だが、その正体は日ノ本の神の加護を強く受け、天皇に次ぐとも言われる神通力を有しているとも言われる内親王。
まだ20歳と若いが皇族内でも発言力の強い人物である。だが、本人は継承争いに全く興味が無く、それどころか魔力を一切持たない身で魔導学に興味を持つ異端児。
天皇からも半ば呆れられ「好きにさせよ」の言葉以降、身分を偽って魔導大学の学生兼研究員として和彦の元で研究を続けている。
「京近郊の件は聞き及んでいるね?」
「はっ。しかし、魔獣の発生は確認されていないと聞き及んでいます」
「表向きは第一師団の精鋭が抑えていることになってるけどね。今のところ、一体も確認されていないから、安心していいよ。さて、君に任されている彼について先に話そう」
半月以上蚊帳の外に置かれてた中でようやく訪れた機会に、景月は隆愛の一言一句を聞き逃さまいと姿勢を正した。
「タダノヒトナリが亡くなった」
「…残念です」
景月はその役職上、最悪を想定して動かねばならない立場にいる。既に何度も旅団幹部と重ねた中に、仁成の死亡の可能性も考えられていた。
「あまり驚かないね」
「いいえ。驚いております。ただ、予想はしておりました」
「そう。やっぱり君に任せて良かったね。ただ、まだ希望はある。ある人物が彼の身体を癒し、生命活動だけは維持してくれている」
「ですが殿下。先程亡くなったと」
「あぁ、医学的に言えば仮死状態、あるいは脳死状態と言えばいいのかな。意識が戻るかは不明だ。だが、ほぼ絶望的と言っていいだろう。彼の肉体を保護している人物曰く、「魂」が戻れば意識が戻るそうだが、期限が迫っている」
「魂…。殿下、その人物が私から佐那少佐を含む部隊を取り上げ、外された理由でありましょうか?」
「そう思ってくれて構わないが、詮索は一切するな。これは忠告ではない。命令だ。禁を破れば、君でも処分せざる負えない」
「了解致しました」
「悪いけど、明かせる情報は此処までだ。僕がここに来た本当の目的は、教授のおつかいだったんだけど、そのついでに伯父上からも用事をたのまれちゃってね。彼は自分の身に何かあった時のため、密かに遺言状を残し、御庭番に預けていた。これはコピーだが、ほぼ原文のままだそうだ」
隆愛の合図で、彼の護衛が二通の封筒を景月に渡した。
一枚は景月宛のもの。そして分厚いもう一枚の封筒は和彦宛のものだった。
まず景月は自身宛に書かれた手紙ではなく、和彦宛の封筒を開けた。
封筒の中の一番上の書類は、仁成が聖典と呼ぶ成人誌の譲渡状だった。景月はそれを見た瞬間、噴き出してしまう。何故なら、その書類が形式に則った公式文章かと思うほど、丁寧に書かれていたからである。
「ぶふっ。…も、申し訳、ありませ、ん」
「あぁ、聖典の譲渡状か。それ何のことか最初分からなかったそうだよ。聖典としか書かれてないし、文章も公式文章かと思うほど堅い。しかも彼本人が決して誰にも触れさせないモノだから、相当な遺物だろうと御庭番も本気で調べた。だけどねぇ。まさかその聖典が、教授の奥方のグラビアが載ってるただの成年雑誌だとは誰も思わないよ。伯父上もその文章と一緒に報告を聞いて、笑ってたそうだよ」
「でしょうな。聖典と言えば、彼の近くで関わっている者であれば、魔法生活のことを指していることは誰でも知っていましたので、気にもしていませんでした」
「面白いよねぇ、彼。まだあったことがないけど、年もそう変わらないから会ってみたいんだよねぇ」
「殿下とは気が合うと思われます」
その後も雑談を交えながら、景月は書類を一枚一枚確認していく。
聖典譲渡状の下にあったのは、彼自身が集めた収集物を持ち主に無償で返す旨が書かれた書類が数枚。ただし、自分を襲撃した派閥には一切譲渡も返却もしない旨も書かれていた。
そして、その後に続く書類は景月も眼を見張った。
書類の大半を占めるメモ用紙やノートのコピーは、仁成なりの瘴気から魔物、魔力に関する考察が書かれたメモ。そして彼方に在り、此方に無い技術や知識などが箇条書きされたものまである。
そして、最後に最も重要な書類が二枚。
仁成がこちらの世界に来た時に持っていた所有物の全てを、和彦に譲渡する旨が書かれた書状。その中にある此方の世界では実現されていない技術や装置については、天皇に献上する旨が書かれた書状だった。
「ふふふ、はははははははは。これも嫌がらせだな。確かに一番有効的な嫌がらせだが、死んでも渡さんとは天晴だ。ははははははは。殿下、度々失礼しました」
「あぁ、別に気にしていないよ。こちらとしてもありがたいの一言さ」
「続けて、拝見いたします」
景月は続けて自分宛の封筒を開け、短いが仁成なりに感謝を告げる手紙を読み進めた。そして改めて、仁成の素人ながらに考えられた用意周到ぶりと判断に驚かされた。
『俺が持ってたスマホとかは、望月教授の方が適任かなと思って渡すことにしたけど、俺の金銭的財産は第20旅団に寄付するよ。隊員に賞与として分配するなり、装備の開発費に充てるなり好きにして良いよ。俺の生死に関わらず、俺に関わった隊員にはお礼のつもりで別途用意して預けてあるから、それだけは渡して。あと、教授に渡していない所有物は欲しい人がいればその人に、その他は処分するなり、好きにして欲しい。これらは御庭番を通じて、超偉い人から許可は貰ってるから遠慮なく受け取って。月夜達は賢いから、俺が死んだと伝えれば勝手に町に戻るなり、そのまま拠点に居着くなりすると思う。変な枷さえ嵌めなければ、協力もしてくれると思うよ。最後に、十代のガキと決めつけず、対等な交渉相手として見てくれた景月陸将補並びに第20旅団幹部一同に感謝を。第20旅団の今後の活躍と健勝を日ノ本の神々に祈る』
「…よろしいのですか?」
「構わないよ。そこに書かれている金銭的財産だが、まだ換金されていない遺物なども対象だ。一部は相談の上、博物館や研究所に寄贈させてもらうが、それ以外の財産は遺言状通りにされる。それと彼に関わった隊員への賞与だが、こちらで預かっている金を等分するなり、関わった度合いで分けるかは君に任せる。それも後程渡すから受け取ってくれ。君達の分も用意されてたよ。あと、もし彼が生き返ったら、今後も彼からの信頼を得ている君達に任せるつもりだそうだ。これらの手紙や書類が無駄にならない事を祈るばかりだね」
「私は辞退させて頂きましょう。その分は部下達に」
「あぁ、それも任せる。さて、此方に彼が置いたままにしてある遺物や所有物。それら全てをこちらが指定する先に運んでくれ。それで、教授からのおつかいの方だけど、これを彼が共に暮らしていた魔獣に渡してくれ」
再び隆愛の合図で護衛が動き、アタッシュケースを景月に渡す。
「拝見します」
ケースの中には、従魔に付けるための枷一式が入っていた。そして、全ての枷に家門が入っている。
「それは全て偽物だ。教授と僕で色々と手を加えて作った。魔力を通せば反応はするが、何も起こらない。それも許可は取ってある。けど悪用はしないでね」
「了解しました」
「じゃ。僕の用事は済んだけど、折角だからそれを着ける所にも立ち合おうかな。彼の魔獣にも興味があってね」
景月はそっと視線を護衛に向ける。すると彼らも何時もの事なのか、ただ頷くだけだった。
「分かりました。拠点まではさすがにご案内する訳には参りませんので、関所まで連れて来れれば、立ち合いを許可致します」
「それでいいよ。さすがに関所まで超えて入ったことがばれたら、伯父上に謹慎を言い渡されるかもしれないからね」




