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青空を飛んでいく数羽の青い鳥。
微風に揺れる新緑の木々。
雲ひとつない快晴。
元気が一番の太陽。
開けた窓に入り込む空気。
黴ひとつない本棚。
色のない真白い壁。
毎日磨かれる鏡。
汚れひとつない柔らかなベッド。
髪の毛もかさぶたも埃さえ落ちていないワックス掛けの床。
私の中を流れる見えない血液。
穴の空いた心を過ぎ去る風。
電灯がなくともまばゆい部屋。
息を肺いっぱいに吸った時の太陽の匂い。
それから——。
程よい閉塞感と開放感、それからとびきりの清潔感に包まれた純白の部屋。窓の外では萌葱色をした芝生の海を子どもたちが駆けていく。風の化身とも称される子どもたちの表情には屈託のない笑顔が浮かび、ほとばしる汗のしぶきは星々のように輝いていた。
今年も暑い夏がやってきた——私は書きかけの手記を閉じ、ベッドの上から窓の外へ目を向けた。青々とした山の向こうには、油彩で描いたような立体的な入道雲と、濁りのない青色が広がっている。そこには、私が昔に忘れてきたものが眠っていた。空と私の接点について少しだけ思い出そうとしたが、やめた。夏の微風が私の前髪を揺らしていった。
季節の風を肌で感じるようになってから、どのくらい経っただろうか。それはごく最近から感じるようになった気もすれば、ずいぶん昔からわかっていたような気もする。昔の記憶は思った以上に忘れやすく、いつしか見た夢はそう簡単に思い出せるわけもない。
いや、あれは夢だったのではない。本当に起こった事実だ——そう思い込もうとしても、躍起になる意志に反し、脳は機械的に記憶の処理を行うだけだった。人間は前に進むようにできているのだから、過去に縋り続ける行為は無粋というものなのだろう。
ぼんやりと景色を眺めていると、室内に黄色い蝶が迷い込んできた。それはふわりふわりと漂うように風の流れに乗っていた。太陽の光に照らされた蝶は私の前に影を落とし、光の舞台で残像を帯びながら踊り始めた。私は意識を影に移し、黒い腕で蝶の影に触れた。黒い手は蝶を飲み込んだ。直接触っていないのにもかかわらず、現実の手のひらがむずむずとした。すぐに黒い蝶は黒い手から抜け出した。見上げると、黄色い蝶はひらひらと青空へ飛び去っていった。
昔もこんなことがあったような——回顧をしようとした時、ノックの音が鳴り響いた。コンコン、と二回。私はその叩き方をどこかで聞いたことがあった。遠慮がちに、しかし喜びを隠しきれない、といったような音を。
扉が音もなく開く。そこには一人の女性が立っていた。大きな麦わら帽子を被り、そこから長い金髪が溢れている。顔は帽子のつばで見えなかったが、純白のワンピースから露出した手足は細長く、なめらかな乳白色をしていた。
女性は看護師にお辞儀をしてから部屋に入った。強い風が部屋を通り抜けていった。
ゆったりとした歩調で、女性はベッド脇のスツールに腰を掛けた。メイズバスケットと色とりどりの薔薇が巻かれた花束をミニテーブルに置き、麦わら帽子を脱いだ。
黄金の海が波を作る。
「まさか、ここにいるとは思わなかったよ」
凛とした、張りのある声だった。
「あはは。私も」
私は彼女の顔を見つめた。藍色の瞳は静かに燃えていた。
「さっきね、アイリとムウの子どもがお見舞いに来てくれたよ」
「まあ、そうなの。ふたりとも元気だった?」
「それはもう。アイリの子は本が大好きで、ムウの子はよく笑う子だった。ふたりとも、すごく似てた。まるでアイリとムウが来てくれたみたいだった」
それを聞いた女性は柔らかな微笑を浮かべると、窓の外に眼を移した。彼女の目には、この絵画のような光景はどう映っているのだろうか。
女性は三度まばたきをすると、端正なその顔に憐憫らしきものを浮かべた。
「あれから、十年経ったのね」
その言葉は、私たちの現状と彼女の感情を語るには十分だった。言葉で表せない、捉えようのない思いは風のように胸の中を通り過ぎていく。消えていく記憶の中にひっそりと息づいた、色褪せない思い出。それらは砂に埋もれた砂金のように、時に太陽の光を浴びようとして地上に顔を出しては、また砂に隠される。
ふたりで外の風景を眺めていると、まるで私たちがあの頃からタイムスリップして見に来ているような感覚がした。今、この瞬間が現実ではなく、子どもの私たちが見ている幻想なのではないか、と。大人になった彼女が、そんな私を現実に連れ戻した。この光景が夢ではないと明言するように。
女性はバスケットからりんごを取り出し、目の前で剥いてくれた。彼女のナイフ捌きは見事なもので、あっという間にりんごは脱皮した。切れていない一本の皮は運命のリボンやら蛇の抜け殻やらを彷彿とさせた。彼女は手のひらでクリーム色の果実を切り分け、種をくり抜いて私に差し出した。「ありがとう」と言ってりんごの切れ端をかじると、甘酸っぱさが口の中に広がった。思わずあごの付け根がキュッとなる。しゃりしゃりと噛むたびに果汁が口の中で弾けた。
「あなたは本当においしそうに食べるよね」
女性は私に柔らかな眼差しを向けている。
「あの頃だって、一緒に何かするとき、いつもまっすぐだった」
「そうかな。単純なだけじゃない?」
「単純、かぁ……たしかに、純粋だったよね、うん。すごく、純粋だった」
私は依然として、昔のことをはっきりと思い描けずにいた。
みんなで、四人で一緒にいたことは事実であり、記憶として確かに残っている。しかし具体的に何をしていたのか、私たちがどうやって生きていたのか、何を話していたのか、何を夢見ていたのか——あの頃を詳細に思い描こうとしても、雨のような雑音が全てをかき消してしまう。窓の外では親指ほどの太陽が燦々と輝いているというのに。
会話が途切れても私たちは平気だった。私たちの間を吹く風は心地が良かった。
時が流れていくのを肌で感じているうちに、りんごを食べ終えてしまった。
「私ね」
脈略がなくても気にせずに私は口を開いた。
「あれから、世界を旅したの」
「旅?」
女性はナイフやりんごのヘタをバスケットにしまっている。
「そう、旅。自分の目でこの広い世界を見に行ってきたんだ」
「へえ。そうだったの。どうだった?」
「そりゃあもう、すごかったよ!」
私は両手を広げて世界の広さを表現した。
「これよりもずっと広かった。身体でも、言葉でも、表せないくらいにね」
私の手振りを見て、女性は口元を押さえて笑顔を見せた。くしゃっとした笑顔はどこにもなかったが、とても懐かしい表情だと思った。
「そりゃあ時には危ない目にもあったし、酷い場所もあった。お金にはずっと困っててさ、知らないおじさんと一緒にお金になりそうな物を拾いに行ったりもした」
「まあ……旅、というより冒険ね」
「そうそう。大冒険だよ。何度命を落としかけたことか」
私は自然と口の端が吊り上がっているのを感じた。何年かぶりに湧き上がったその喜びに、頬が痛くなった。脳裏には、私が「旅々」で見た光景が鮮明に蘇る。
「それでもさ、世界っていうのはやっぱり綺麗だったんだなって思った」
ほんとうに良いものを言葉で表すことは難しい。
実際に目にしたからこそ分かる、手で触れたからこそ分かる、伝聞などでは絶対に得ることのできない経験。
言葉にならない感覚としての知識は、形がなく、捉えようのない、掛け替えのないものとして、私の記憶となる。
私の想いを彼女に伝えたい。
彼女ならわかってくれる。
私はそう信じている。
「ほんとうの箱庭はね、偽りのそれよりも、広くて、醜くて——そして、ずっと美しいんだ」
外から子どもたちの笑い声が聞こえてくる。窓から覗くと、女の子が四人、ベンチに座っていた。暑い日差しの中で彼女たちは身体を寄せ合い、話に花を咲かせていた。あの子たちも、過ぎ去っていく今を全力で生きている。私の目に、その姿は眩しく映った。
その光景を、女性も見つめていた。風が前髪を揺らし、その表情を隠していた。
私は彼女の手に触れた。細くて白く、冷たくも、温かい手に。
「ねぇ……リタは今、幸せ?」
私の言葉に、リタは言葉で返さなかった。頬を伝う一筋の雫が、透明な光を放った。それを手の甲で拭うと、彼女は小さくもはっきりと頷いた。それが全てだった。私はすっかり嬉しくなり、ベッドの上から腕を伸ばしてリタを抱きしめた。
彼女はあの頃から随分と変わっていた。顔の大きさ、手足の長さ、肩の広さ、肌の柔らかさ、唇の形、鎖骨の影、耳たぶの上で光を放つ赤いピアス、シャンプーの甘い匂いがする真っ直ぐ伸びた金髪、その合間から見えるうなじ、左手の薬指につけられた指輪、純白のきれいなワンピース、膨らんだお腹、時の流れ、彼女の見つめるもの、希望、夢、未来。
あの頃のリタとは全く違うリタ。当たり前だ。時間の流れには逆らえる者は誰ひとりとしていない。容姿も思想も何もかもが変わる。私もあれほど大好きだった絵本は読まなくなった。
それでも、目の前にいるリタは、私の中で生きている、あのリタだった。私の手を握る手が大きくなっていても、指が長くなっていても、あの雨の夜に離さないと決めたリタの手だった。リタがリタであること。過ぎ去ったはずの時の先でも、リタがリタでいてくれたこと——そんな当たり前のことが、とても幸せなことだと、そう思う。
リタは鼻をすすり、私を強く抱きしめた。彼女からは太陽と花の香りがした。私の心の中に、ある一輪の花と一つの太陽が浮かび上がった。真白い太陽を仰ぐ黄金の花。その光景は、あの頃からずっと、私のそばで広がっていたものだった。
「幸せだよ。私、あなたに会えて本当に良かった。あなたは私を救ってくれた。私の憧れで、私の光だった」
彼女は鈴を転がしたような涙声になっていた。私はそれが嬉しくなった。
「私もだよ、リタ。あなたが私を箱庭から出してくれたんだもの。本当に、ありがとう」
私たちは頬と頬を合わせた。彼女のなめらかで柔らかい肌とその温かさに、私は懐かしい思いがこみ上げてきた。それは記憶として完全に思い出せなくとも、確かにあったその日々の存在を証明していた。私は静かに涙を流した。頬と頬が涙と涙で濡れる。風さえも入り込む余地はない。ただ、私たちの息遣いだけが聞こえた。
西日は遠い山際に沈みかけていた。夏の夕陽が私たちを赤橙色に染めている。外にいた子どもたちはいつの間にかいなくなっていた。鈴虫たちが一斉に夜の声を上げる。
「会いに来てくれてありがとう、リタ。リタに会えて、本当に良かった」
「私もだよ。本当にありがとう」
「えへへ……なんだか恥ずかしいね。あの頃はたくさん言ってたはずのにさ」
「たしかにね。私たちもあれから大きくなったもの。しかたないよ」
「そっか……うん、そうだよね。変わっていくものだよね」
私たちは頬を緩ませながら、そう頷いてみせた。
この贅沢なひと時に満足したのか、私の身体が脱力していくのがわかった。
そろそろ、別れの時間がやってきたようだ。
「少し、はしゃぎすぎたみたい……もう、休むね」
自然とまぶたが閉じられていく。私は最後までリタを見つめていた。リタの透き通ったラピスラズリの瞳は、黄昏時の紺色に染まるあの空と同じ色をしていた。その美しさに、また少しだけ涙が溢れる。霞んでいく視界、消えていく輪郭、赤橙が染め上げた黄金の髪が眩しい。彼女のたおやかな金糸は、夜ではなく、朝でもなく、黄昏時に輝く太陽と同調し、この世界のどんなものよりも美しくなることを初めて知った。
私は満足してまぶたを閉じた。暗闇はもうどこにもない。そこに広がるのは、あの頃の私たちの笑顔だった。
あることを、私は願うことにした。
それは、最後の『メメの魔法』だった。




