23
森の中には豪雨が降り注いでいた。肌を打ち付ける横殴りの雫は、鼻や口や耳など、穴という穴から私の中に入り込もうとした。呼吸をするたびに、地上で溺れてしまいそうになる。わずかでも気を抜けば、湖と化した足元に沈んでしまいそうになる。
窓の外から眺めていたあの森の紅葉はどこにも見当たらなかった。森はメメの日記に描いてあった鉛筆画と同じ黒色をしていた。だいいち、ここは本当に森なのか、ただの闇の塊ではないのか——わからなくなる。生き物の気配もせず、樹々を叩く雨音がこだまする中、私の呼吸とリタの吐息だけが、森の中で生命を主張していた。
リタは何も言わずに私を支え続けた。私が足を滑らせても、歩幅が合わなくても、痛みや寒さに身体を強張らせても、彼女は常に隣にいてくれた。時には互いに転んでしまったりもした。脚は言うことを聞かずに棒のようになっていた。それでも、私たちは立ち上がって、また足を踏み出した。
首をひねって背後を見やる。光を灯している「あの家」はすでに、私の小指ほどの大きさになっていた。私たちを閉じ込めていた箱庭。私たちが進むごとに少しずつ、少しずつ小さくなっていく。私の中にある「あの家」の思い出も同じように小さくなっていった。やがて家は、黒い樹々に喰われて視界から消えた。
私たちはどんなことがあっても決して歩みを止めなかった。道がなくても、倒木に阻まれても、雫が眼球を強く弾いても、雷の轟音が響いても、呼吸ができなくなっても、前へ進んだ。まるで何かに取り憑かれているように。その正体はともすればアイリとムウだったのかもしれないし、違ったかもしれない。どちらにせよ、私たちの動力源は胸の中に灯る、ひとつの光だけだった。
ふたりで森の中を駆けていると、もしかしてこの世界は私とリタしかいないのではないか、と思わずにはいられなかった。ふたりぼっちの世界は光のない暗闇が延々と続いているだけで、何もない。私たちは本当に助かるのだろうか。夜雨が身体の温度を奪い、胸の中で燃える炎を凍りつかせようとしてくる。私たちの夢は、未来は、果たしてこの先にあるのだろうか。
そんなことを思っていたのは、私だけだったのかもしれない。
「ビビ、ごめん」
私を見ずにリタが言った。夜雨によるひどい寒さのせいか、鈴の声は震え上がっていた。
「なにが?」
平然と答える。私の声も震え上がっていた。
「ごめんね。私、ほんとうに怖かった」
歩みこそ止めなかったが、握った左手の力が弱くなった。その指先から、リタの感情が弱々しく流れ込んでくる。感情と神経は連動していることを理解する。
「リタは悪くないよ。うん、悪くない」
だからこそ私は、はにかんでみせた。リタは私を見ておらず、俯いていた。
「まだ私、なにも言ってないよ」
「うん。それでもいいの。何を謝っても、リタだから、許されるの」
なにそれ、と言ったリタの声音は依然として震えていた。雨脚がもっと強くなった。膝の真下まで昇った洪水に、流されまいと足を踏ん張る。裸足の裏はくすぐったかったり、ちくちくしたり、ごつごつしたりした。
「私、パパの子どもなのに、そうなるんじゃないかってわかっていたのに、みんなを守れなかった」
リタの指が私から滑っていく。私は返事の代わりにその手を握り直した。濡れた指はすぐに滑り落ちそうになる。その度に握り直した。決して離さなかった。リタの手は血が通っていないかのように冷たかった。彼女の震える声と一緒に、身体の震えが大きくなっていった。
「ムウもアイリもビビも、みんなに痛い思いをさせてしまった。私が弱くて、おくびょうで、なにもできなかったから……だから、ああなってしまった」
お互いの歩幅がちぐはぐになり、歩きづらくなる。
「パパが言ってたよね。ビビが悪い子だと思わなかったって。その通りだよ。みんなはいい子に決まってる。悪い子はただひとり、私だけ」
「リタ」
「変わったと思ったんだ。もうあの頃の私じゃないって。みんなと出会って、強くなったんだって……なんなんだろうね、『変わる』って。こんなかんちがいなんか続けてさ。ばかだよ。昔も、今も」
ついに、私たちの足が止まった。雨が木の梢を、水面を、私たちを叩く音が大きくなった。暴風が真横から殴りつけてくる。洪水に足を持っていかれそうになる。停止した私たちを、自然は喰おうとしているようだった。膝が小さく笑っている。股関節が溶けているように痛む。腰に鉄の板を入れられている感覚がする。
私はリタの震える手を強く握った。雫で滑り落ちそうになる指をひとつとして離さないように絡ませる。木の枝を掴んでいるような細い指だった。
「リタはパパのこと、本当は好きだったんだよね」
リタは私の顔に目もくれなかったが、構わなかった。
「誰だって、本当のパパのことは好きだもの。私も、パパが本当のパパだったら、わかんなかったよ。なにをされても、パパだからってなにもできなかったかもしれない」
「……でも、私、そんなパパも、殺しちゃった。私は、パパの娘なのに……」
雨音に溶けるリタの声は湿っていた。それは雨のせいではないようだった。
私はリタの肩にあごを乗せた。雨雫が涙のように、彼女の耳たぶから垂れていた。
「リタが抱える思いを晴らす言葉はかけられないけど」
雷が轟いている。私は構わずリタの耳元で囁く。
「ひとつだけ言えるのは、あなたは私たちを助けてくれたってこと。たとえ遅かったとしても、あの時、あなたが勇気を出してくれなければ、私たちは未来に行けなかった。こうして今、歩けなかった。あなたはね、私たちを救ってくれた、いい子だよ」
「……私は、悪い子だよ」
「いいや。リタは強くて優しくて、いい子だ」
身体が冷え切っていても、私の吐く言葉には全て熱があると、喉でそう感じた。
「すぐに受け入れられないと思うけど、リタは私たちのすべてを救ってくれたんだ。それはほんとうのことだよ」
「……ビビ」
私たちの身体に染み付いた汚れは、雨粒が洗い流した。
「あなたの罪なんて関係ない。リタだから、すべて許されるの」
私はリタの首筋に唇を近づけた。濡れた髪の毛の内側から見たリタの頬。返り血はすでに流れ落ち、肌の乳白色が闇にぼんやりとにじんでいた。それはいつしか部屋の中から眺めた、満月の表情そのものだった。
「私ね、リタに会えてほんとうによかった。ほんとうの幸せっていうのは、みんながいる日々そのものなんだって、リタが私に教えてくれたんだよ」
ほんとうの想いは、自分の中だけで閉じ込めずに、ありのまま、相手に伝えるからこそ意味がある。
私はリタの正面に顔を寄せた。彼女の顔はいろんなものでくしゃくしゃになっていた。彼女の端整な美貌は台無しになっていた。そんな彼女は、たまらないほど美しかった。
洪水が今にも私たちを連れ去ってしまいそうな中、私はリタの額に額を合わせた。こん、と脳が揺れた。寒気の中でほんのりとした温かさが芽生える。目と鼻の先にあるリタの眼を見つめると、彼女の水没した藍色の瞳は、闇に濡れてもなお宝石のように輝いて見えた。
私は、私が失っていた言葉を取り戻した。
「だから言わせて。リタ、私ね……」
私が囁いた言葉に。
リタは囁き返してくれた。
かすかな鈴の声は、まるで私の頭の中に直接届けられたように、私だけに響いた。
雨の音。
樹の音。
雷の音。
嵐の音。
それらでさえも遮ることができない、私だけに届いた彼女の言葉。
雨の寒さが消えていく。足元の流水を感じなくなる。雷鳴が気にならなくなる。暗闇が怖くなくなる。自由を脅かす存在は、もうどこにもなくなった。
——行こう。私たち、どこまでも。
私たちは再び歩みを始めた。
森に光がなくとも、私たちはずっと歩いていける。
どんな道でも、私たちはもう、ずっと進んでいける。
私たちの中に、ほんとうの幸せがある限り。




