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名残惜しそうに出ていったふたりの背中を見つめながら、私はため息をこぼした。身体の底から排出された息は、魂の類が上乗りしていたのかもしれない。
それに呼応するように、私はひどい鈍痛を思い出した。
パパに握られた箇所ではない。別の器官。私の内側。
何者かが暴れているのだ。文字通りの意味として。
遂に、私にとっての「そのとき」が来た——つまり、そういうことだった。
「……まあ、なんとかなってほしいものね」
昏睡しているムウの髪の毛に触れる。真っ直ぐ伸びた髪の黒。彼女の目はぴったりと閉じられ、瞳の黒水晶はその奥に幽閉されている。睡眠とは異なる静止状態。植物状態という可能性。どちらにせよ、大変な危篤状態であることに変わりはない。
それなのに、私はムウが自分の身体をほっぽり出し、何処かへ行っているのではないかと思った。彼女のことだから、強い衝撃で幽体離脱をした際に、不思議な体験に心を踊らせ、魂がここよりずっと楽しい場所を求め、外に駆け出して行ったのではないか、と。
今、彼女はどこにいるのだろうか。そこでどんなことをしているのだろうか。そして彼女が次に目を覚ますのはいつだろうか。戻ってきた彼女はどうなっているのだろうか。その時、彼女はどんなふうに成長をしているのだろうか。
まるで、ムウが目覚めないかのような妄想に私は取り憑かれていた。不謹慎な妄想を心の中で詫び、私は度の入っていない伊達眼鏡を外した。視界が歪むことはない。メメは眼鏡があることを知的だと言い表したが、私は知的だとは思っていない。ただ、亡くなった父親がかけていた伊達眼鏡をかけているだけだった。顔すら覚えていない父親に思いを馳せることはできない。形見というものは、そんな記憶から抜け落ちようとする者が残した、この世を去る者から残る者へと渡される呪いなのだと思う。
光沢を放つ黒い眼鏡。鼻のフレーム部分が油でさらに輝いている。いつもそうしているように、私はワンピースの裾でそれを拭う。ついでにレンズも指紋の跡を残さずに拭き取る。綺麗になった眼鏡を私はムウに掛けることにした。眼鏡は私が思う以上に縁が歪んでおり、ムウの小さな顔には不釣り合いだった。レンズの奥にあるまぶたのしわが瞳を隠しているため、彼女に似合っているかどうかも判断しづらい。一度だけでもいいから目を開けてほしい、そう思った。
そんないたずらをしても、ムウは目を覚まさなかった。ムウが抱いていた熊の人形は、彼女から程遠い場所に転がっている。
「……疲れた。ムウ、私も隣で眠っていい?」
壁に背を預け、下着に挟んだ造花の薔薇を手に取る。花びらはひとつも散っていなかった。あれほどのいざこざがあったというのに。お守り、と称するには効力が低そうだと思っていたが、どうやら考えを改める必要がありそうだ。
私が直感で選んだ薔薇は緑色だった。
薔薇の花言葉は、色によってその意味を変える。
確か、緑の薔薇は……。
記憶を辿りかけた時に、強い眠気に襲われた。私は、膨らんだ腹の上で薔薇の花冠を握り潰した。小気味良く乾いた音が立ち、緑の花びらは腹の上へと散った。裸になった花茎を放り投げる。弧を描いたそれは赤い海に落ちると、小さな波紋を作った。
これで全て終わりだ——私は満足して目を閉じた。
頭の中では『誰も寝てはならぬ』が流れていた。
みんなと過ごした、あの夜の光景が、鮮明に蘇る。
それらを愛おしく懐古しながら、私は生温かい涙をこぼした。
私のそばにはムウがいる。
それでも、ふたりのいない部屋はとても寒く、とても静かで、とても寂しい。




