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私は「メメ」が好きなのだろう。
所詮は現実を直接変えることのない、空想の産物だ。この状況を救ってくれるなんて都合のいいことは起こらない。何もかもが終わる前に、もう一度だけ懐かしむことができてよかった。空の向こうでもこの絵本の内容を思い出せたらいいな、と思う。
私はその時を待った。
白い場所も、みんなの記憶も、やってこない。
私は依然として『メメの魔法』をはっきりと抱いたままだった。
私は待ち続けた。
人が終わる時はどんな感じだろうか、と想像しながら。
しかしいくら待っても、その時は一向にやってこない。
終わりは一向にして私にたどり着こうとしない。
どこかで迷い子にでもなったのだろうか?
その代わりに、妙な音がした。私が一度も聞いたことがない音だった。似たものとして挙げるのなら、サンドウィッチを床に落としてしまった時の音に似ていた。「あーあ」と呟きたくなるような、そんな音だった。
その直後から生まれた音には、聞き覚えがあった。
雨だった。
ぽたり、ぽたり、と雫の音。
いったい、私の外側で何が起こっているのだろう?
目を開けて世界を確認するのが怖かった。「メメ」が夜中に目を覚ましてしまった時は、果たしてこんな気持ちだったのだろうか?
雨音に耳を傾けながら、私は意を決して目を開けた。強く瞑りすぎたあまり、視界にはぼんやりとした黒い霧が立ち込めていた。まばたきを何度もして、左手で目元をこすると、視界が開けていった。
認識した外側の世界。
そこに立っていたはずのパパが、いなくなっていた。
数秒前と様変わりを遂げたその光景に、目を瞠る。
パパの代わりに立っていたのは、リタだった。
彼女は恐ろしいほど静かにそこに居た。呼吸の音さえもしなかった。
そして、彼女が纏う色彩も変わっていた。顔から足先にかけ、赤黒の液体に染めあげられていた。乳白色の肌、金色の髪、えんじ色のワンピース、小さな手足。それら全てが、本来の色を侵されていた。
私が言葉を失っている間、リタはかすかな呻き声を上げて倒れるパパに対し、右手を振り下ろしていた。尖った赤黒いナイフが、パパの首元に落ちた。獣のような意味のない声が上がった。人の声とは思えなかった。パパの手足はびくびくと弾けるようにして伸びきっていた。人の動きとは思えなかった。ナイフは小麦色の大地から打ち上げられるロケットのように飛び跳ねたかと思うと、すぐさま降下し、着地した。また発射、降下、着地を繰り返した。宙を舞う雫は、大地から空に向けて降り落ちる赤い雨だった。
リタは何度もパパに腕を振り下ろした。パパからひねり出される声は、やがて音にもならなくなっていった。狭い空洞から空気が漏れているだけだった。リタはパパの反応がなくなっても、依然としてその行為をやめなかった。私のことも忘れ、何もかもを忘れ、執拗にそれを繰り返した。
リタは泣いていた。
返り血に染まった頬には透明の雫が流れている。それが床の赤い海に落ちると、一瞬だけ明るい色を作り、すぐに赤黒と混ざり合った。人の海はその色彩を一切変えなかった。こんな海では誰も泳ぎたくないだろう、と私は思う。
涙を流しながら、リタはパパを刺し続けた。
どれだけその行為を続けただろう。パパの身体は輪郭を失い始めていた。ぐちゃぐちゃになってしまったそれは人という形から逸脱していた。初めて見た人がこの物体を人だと認識できるかさえも怪しいほどだった。人だったもの、動物だったもの、ただの肉の塊、などと表現するのがしっくりくるぐらいには、パパは終わっていた。
あんなに大きかったはずのパパの身体は、今となっては私よりも小さく見えた。
私は何も言わずにその光景を見つめていた。喉の震えは消えていたが、リタを止めることはしなかった。ただ、リタのことを見守った。たとえ身体が自由に動いたとしても、私は彼女を止めなかっただろう。彼女の中にある嵐が収まるまで、そうさせた。
赤い雨がふと、やんだ。静寂の夜が訪れたようだった。
リタが私のことを見下ろしていた。濃藍を通り越した、暗闇に濡れた瞳だった。そのあまりにも悲しい色に、胸の奥が締め付けられる。彼女の右手から鮮血が垂れている。もうパパを刺していないのに、とめどなく溢れ出している。ナイフで自身を傷つけてしまったのだろう。パパと同じ色をした液体は、パパの作り出した海の中に溶け込んでいった。
電灯に照らされる赤い刃が、液体の隙間から鈍色を放った。鋭い銀光に目が眩もうとも、私は決してリタから目を離さなかった。
リタの心中を完全に理解することはできない。彼女の中に吹く嵐は、彼女だけのものだ。私たちがどんなに仲が良くとも、触れられないものはある。そっとしておいてほしい、聞かないでほしい、見ないでほしい、感じないでほしい——そういったものを、私はそのままにした。私が思う「普通の友達」という、見えない薄膜がそうさせた。
それでも、一つ、安心したことがあった。
リタの瞳の色はどんなに闇を内包しようとも、それはまぎれもない、リタの色だった。世界のどこを探しても見つかりはしない、リタだけが持つ藍色がそこにあった。リタがリタなのだとわかると、私は唐突に涙を堪えられなくなった。それが溢れることも厭わず、私は彼女に左手を差し出した。リタは淡然と私を見つめていた。濃藍と視線を交差させていると、彼女が抱いていた嵐が私の中へと流れ込んできた。
私はついに、言葉を探すことをやめた。
「ありがとう、リタ」
おそらく場違いな言葉なのだろう。それでも、本心から取り出した言葉だった。
重い頬を吊り上げ、私は無理やりに笑顔を作った。鏡を見なくとも、ぎこちない微笑だとわかる。あごの付け根から骨がごきり、と鳴った。鋭い痛みがやってきても、私は笑顔を保ち続けた。
トン、と小気味の良い音がした。ナイフは、まるで離れたところで落ちたように聞こえた。そうしてリタは、私の胸に飛び込んだ。力の限りを尽くした抱擁だった。骨が軋む。右肩に激痛が走る。それでもこの痛みは、今まで受けた痛みとは全く異なるものだった。心地がよく、ずっと味わっていたい、安心感のある痛みだった。
私たちは動物の求愛行動のように、互いの頬をすり合わせた。混ざり合った赤と透明の先に、彼女の柔らかくてなめらかな肌を感じた。
「リタ、ありがとう。……うん。それしか、言えないや」
言葉は単純でいい。
今は、この温もりだけでいい。
信じがたいことに、『メメの魔法』は叶った。
しかしその願いを叶えたのは、まぎれもなくリタ自身であることが、私はたまらなく嬉しかった。これは『メメの魔法』ではなく『リタの魔法』であり、それこそ、彼女が成し遂げたほんとうの勇気の魔法と呼ぶのだろう。
また涙が溢れ出してくる。頬はいろんなものでいっぱいだった。




