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おやすみ、メメ  作者: ようひ
52/63

16

 世界中の生き物が眠りに就く時がやってきた。

 又の名を、運命の時という。

 冴えた目を見張らせて廊下の気配を探ったのち、トイレの壁を二回叩いた。間髪入れずにノックが四回、返ってくる。四回とはつまり、アイリもムウも準備ができた、という合図だ。私は壁を二回叩き、今度はベッドの上に乗って壁を二回叩いた。即座に三回返ってきた。リタも準備ができているようだ。

 私は窓際に行き、外を眺めた。夜空は分厚い雲で覆われており、満月は存在を隠されている。私はふと感じた深夜の凍てつく空気に身震いを起こした。それは不安にも似た温度だった。それをかき消すように頭を振る。


 ——大丈夫、私たちならやれる。怖くない。これがあるかぎり、怖くなんてない。


 私は手に持っていたものを下着の紐に挟み込んだ。ひんやりとした感触に再び身震いを起こす。息を深く吸い、ゆっくりと吐き出す。それを二回繰り返した。

 やがて、鍵の音がした。音もなく扉が開くと、無表情のアイリ、背後に気を遣うリタ、熊のぬいぐるみを抱えたムウの順番で三人が手を繋いで入ってきた。音を立てずに扉を閉め、私たちは床の上で円を作った。中心には『計画書』を置き、最終確認を行った。それぞれの顔を見合わせて、覚悟を決めた。全員の気持ちは一つになっていた。

 打ち合わせの終わりに私は造花のバラが入ったガラス瓶を中心に置いた。お守りとして願を懸けるのだ。私たちはそれぞれ好きな色のバラを手に取った。

 リタは黄色。

 アイリは緑色。

 ムウは橙色。

 私は赤色を選んだ。

 私たちは手に持ったバラを交わらせ、『計画』の成功を祈った。照明に晒された四色の花は、造花であるにもかかわらず、まるで本物のように瑞々しく輝いた。

 バラは下着の紐に挟んだ。棘のない造花でよかったと思う。

 儀式の最中に、アイリは眉をひそめていた。どうしたのか訊くと、彼女は目を閉じてかぶりを振った。大丈夫だと伝えているようだったが、何か意味があるように思えた。無理をしないで、と私は彼女の背中をさすると、アイリは力なく頷いた。

 部屋の電灯を消し、半開きにした扉から廊下を窺う。人の気配は感じられない。

 先頭を私が、その後ろにアイリ、リタ、ムウの順番で隊形を作った。私たちは顔を見合わせて頷き、廊下に出て扉を静かに閉めた。鍵をかけ、私は心の中で箱庭に別れを告げた。

 月が出ていないせいか、廊下は暗闇に包まれていた。足元の木目さえも見えなかった。そして、ひどく寒かった。身体が手足の先から凍ってしまいそうで、カチカチと鳴る歯を噛みしめた。震えは止まらなかった。

 私たちはパパの部屋から反対方向へと進んだ。リタの部屋の前を通り過ぎ、その先を目指す。ここから先は未踏の地だった。いったい何があるのだろう——足音を立てないように、足の裏がぺたぺたと鳴る音さえ細心の注意を払った。光のない薄暗い世界を一歩ずつ、確実に進んだ。月の光で照らされていなくとも、私たちは進み続けた。

 パパの気配は一向にしなかったが、油断はできない。私ははやる気持ちをきつく抑えた。心臓の音が外に漏れていないか心配になった。

 ある程度進み、一歩を踏み出そうとした。その時、ふと足元がなくなった。音や気配にばかり気を取られていた。まさか道が消えるとは思わず、私は身体のバランスを前方に大きく崩した。

 倒れていく私を止めたのはアイリだった。彼女は私の腕を抱えてくれていた。無重力の空間にいるような姿勢で身体が静止する。引っ張り上げてもらってから、私はアイリに「ごめん、ありがとう」と囁いた。アイリは「ここに階段があったのね」と囁き返した。

 私たちはその階段を慎重に降りた。木製のそれは音が立ちやすく、足を乗せただけで軋んだ。音を出さないことは不可能だった。できる限り、大きな音を立てないように足の力を抜き、つま先から着地させる。視界のない場所では聴覚が優位になるようで、どんなに小さな音でも、鼓膜に突き刺さるほどの轟音に聞こえた。

 どうかパパに聞こえませんように——心の中で強く祈る。

 階段を降りると、その先には薄光さえもない、完全な暗闇が広がっていた。窓があるのか、扉があるのか、道の形は、何も分からない。それでも私たちは立ち止まらずに進んだ。右手で壁を触りながら、一歩、一歩と確かめるように。

 先ほどの出来事で、私はアイリの手を握っていた。アイリのことだから、その出来事からリタと手を繋いだに違いない。リタはずっとムウと手を繋いでいるだろう。これは私の思い込みに過ぎないかもしれない。しかし不思議と分かった。私たちは再び完全な一つの生き物になっていた。足音、呼吸、心臓の鼓動、それらがいくら疎らであろうとも、何か大事なものを通して繋がっている。繋いだ手と、見えない何かでくっついている。そう思うと、もうどこまでも一緒に行けるような気がした。私はいつしかのほんとうの幸せを思い出していた。

 そうしてどれほど進んだだろうか。まるで無限に続く道を歩いているようだった。「私たちは現実を歩いているようで、実は夢の中を歩いていたのよ」とアイリに言われたら、そうだったのかと信じてしまいそうだ。あるいは「私たちは絵本の世界の中にいて、物語が終わるまでずっと廊下を歩き続けるの」と言われたら、終わらないことへの恐怖に足が竦みそうだった。私たちはいったいどこへ向かっているのだろうか。この道を進むことが、果たして正しいのだろうか。

 それでも進み続けると、そんな不安は消えることになる。

 目の前に壁が現れた。ぶつかる寸前で気付き、足を止める。後ろの三人もぶつかることなく静止した。廊下の突き当たりに差し掛かったようだ。手探りでドアノブを見つけ、慎重に木造の扉を開ける。ギィ、とパパの部屋の扉と同じ音がした。

 部屋の中は暗闇に包まれていたが、いくつかの窓から、暗黒よりも少しだけ明るい暗闇が差し込んでいた。それでも、目に映るもの全ては影を纏っていた。


「ビビ。電気、つけよう」


 後ろでアイリが囁いた。私は入り口付近の壁を探り、見つけたスイッチを迷うことなく弾いた。

 ばちん、と音が鳴る。

 電灯は真夜中の太陽だった。焼けそうになる目を閉じ、慣れてからまぶたを開く。

 そこはリビングルームだった。

 広いこの部屋には、リビングテーブルが中心に据えられ、入り口手前にキッチンにダイニングテーブル、その奥には革製のソファ、そして観葉植物の類がいたるところに飾られていた。

 存在すら知らなかった、初めて見る部屋に私は息が詰まった。リビングテーブルの上には、買ってきた物が入った紙袋と新聞、飲みかけのマグカップが置かれている。その光景から、普段ここで過ごしているであろうパパの姿が思い浮かんだ。

 私たちを鉄の扉に閉じ込めておきながら、自分は広々としたリビングルームでひとり悠々と——。

 それ以上の詮索を止める。辺りを見渡すと、テーブル先の扉が目に入った。そこには下駄箱と脱ぎ散らされた数足の革靴があった。この家の出入り口だと分かった途端に、私は今まで抑えつけていた、足の底から這い上がるような喜びを感じた。私たちはお互いに頷いてみせた。同じ想いがそれぞれの中にあったに違いない。

 この先に、自由がある。

 私たちは外に出られる。

 思い描いたそれぞれの願いを叶えられる。

 みんなの幸せが、私の幸せが、メメの幸せが、この先にある。

 私たちはついに、幸せになれる。


「行こう、みんな」


 そう信じて疑わなかった。

 しかし、どうやら願いというものは、叶えようとするとたちまち消え去るものであるらしい。



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