15
最後の朝がやってきた。
私はベッドから飛び起きた。清々しいほどの寒さ、そんなものさえも平気だった。
私は睨むように窓の端に浮かぶ太陽を見つめた。純粋な気持ちだけで朝陽を見つめていたのはいつ頃だったか——。眼球がじりじりと焼けそうになる。視界が太陽以外に何も見えなくなる。それでもまぶたを閉じなかった。
太陽は絵本に描かれるような赤橙ではなく、真白い色をしている。もしかしたら、私たちがこの目で認識している色は、本来その物が持つ色とは違うのかもしれない。もともと太陽に色はなく、私たちが想像で勝手に色をつけているにすぎない。太陽だけではなく、空や雲、天井や床、木、花、虫、鳥、紙、手、足、唾液、血、涙、それら全てが、私の目が勝手に付けた色彩を持っている。
いつかその物が持つ本当の色を見てみたい、そう思った。
限界を迎えてまぶたを強く瞑る。大粒の涙が目尻からこぼれた。指ですくった涙は黒かった。しかしその色はどこに視線を動かしても、物を黒く塗りつぶしていた。目を瞑ってもまぶたの裏を黒く塗りつぶした。何度かまばたきをしていると、いつの間にかそれは消えていた。指の上で震える涙は透明だった。
朝食を摂ることにした。トレイに乗っているのはパンと野菜スープだけだった。相変わらず質素な食事だと思う。しかしあるだけましだ。そのことはパパも最低限配慮しているようだ。私はリタと食事をした思い出を味付けに、残飯のような朝食を堪能した。
『計画書』の実行は今日の深夜だった。ついにこの家ともお別れになる。ずいぶん長いことお世話になっていた気がするし、あるいはそうでもない気もする。「お世話になる」と言えるほど、何かを施されたわけでもないが、少なくとも、私はこの家があったおかげで、今まで生きることができた。ひとりで箱庭にいても楽しかった。埃っぽくてもベッドで寝られたし、食事は質素でも出るし、絵本は面白かったし、窓の外を眺めることが好きだったし、夢を見ることも心待ちにしていた。孤児院よりも、この家での生活の方が圧倒的に楽しかった。
しかしそれらの何よりも、リタ、アイリ、ムウとの出会いだ。三人に出会えたことが、私を最高の幸福者にしてくれた。私が生きてきた今までの全てを肯定してくれた。彼女たちに出会えなかったら、と思うとぞっとする。
ほんとうに、ほんとうに出会えたことが嬉しかった。
私は『計画』を実行する。メメの叶えられなかった想いを、私が成就するのだ。
最後、という意識は私に軽い罪悪感を植え付けようとしていた。私を匿ってくれた箱庭だ。愛着さえ持っていたはずのこの部屋を置いてきぼりにすることが辛く思えた。
箱庭自身からの言葉はない。感情表現もない。反応もない。ただの無機物でしかない。
しかし、私には分かる。壁や天井のしみを通して、床の傷を通して、小さな生き物たちを通して、空気の流れを通して、そこに包み込む私に、話しかけてくる。
——悲しいけど、お別れはいつか必ずやってくるもの。
そう言ったリタの気持ちを、この時になってようやく理解した。
「たしかに、悲しいね」
そう呟くと、ふとリタの鼻歌を思い出した。
部屋の中心に立ち、その場でぐるぐると回りながら「ステン・バイ・ミー」と口ずさんだ。時には口笛を混ぜながら、足で床を叩いたり手で太腿を叩いたりしてリズムを取る。この部屋の全てを動かずに見ることができたらいいのに、と私は思った。人間の目は前についている。自分の後ろを見るためには振り向かなければならない。しかしそれはただ身体の向きを変えただけで、前を見る構造に変わりはない。人体はおそらく、前へ進むために、先に進むためにそう設計されているのだろう。
曲を歌い終わる頃には目が回っていた。その場に屈み込んでも、視界の回転は止まらなかった。込み上げてきた吐き気は、少しだけ懐かしいもののように思えた。
落ち着いたところで椅子に座った。机の引き出しを開け、私は日記を丁重に机の上に出した。古本のように表紙が煤けた装丁本は、触れるだけで、得体の知れないものが指先から込み上げてくる。それは静かで、しかし激しい高揚感だった。
しばらく日記に触れてから、私は表紙に唇をつけた。古臭く、甘い匂いがした。
机の引き出しには芯の丸まった二本の鉛筆、鈍色のナイフが転がっていた。私はピンとひらめき、鉛筆を削ることにした。ナイフの木柄を掴むと、刀身は鈍色に輝いた。それを鉛筆に押し当て、奥に押しやる。刃物による鉛筆削りは、はじめはでこぼことした山と谷を作り上げてしまっていたが、次第に要領を掴むと、ジャッと小気味良い音が鳴るようになり、根元から先端までを直線にすることができた。ナイフの切れ味は非常に良く、誤って触れれば切れてしまいそうだった。
削りかすを集め、二つの尖った鉛筆とナイフを日記の両端に並べた。そうすると、絵本に出てくる豪華な晩餐の食器類を思わせた。私はすっかり満足した。
太陽は灰色の雲に隠れていた。あの雲の上はさぞかし明るいのだろうな、と思う。




