12
廊下から鉄の扉を叩くと、下口の扉が音もなく開いた。私が扉の前で両手を構えて待っていると、金髪が溢れ出した。彼女は床に手をつき、時間をかけてゆっくりと這い出してくると、両足を立てて廊下に立ち上がった。
「今回はぶつけなかったよ」
得意げにそう言った彼女の頭を、私は柔らかく撫でた。
廊下は肌を刺してくるほどの寒さだった。漂う冷気が気体のまま凍っているように思えた。まるで氷の上を歩いているようで、足の裏が床とくっついてしまいそうだった。
私とリタは手を繋ぎ、身を寄せ合って歩いた。ときおり顔を見合わせては、子どもが悪いことをしている時に浮かべる邪険な笑みを作った。「いけないことをしてるね、私たち」とリタが言ったので、私は「ほんとにね」と返した。「いけないことの共犯」という関係は、私の背筋をゾクゾクとさせた。廊下の寒さは消えていた。
私たちはムウの部屋に向かった。音を立てずに鍵を開けた瞬間、暗闇からムウが飛び出してきた。私とリタは彼女を挟み込むようにして抱きしめた。腹から喉にかけてじんわりと温かくなる。薄暗闇の中で、ムウの真黒い瞳は宝石のように輝いた。
ムウを引き連れ、アイリの部屋に向かう。私が扉の鍵を開け、リタとムウが部屋に入り、錆びた鍵を回してかけた後、身を屈めて下口から侵入する。この出入りもずいぶんと慣れたものだ。
下口をくぐり抜けると、アイリたち三人は部屋の中心に並んで待っていた。そこにはまるで、獲物を待ち構える肉食獣のような気迫が漂っていた。ただならぬ気配に、私があえてそこに入らずに俯瞰していると、待ちくたびれたと言わんばかりに肉食獣たちは「すすすす……」と迫ってきた。獲物は壁に追いやられていき、捕まらないための駆け引きの末、とうとう逃げ場を失った。そしてなすすべもなく、取り込まれてしまった。
私たちは本棚の前に並んで腰を下ろした。短い夜が始まった。
視界の端では、リタとムウが戯れ合っていた。ふたりは熊のぬいぐるみを撫でている。どうやらムウはあのぬいぐるみを気に入ったようだった。
私がぼんやり眺めていると、ふと、頬が触れられた。反射的に身体がびくんと跳ねる。アイリが私のあざに触れていた。羽のような柔らかな触り方だった。「痛い?」と訊いてきたので、「ちょっとだけ」と私は答えた。そのまま、私たちは互いの身体を見つめた。ワンピースを互いにめくり、首筋、胸、腹、背中、腰、太腿、膝、足など、全身を余すところなく見せ合った。両者ともに生傷はないものの、浅い傷はいたるところにあり、傷痕になっていたりもした。傷の数は私よりもアイリの方が多かった。彼女の首筋には一本の赤い線がくっきりと走っていた。
「アイリは、大丈夫なの?」
彼女は苦笑を浮かべつつ首肯してみせた。
「まあ……余裕ではないけど、なんとかね」
「そう、なんだ」
私の中の風が強くなった。風は私を簡単に飛ばしてしまいそうな嵐に変わろうとしていた。私は表情に出ないように、それを必死に抑えた。
アイリは私から手を離さなかった。ザラザラとした細い指が皮膚を這っていく。その手が私の傷に触れても、自分で触った時ほどの痛みを感じなかった。彼女の温もりがそうさせたのだと思った。触り心地を確認しているようなその手は、やがて私の腹部に当てられた。ずきり、とした。その奥にある何かが、反応をしているようだった。
アイリはダークブラウンの瞳を細めていた。物思いに耽るように。
私もアイリの腹部に手を当てた。先日の逢瀬よりもさらに大きくなっており、今にも破裂してしまいそうだった。それでもアイリは苦痛を表に出さないでいた。彼女だけが持つ苦しみを分かち合えないことに、私はもどかしさを感じた。
風が立つ。
アイリが苦笑している。
苦しい。悲しい。もどかしい——あらゆる感情がぐちゃぐちゃに混ざり合った時、突如として私の心の中に芽が生えた。それは幼く小さいが、力強い生命力を持っている。私ははっきりと感じ取った。私が「ビビ」ではなくなっていくことを。私の思考が、私の行動が、「メメ」になっていくことを。
危険な感情は、私の背中を強く押した。
私は下着に挟んだ『計画書』を取り出し、手のひらで伸ばして床に広げた。
「ビビ、これは?」
私の突飛な行動にアイリは眼鏡をついと上げ、食い入るようにして紙を覗き込んだ。隅々まで目を通すように、ダークブラウンの瞳がゆらゆらと揺れている。
リタとムウの笑い声がする。
私の中の「メメ」が満面の笑みを浮かべている。
今にも消えてしまいそうな、悲しい笑みだった。
内容を読み終えたアイリは、おもむろに顔を上げて私を見た。彼女の瞳は揺れていた。信じられないものを見た、というよりも、見たものが信じられない、といったふうに。
私は危険な感情を胸に抱えたまま、頷いてみせた。
「メメの願いを、私は叶えたい」
アイリは唇を結んでいた。一気に吐き出したい言葉を慎重に選んでいる様子だった。彼女は何度も頷いた。自身を納得させようと努めているようだった。
「ビビが」
捻り出されるように涼しい声が漏れた。
「ビビがメメのために何かする必要は、ないんじゃないかな。あなたは、あなたがしたいことをすればいい」
「だったらなおさらだよ。私がしたいことは、メメの願いを叶えることだから」
「そう、なのね」
アイリは私の言葉に逐一頷いた。理解はできるものの、納得をしたくない——そう言いたいのだろう。
私はアイリの首筋に頬を寄せた。赤茶色の髪には古い本の匂いが染み込んでいた。
「私はね、アイリ。みんなで幸せになりたい」
彼女の耳元で私は囁く。なんて卑怯な手段なのだろう、と内心で苦笑する。
「アイリ、リタ、ムウもそうだし、私も——メメも含めてね。みんなで幸せになりたいんだ」
「……ビビ」
「だからね、私はメメの願いを叶えるんだ。それにメメもこう書いてるよ。『こけつにずんば、こじをずん』って」
私が首筋から離れると、アイリは拍子抜けしたような顔を浮かべていた。どんな表情をすればいいのか分からない、といった様子だった。私の視線から逃れるように、彼女は両手で顔を隠した。身体は小刻みに震えていた。指の隙間から垣間見える顔の部位から、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
やがて落ち着きを取り戻したアイリは、目元を指でこすりながら、何度も頷いてみせた。深く納得をしたように、決意を固めるように。
「……そうね、『ずんばずん』でいこうか」
私たちは計画の全てを話すことに決めた。リタとムウを呼んで四人で輪を作り、中心に『計画書』を置いた。ふたりは神妙な面持ちをしてその紙を覗き込んだ。ムウは内容を理解せずとも、私たちのただならぬ気配を察知したようで、口をムッと閉ざしていた。
強い反応を示したのはリタだった。直接的な意思表示はないものの、彼女の目つきは触れるもの全てを切ってしまいそうなほど、鋭くなっていた。夜の寒さも凍える藍色に、私は身震いを起こしかけた。
「ついに……この日が来たんだね」
「リタ」
彼女の物言いは、波の立っていない水面のようだった。表面上は穏やかに見えるが、水面下では実に様々な乱流が沸き起こっている。
「いつか来ると思ってた。私、できることならずっと、みんなとここで一緒にいたかった」
でもそうすることもできないよね、と言葉を足して視線を落とした。紅葉と同じ色をしたスカートの裾を掴む。その手は震えている。私は言葉を失っていた。ただ、その姿を見つめることしかできなかった。
「正直に言うとね、メメの『計画書』を読んだ時に、すごく悲しかった。メメの考えていることがわかんなかったのもそうだけど……『ここから逃げる』ってはっきりと書いてあったから」
私は「モモ」が日記を破り取った時のことを思い出した。
あの時の彼女——モモの行動は、はっきりとした拒絶を示していた。「メメ」によって書かれた「計画」は、彼女の持つ願いとは相反していた。おそらく彼女は、自身が持つ花に吹き付けようとする嵐を感じ取ったのだろう。そこで、嵐そのものを切り取った。
「みんなと一緒にいた日々は楽しくて、つらいことがあってもみんな一緒だから平気で、だから……この家から出る必要なんてあるのかなって……」
何を言いたいのか、それは彼女の顔に落ちた影が代弁をしていた。俯いていたリタはおもむろに顔を上げると、きつく結んでいた唇をぱっと解き、無理矢理にくしゃっとした笑みを作った。
「私はここに残るよ。三人で行って」
部屋の中の時間は一分が一時間になっていた。再び俯いてしまったリタにかける言葉を私は見つけられなかった。行動で示すこともできなかった。私は己の無力さを呪った。
完全な沈黙が訪れる。私たちの間に打開力を持つ言葉は生まれなかった。視線さえも交差せず、みんなでいるはずなのに、まるでひとりでいるような孤独感に襲われた。
考えても、考えても、考えるほど、リタを見失っていく。
私の想いは、メメの想いは、リタの想いとは繋がらない。
どうしようもなかった。身動きの取れない現状に打ちのめされてしまう。私は手の甲で目尻を拭った。悔しみの涙はどろりとしていた。
「リタ、ちょっといい?」
深刻な永遠を破ったのは、アイリの涼しげな声だった。
「私はここに来るまで、小さな図書館を経営する人に面倒を見てもらってたの」
突然そんなことを言い出したアイリに、私たちは顔を跳ね上げた。彼女は意に介さずに、淡々と続けた。
「幼い頃に両親が亡くなって、孤児になった私を知り合いだからと言って引き取ってくれた。引き取り先の図書館では司書——といっても単なる真似事だったけれど、その手伝いをして暮らしてた。これは笑い話なんだけど、当時の私は本になんて全く興味がなくてね。膨大な量の本に囲まれていながら、一冊も読まなかったわ」
「え」
私は驚きのあまり声をあげた。
「本、読んでなかったの?」
「読み始めたのはここに来てからなの。だから笑い話。……それで、寂れた図書館だったから、経営難でとっとと売り払われて、彼は私を置いて夜逃げした。私が路頭に迷っていたところでパパと出会って、事情を説明するとこの家に連れてこられた——あとは、ご想像の通りよ」
アイリは額に手を当てて息をついた。あまり思い出したくない記憶のようだった。
私は今更になって、アイリの思惑に気付いた。彼女が作った流れを壊したくない一心で、自分の中に眠る昔の記憶を一生懸命に掘り起こした。思い出したくない、忘れ去ろうとしていた記憶が顔を覗かせる。醜悪なその表情を、私はまっすぐに見つめた。
「えっと……私は、その……家族が、いた」
「え」
今度はアイリが驚きの声をあげた。
「ビビ、家族いたの?」
「あっ、違うの。私がいた孤児院は、そこで暮らす人たちのことを家族って呼ばせてたの」
鮮明に描かれようとされる映像に、頭の奥がズキズキと痛んだ。吐き気が薄く込み上げてくる。思い出したくもない過去が私を蝕もうとする。閉じ込められた暗闇……他の子どもの嗤い声……大人たちの無関心……みんなができることができない……私はこめかみを指先で揉みながら、大きく息を吸った。気付けば私の背中にはアイリの手が当てられていた。
「そこでずっと生活をしてたんだけど、あんまりいいところじゃなくてさ。みんな私と同じような親のいない子どもだったんだけど、仲良くなれなかった。大人は子ども同士のいたずらには知らんぷりだし、私は何もかもがいやだった……ある日に、私は孤児院を抜け出したんだけど、私もアイリみたいに迷子になって、そのときにパパと会った。どんなことを話したのか覚えてないけど……あとは、ごっ、ご想像にお任せ……します」
全てを話し終えた時、全身を柔らかな風が通り抜けていった気がした。誰にも話さなかった、ひとりで抱え込み続けた秘密を明かしたおかげか、先ほどよりも深く息が吸えるようになっていた。今さらになって、背中に当てられた手の温かさを感じた。
「ムウは……言わなくてもいい?」
私がそう訊くと、ムウは「こぷっ」と小さく咳をした。その様子にアイリは「過去を顧みない人でしょうね、ムウは。今を楽しめればいいって眼をしているわ」と苦笑した。
「そういうわけで……少しだけでもいいから、私たちに教えてほしい」
私からリタに向き直ったアイリは涼しげな声で言った。
「リタ、あなたは……何者なの?」
リタは裾を掴んでいた手を離すと、抱きかかえたムウの頭を撫で、私とアイリを交互に見つめた。藍色は深く暗かったが、その奥に彼女の意志が宿ったようにも見えた。
「アイリはやっぱり頭がいいね」
くしゃっとした苦笑を浮かべてリタは言った。
「こんなことされたら、私も話さないといけないじゃない」
「ごめんね、リタ。こうしないとあなたは話してくれないと思った」
いいよ、とリタは諦めたように首を振ると、目を閉じて二回深呼吸をした。そして、藍色の瞳を私たちに向け、意を決したように口を開いた。
「私は……みんながいう『パパ』の、本当の娘なの」
リタは凛とした声で語り始めた。自分がどのような存在なのかを。




