11
目元までかぶった毛布がじんわりと濡れていた。冷たくなったそれが頬に当たると、私の頭は一気に覚醒した。
毛布を蹴り飛ばし、ベッドから跳ね起きる。朝寒は感じなかった。私は一目散に机に向かい、椅子に腰を下ろした。尻の骨が「ごりっ」と鳴った。
引き出しを開け、日記を取り出す。「メメ」の足跡であり、彼女の歴史であり、彼女そのものである。私はまるで人肌に触れるように、そっと表紙を開いた。
一ページ目は白紙だった。
二ページ目からは絵が描かれていた。天井の隅にいる蜘蛛、床の隅にいる飛べない蛾、本棚、壁、鏡、歯ブラシ、窓、鉄格子、床、木目、ベッド、トイレ、電球、電気スイッチ、机、椅子、鉛筆、日記、造花のバラ、絵本、朝食、など——。
彼女はひとつひとつを一ページ丸ごと使って描いていた。そして、一枚一枚には「メメ」とミミズ文字のサインが記されていた。それは紙の端だったり、中央だったり、絵の中に隠してあったりと、ただのサインでも書く場所に工夫が凝らしてあった。日記の大半は絵だけで埋められていた。メメは絵を描くことが好きだったのだろう。
日記の半分ほどから、ようやく文字が現れた。自身の思いを記したページだけを、私は読むことにした。
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にっきをかきたいとおもいます
もじをかくのはにがてだけど
がんばりたいです
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はこにわはいいところです
いろんなものがあってたのしいです
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きのうイチゴをいっぱいたべるゆめをみました
だからあさごはんにイチゴのジャムがでたんだとおもいます
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あしたはきょうとおなじはれになるといいな
わたしもきもはなもとりもよろこびます
そとにでていっぱいはしりたいです
おひさまがわらってておそらがりょうてをひろげててくもがおどってて
そのなかでわたしははしりたいです
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さっきえほんをよみました
おやすみメメとゆうほんです
わたしはこのえほんがだいすきです
おやすみメメのようなえほんをかきたいです
きれいなえとわかりやすいことばのほんをかきたいしよみたいです
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きょうのパンとスープとサラダがおいしかったです
イチゴのジャムをいっぱいかけました
ほっぺがおちそうになりました
かみのけにジャムがついて
このかみにイチゴがはえてきたらいいのになあとおもいました
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くろいあめはほんとうはとうめいです
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おんなのこのこえをききました
とびらのむこうからふたのあしおとがきこえました
わたしのむねはどっきんどっきんなっていました
おんなのこにあいたいです
おんなのこといっしょにおはなしがしたいです
ふたりでえほんをよみたいです
いっしょにごはんがたべたいです
それからてをつなぎたいです
ずっといっしょにいたいです
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てんきははれです
もりはきょうもまっくらです
はっぱはくろみどりで
きはくろちゃいろをしています
きのうあのもりのなかであそぶゆめをみました
みどりいろがまぶしかったです
いつかあのもりにとびだしたいです
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あしたはもっとたのしいいちにちになるといいな
まいにちそうおもえたらいいな
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くろいかみのおんなのこにあいにいこう
よるパパがねたあとにいく
とびらのしたからでる
ふたりでいっしょにおんなのこのへやをさがす
みつからなかったらリタのへやであそぶ
でもかならずおんなのこにあいにいく
メメの文字はミミズが這っているようないびつな形をしていた。鉛筆に込める力が強すぎたのだろう。鉛筆の芯が折れたような形跡もある。
しかしだからこそ、彼女が心を込めて書いていたのだと伝わってくる。短い文章でも、一文に、一語に、一文字に、彼女の感情が溢れんばかりに詰め込まれている。言葉の力が彼女にはあるようだった。
ひとつの絵本を読んでいるようで、私は自然と深いため息をこぼした。
あるページには、ふたりの人物が黒い夜空を眺めている絵が描かれていた。しわのない満月や小さな星屑たちが浮かび、夜の空気は水が流れているように表現されている。その下に、ふたりの後ろ姿があった。長い髪はどちらも薄黒く塗られており、おそらくこれがメメとリタなのだろう。リタの髪色は黒くても、それが星の輝きと同じ色をしているのだと分かった。
そして、リタの想像図。想像と称しているはずなのに、その容姿はリタそのものだった。果たしてメメは想像だけでこれを描いたのだろうか。それとも、彼女の想いはそれほどに大きなものだったのだろうか。最後のリタを描いた絵の隅には、ミミズ文字で「リタ」と書いてあった。
日記を読み終えた頃には、私はメメのことが好きになっていた。リタ、アイリ、ムウがそうであるように。みんながいなくなった彼女の名前を口にする理由が分かった。会ったことのない少女に対する想いは、私の中で膨らみ、胸を苦しくさせた。
日記はこれで終わりではない。最後のページ——リタが破り取った一枚の紙がある。
私は日記を丁重に閉じ、『計画書』を手に取った。メメを想って日記を読んだあとなら、この一枚の紙が実に異様な存在だと分かる。文字はミミズがむやみに暴れたような形をしており、この家から逃げる方法、パパの実態、計画を実行する時間帯、夜の行動、家を出たあと、などが記してあった。とても日記と同じ人物が書いたものとは思えなかった。この計画を記した時、彼女の中には強い想いがあったに違いない。それも、ただの願いではない、現実を変えようとする強い意志を。
紙を持つ手が震えている。私の中で芽を出したメメの意志が、会ったことのない少女の決意が、ここにあるはずのない魂が、私を内側から喰らい尽くそうとしていた。
自分がいったい何者なのか分からなくなる。
私はビビだ、私の名前はビビなんだ——いや、私はビビではなく、もはやメメなのではないか。彼女はすでに実態のない、目に見えない存在となって、日記を読んだ私の身体を乗っ取ろうとしている。私はすでにメメに取り込まれているのではないか。
これは、彼女の遺物に宿った呪いなのだろう。
私は弾かれるように椅子から立ち上がった。洗面台で顔を洗うと、冷水が頬にしみた。顔を上げると、ずぶ濡れになった少女が鏡に映っていた。亜麻色の長髪に、二重のまぶたに収まった灰色の瞳。白い頬に残った紫赤色のあざ。それは私の顔であるはずなのに、私ではない誰かに見えた。
私は鏡に向かって、頬を膨らませたり、下唇を剥いたり、目を見開いたり瞑ったりした。少女もまた、私の顔を忠実に再現した。私は彼女を困らせようと、とびっきりの笑顔を作ってみた。鏡の向こうにいる少女は、笑顔を浮かべていた。




