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物心がつく前の私は、おそらく幸せだったんだと思う。
はっきりとは覚えてないけれど、それは確かだったと信じることにしてる。パパとママがそばにいて、好きなものを与えられて、好きな場所に連れて行ってもらって、好きなことをしてた——と、思う。私が泣けば両親があやしてくれただろうし、食べ物を嫌がっても何も言わなかった、はず。うん、たぶん、そうだと思うんだ。
私ね、妹がいたの。
私がちょうど昔のことを覚えられる歳になったときに、妹は産まれた。私はいきなり姉になったけど、妹はそれはもう、とってもかわいかった。私よりも毛が薄くて、ぷにぷにしてて、しわくちゃで、赤ちゃんって感じ——まぁ、当たり前なんだけどね。私もこのときがあったんだなぁ、って思うとふしぎな気持ちになった。
姉になるってことは、妹のことをちゃんと見ることだと思ってたんだ。歳が近くて、妹の気持ちになれるのは私だけだ、ってね。だから、姉としてがんばろうって決めたんだ。
私が幸せを感じなくなったのは、たぶんこの頃からじゃないかな。
気付けばすごく息苦しくなってた。パパとママは妹のことだけかわいがってたから。今まで私のことをちゃんと見てくれてたはずなのに、ふたりは妹のことばっかり見るようになってた。私が絵を描いたり、落ち葉を拾ってきたり、絵本を声に出して読んだりしても、私を見てはくれなかった。赤ちゃんだった妹のそばにずっといた。
妹が大きくなれば変わるかな、と思った。いつか、ふたりは私のことをまた愛してくれるんだ、って。
でも、違ったんだ。
妹が歩けるようになっても、言葉を話せるようになっても、鉛筆を握れるようになっても、私のことを見ようとしなかった。私が大声を出して泣き叫んだときにだけ見てくれた。といっても、ママが私を叱りながら頬を叩いただけだったんだけどね。それでもないよりは良かった。私は事あるごとにふたりが困るようなことをした。ママはいつも私を叩いたりしてくれた。パパはどこ吹く風だったけどね。
妹が言葉をなんとなく話せるぐらいに大きくなった。物心のついた頃の妹は、自然と私によく懐いた。彼女だけは私を姉だと思ってくれていたんだろうね。「ねーね」って言って甘えてきた。妹はよく私の頬に自分の頬を擦り寄せてきた。私はそれがすごく嬉しくて、ちゃんと姉として妹のことを見続けようって、心にちかった。
本当のことを言うとね、私も甘えたかったんだ。姉とか妹とかじゃなくて、人に甘えたかった。パパとママに甘えられない分、妹に甘えようとも思った。でもそれはできなかった。姉としてちゃんとしなきゃ、って決めたことが引っかかってたから。たぶん、意地を張ってたんだろうね。だからずっと、妹の前ではかっこいい姉でいようとした。
ママからの暴力は、私が泣いてもない時にさえされるようになってた。ママはこのところ外に出ることが増えて、私たちの食事はパパが作るようになってた。夜に帰ってくると必ず、ママは私の腕を引っ張って、ママの部屋に連れて行った——うん、今、ビビが使ってるあの部屋だよ。あそこはもともと、ママの部屋だったんだ。
ママは扉を閉めると、私を力いっぱいに殴った。いくら女の人といっても大人だからね、痛かったよ。服で見えないところがほとんどだったけど。お腹とか胸とかね……。あと、たくさん怒られた。本当にひどい言葉たちだったよ。言葉にするのも嫌なほどにね。今思えば、あれは八つ当たりってやつだったんじゃないかな。
私がママに言い返しても、全く聞く耳を持たなくて、私が謝ってもやめなくて、ママが疲れて寝る前までずっと暴力を振るわれた。そんな生活が毎日続いた。
妹は相変わらず可愛がられてた。私はうらやましいとは思っていたけれど、妹をずるいとは思わなかった。その頃になると、まるで自分自身が褒められているような気分になってたんだ。どうしてだろうね。彼女は私のことを気にかけてくれた。増えた傷を見ては「ごめんね」と謝ってくれた。本当にいい子だったよ。この時に私は「妹だけは傷つけさせない」と新たにちかった。この心臓にね。
ママの暴力がひどくなって、この頃にはナイフが使われてた。机の引き出しから取り出した銀色の刃で私を切ったりもした。これも見えないところが狙われたんだけど、さすがに痛かったな。大声で叫んだ。助けなんて来なかったけど、そうせずにはいられなかった。ママは少しだけ加減はしてくれたようだったけど、かなり肌を傷つけられた。血が止まらない時もあったよ。なんとかして止めたけどね……。
妹がこんな目に遭う日がくるかもしれない——そんな怖さと同時に、私が我慢すれば妹はかわいがられたままなんじゃないか、とも考えた。私にだけ暴力が向けば、ママの力が妹に向くことはない——これも姉としてがんばらなきゃいけないことなんだ、って自分に言い聞かせた。
まぁ、そんなことはまったくなかったんだけどね。
ある日、妹に傷ができていたの。首筋あたりに赤い線がね。私は彼女に問いつめたんだけど、妹は「転んだ」としか言わなかった。何度も何度もしつこく訊いてやっと、「ママが」と泣きながらこぼしたんだ。私は遂にこの時が来てしまった、と思った。
もうここにはいられない。私も妹も傷つけられて、やがて壊されてしまうだろうって。私たちはこの家を出ることにした。パパとママに見つからないように、夜遅くに家を抜け出した。
雨が強い日だった。雷の音もお腹にひびくぐらい大きかった。
私たちは手をつないで森の中をひたすら走った。行くあてはなかったけれど、進んでいけばいつか私たちが助かる場所にたどり着けるはずだって、泣き続ける妹にそう言い聞かせた。もしかしたら、あれは私に言い聞かせてたのかもしれない。
雨のせいで、足元が川のようになってた。妹は小さかったから、すぐに疲れてしまった。私も歩けないくらい疲れてたから、少し休むことにしたの。森の中、洪水の中で、木の幹に手を置いて。
その時はあっさりとやってきた。
雷が森に落ちたんだ。私はその音にびっくりして、妹とつないだ手をゆるめてしまったの。雨で濡れた手は再び握ろうとも、完全に離れてしまった。妹は洪水に流された。
「ねーね」
信じられない、と言っているようだった。激しい雨音にかき消されて、声は聞き落としてしまいそうなほど小さかった。
水面は妹の腰ほどになってた。それに気付いたのは、流された妹が見えなくなったあと。
私は妹を助けようと水の流れに乗ろうとした。でも、できなかった。妹を掴もうとしてた手は、代わりに木を掴んで離さなかったんだ。怖かったんだ。ばかだよね。今でもそう思う。
木に登って、雨に打たれて、歯をカチカチ鳴らしながら、私はひとりで泣いてた。震える両手を骨が折れるくらいに握り締めて、妹が生きていることを誰に祈るわけでもなく、強く願った。
まぁ、もうわかると思うけれど……妹は亡くなった。溺死ってやつだね。かなり遠いところまで流されてた。
朝になって、パパとママが私を探しにきた。家に帰ったら、それはもうひどかったよ。ママは今までにないくらいの暴力をしてきた。腕の骨が折れて力が入らなかったり、歯が折れたりした。殴りながらずっと「お前を産まなければよかった」って言った。この時だけは、ママは正しいと思った。
でもそんな暴力は、続かなかった。
どうしてか知らないけど、ママが家に帰ってこなくなったんだ。
ある日、パパが私の部屋——ムウがいるあの部屋ね、あそこは妹と一緒に使ってた部屋なんだ——に入ってくると「ママは旅に出た」とだけ言った。今までずっと知らぬ顔だったはずのパパは私の腕を掴むと、ある部屋に連れていった。それが今、私がいる部屋。ベッドとトイレに洗面台があるだけで他には何もない部屋だった。子どもにとっては本当に何もない部屋だよね、あそこ。鉄の扉になってたし、窓に鉄の柵が付けられているし、多分パパがそうしたんだと思う。
パパは「ずっとこの部屋にいなさい」と言った。私が何か言おうとする前に、パパは私を殴った。初めてパパから受けた暴力はすごく痛かったな。ママのナイフよりも痛かった。前歯が何本か折れた。子どもの歯でよかったよ。
「子どもは親の言うことを聞くものだ」というパパの言葉に、私は泣きながら頷いた。
その日からずっと、私はあの部屋で怯えながら過ごしてた。パパが入ってくるその時まで、みんなに出会うその時まで、目を閉じて、耳をふさいで、ずっと、ずっとね。




