10
カタン、と小さな音が鳴った。私はベッドから跳ね起き、扉の前で三角座りをした。床が冷たくても、私の中には太陽が昇っていた。「ごん」と重い音がして、下口からリタが片手で額を押さえながら這い出してきた。
「おはよう、ビビ」
「おはよう、リタ」
今は夜だったが、私も同じように返した。
リタは乱れた髪の毛を片手で直した。片方は整ったものの、その反対側がうねりを上げていたので、私は手櫛で波を治めた。リタの頬には大きな紫紅色の新しいあざができていたが、彼女はもはやそんなものは存在しないと言わんばかりに、くしゃっと笑った。
「リタ、その本は?」
私がそう訊くと、彼女は笑みを崩さないまま、口元をニッと釣り上げた。小さな八重歯が白く輝いた。
「私の好きな絵本だよ」
私たちはベッドの端に腰をかけた。ふわふわと舞う塵埃が、鼻をくすぐった。
リタが満を辞したように、私の太ももの上に絵本を置いた。
その表紙には、幸せそうな顔をして眠っている一人の子どもが描かれていた。
題名は、『おやすみ、メメ』。
「これって——」
リタは何も言わずに、嬉しそうに頷いた。私にもその喜びがはっきりと伝わってきた。
表紙をめくり、物語の世界を歩み始める。メメ、という子どもが夜寝る前に願いごとをする。そして朝に目を覚ますと、願いごとが叶っている——そんな話だった。
私はリタがそばにいるにもかかわらず、今この場には私と『おやすみ、メメ』しかないような、そんな気持ちで絵本の世界に没頭した。綺麗な水彩画が心地よく、易しい言葉がページをどんどんめくらせる。
私はあっという間に物語を読み終えてしまった。しばらくその世界から抜け出せず、ようやく現実に戻ってきて、私は真っ先にリタを見つめた。自然と、深いため息がこぼれた。
「すき」
絵本の感想を伝えようとしたが、出てきた言葉は私の思考に反した、感情をありのままに表したものに過ぎなかった。慌てて別の言葉を探そうとするものの、私の想いはリタにはっきりと伝わったようだった。
「私も」
私たちは二人で最初から読み返すことにした。あるページを開いては「ブロッコリーが出たらうれしいよね」と、またあるページでは「晴れたらメメは何をしに行くんだろうね」と。絵本はひとりで読むものだと思っていたが、誰かと読むのもいいものだと思った。何より、この素敵な物語をリタと共有できることの喜びがずっと大きかった。ひとりでは得られないものがあるのだと、私は思った。
そうして二人でも絵本を読み終えた。私たちは恍惚とした顔を見合わせて、ため息をこぼした。
「これはね、メメが大好きだった絵本だよ」
「メメの名前はここから?」と私が訊くと、リタは静かに頷いた。私は「いい名前だね、メメ。うん、願いを楽しみにするひと。メメ」と言った。
絵本を閉じ、私たちはベッドの端に並んだまま、互いの肩と肩、頭と頭を合わせた。
「リタは、どんなお願いをしたい?」
「私はね……すてきなおよめさんになりたい」
リタは赤くした頬を両手で包みながら話した。素敵な人とお付き合いをして、素敵なプロポーズを受けて、素敵な教会で式を挙げて、子どもを授かって、大変だけど、お互いに幸せだと言えるような日々を送りたい、と。
「それでね、私はその人を支えるんだ。どんなにつらくても、どんなに苦しくても、決してくじけないように、ちゃんとね」
私は「リタならぜったいになれるよ」と微笑んでみせた。彼女も同じようにした。
「ビビは?」
「私は……自分の願い、と言えるかどうかわからないけど……」
そう言いかけると、急に顔が焼けるように熱くなった。喉がカラカラに乾き、唇が固くなっているのが分かる。どうやら私は緊張をしているらしい。身体が少しだけ震えている。それでも、リタが静かに聞いてくれていることが、私の背中をとん、と押した。私の口から、はっきりとした言葉が飛び出した。
「みんながほんとうに幸せになること、かな」
顔から火が出てしまいそうだった。心臓が耳の裏で鳴っていた。自身の思いを赤裸々に語ることは恥ずかしかったが、何かが吹っ切れたのか、清々しい風を感じた。
リタは目を見開いていた。見た者をその中に吸い込んでしまいそうな深い藍色が、私をはっきりと捉えていた。そして、リタはくしゃっと笑った。
「ほんとうに、ほんとうにすてきな願いだよ」
リタは鈴の声だった。
私たちはそれから、何も言わずに身を寄せ合い続けた。沈黙はもはや私たちを見守っていた。言葉はなくとも、漂う空気は暖かかった。
そんな中、リタが弾かれるようにして立ち上がった。私は支えを失って、そのままベッドに倒れこんだ。粗い毛布が頬や耳をくすぐる。あらゆる物が横に倒れた視界の中で、リタが私に一枚の紙を差し出していた。どうしたのだろう、と私が身体を起こして紙を受け取った瞬間、彼女は勢いよく頭を下げた。リタの後ろ髪が津波のように押し寄せ、私を飲み込んだ。黄金の海からは、花と太陽のような香りがした。
「あんなことして、ごめんなさい」
差し出された紙は、リタが破り取った日記の最後のページだった。ミミズのような文字で書かれた、メメの願い。私はあの時の「モモ」としての彼女を思い出した。夕日が差し込む部屋の中、耐えるような彼女の表情、きつく結ばれた唇、目尻に残った涙の残滓、赤褐色に抗う淡い乳白色。
忘れかけていたこの光景を手放してはならない、と私は記憶を鮮明に描き続けた。あの時の彼女の表情から、彼女の感情を探ろうと試みる。私は、やはり大事な何かを忘れているのではないか——そう思わずにはいられなかった。私の意思と反し、記憶は曖昧なものになっていく。現在から遡ったところで、得られるものは何もなかった。
私は紙を受け取り、リタが広げた黄金の海を泳いだ。波をかき分け、聞こえる息遣いを頼りに、彼女が待っているところまで進む。そして、見つけた白い首筋にそっと指を触れた。
「もし、私がリタだったら、たぶん同じことをしてたと思う」
明白なことは、リタにとってメメは本当に大きな存在であった、ということ。
そんな彼女を追及することは、私にはできなかった。
おもむろに波が引いていく。私の身体が自然と海の中心へ引き寄せられていく。顔をあげたリタは、引力のままに私を抱きしめた。互いのワンピースを隔てて、リタの心臓の鼓動が私の心臓に直接伝わってくる。それは交互に時を刻んでいたり、たまに一緒になったりした。果たして、どちらが早く鳴っているのだろうか。
「ビビは、優しいね」
耳元で柔らかな鈴の音。海と鈴と、リタと私。
「私、いつも甘えてばかり」
「リタが甘えてくれるの、私は好きだよ」
彼女は小さな声で、ありがとう、と言った。
心臓の鼓動が早くなっているのは、どうやら私の方だった。




