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おやすみ、メメ  作者: ようひ
42/63

9

 

「こんばんは、アイリ」


 今夜に密会を行う予定はなかったが、私はひとりでアイリに会いに行った。友達ともっと仲良くなるには、ふたりきりになると良い——そう思っての行動だった。


「こんばんは、ビビ」


 そう返すと、アイリは膝に立てて読んでいた本を閉じた。私は彼女の隣に腰を降ろした。背中の大きな本棚が、私たちを見下ろしていた。


「どうしたの。何か聞きたいことがあるの?」


 柔らかなダークブラウンが私に向けられる。寝起きの心地よさに似ている。


「ううん。ちょっとね、アイリに会いたいなって」


 そうなの、と彼女は頬を緩めた。

 私はアイリの読んでいた本を開いてみた。古い本のようだった。どんな内容なのか尋ねると、幸せについての本だよ、と言った。昔の哲学者が記した書物らしい。私が興味を示すと、彼女は簡単に説明をしてくれた。本文は難解で、全く理解ができなかったが、アイリはそれを私にも分かる言葉に訳してくれた。彼女の言葉は整頓が行き届いた部屋のようで、どんなに乱雑に物が散らばっていても、それら一つ一つを拾い上げ、あるべき場所に置いていった。本をよく読む彼女の言葉は、心地の良い音楽のようだった。


「幸せっていうのはね、自分の外にはないものなのよ」


 アイリの声音は涼しげなもので、小川のせせらぎのようだった。


「自分の中にあるってこと?」


「そういうこと。どんな人と付き合おうとも、自分が思ったもの、感じ取ったものが全てなの。多分、そう言っているんだと思う」


「なるほど」


 私は本を閉じて彼女を見つめた。


「でも、私はみんなといる方が幸せだよ」


「たしかにね」


 アイリは眼鏡の縁を指でつい、と押しあげた。


「それも自分の中にあるものだと思うよ。ほら、寝る時にまぶたを閉じると……」


「みんなの顔が浮かぶ!」


 そうそう、とアイリは苦笑する。


「もはや、みんなは自分の中に取り込まれているのよ。だから、それもこの本の、自分の中にある幸せに当てはまるんだろうね」


「じゃあ、私たちはちゃんと幸せなんだね」


 寄せ合う肩からは、アイリのわずかな震えが伝わっていた。

 会って話をしただけなのに、私たちの時間は、例外なくあっという間に流れていった。


「もう朝になっちゃった。『パパの日』はすごく長く感じるのに」


 窓からの淡い光に私はあくびをした。


「それはね、相対性理論っていうんだよ」


「そうたいせいりろん?」


 彼女が再びわかりやすい説明をしてくれた。熱いストーブに触ると一分が一時間になり、可愛い女の子といると一時間が一分になる——そんな例え話を交えながら、楽しさと苦しさは時間の速さを変えてしまう、という理論だった。


「それって、タイムスリップができるってこと?」


 私がそう訊くと、アイリはしばしの間、きょとんとした顔をした。そして弾けるように、口の端を歪ませて笑い声をあげた。初めて聞いた彼女の笑い声は、涼しいものではなく、暖かい陽光のようだった。「リタも前に、同じことを言ってたよ」と目尻を指でこすりながらアイリは言った。私はリタと同じ考えだったことを嬉しく思った。


「楽しい時間がずっと続けばいいのにね」


「そうね」


 私は名残惜しくアイリを見つめた。彼女の腹は初めて会った時よりも大きくなっていた。

 そのアイリの腹に、私はそっと手を置いた。この中に人がいることに、実感が湧かなかった。私もアイリもそこから産まれ、全てが始まったというのに。私とは違う境遇に立っているアイリは、しかし辛そうな表情を一切浮かべなかった。私が何度か気を遣おうとすると、「いいよ」と決まって遠慮をした。


「アイリ、つらい?」


 彼女は首を振った。


「別に、耐えられないほどではないよ」


「お腹の中で動くんじゃないの?」


「そりゃあもう」


 彼女は柔らかな苦笑を浮かべた。


「好き勝手に暴れるよ。内側から破られそう」


「今は大丈夫?」


「うん。少し前はすごかったけどね……今は比較的大人しい、かな」


 そう言うと、彼女は私の手の甲に自身の手を重ねた。今にも折れてしまいそうなほどに細く、かさかさとしていて、私以上に温かかった。この温度が、彼女を前へと導いているのだろうか、と思った。


「本が好きでよかったよ。動かずに楽しめるから」


「本を取るのは大変そうだけど……」


 そうなのよね、と彼女は天を仰いだ。私も同じように上を向く。私たちを見下ろす、大きな本棚が視界を埋める。


「この大量の本を、一冊の本で読むことができたらいいのに」


 彼女の一言を契機に、私の頭の中に一冊の本が現れた。それはただの小さな本なのに、めくってもめくっても、ページが終わることがない。そして、読みたいものが紙の上に浮かび上がる。私の好きな絵本も、アイリの好きな難しい本も、どんな内容でも。


「アイリがその本を作ればいいんだよ」


 それいいね、と弾かれるようにアイリが言った。


「本だけじゃなくて、新聞とか、写真とか、誰かが話した言葉とか……いろんな情報が読めたら助かるね」


「絵が描けるのはどう?」


「なるほど。無限に書ける紙ってことね」


「それをみんなで一緒に使える、とか」


 思考が創造を始める。私の中で、ムウがきゃっきゃと笑う顔が浮かんだ。


「……そんな紙が、あればいいんだけどさ」


「紙じゃなくてもいいのかもしれない」


 アイリも想像に熱が入ってきたようだった。


「たとえば、こう……板とか」


「板か」


 私の中で、先入観が壊れる音がした。文字は紙だけのものではないと気付く。


「いいね。いっぱい書けて、いっぱい読める板。まるで魔法の板だ」


「魔法ね……そんな便利な物があればいいのにな」


「そういえばさ、ペンで書いて、かんたんに消せる板のおもちゃ、あったよね」


「あったあった。あれ、書きにくかったよね」


「しかも消したくないところまで消えてがっかりしたりね」


「ある、ある」


 私が帰るその時まで、話が途切れることはなかった。



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