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「こんばんは、アイリ」
今夜に密会を行う予定はなかったが、私はひとりでアイリに会いに行った。友達ともっと仲良くなるには、ふたりきりになると良い——そう思っての行動だった。
「こんばんは、ビビ」
そう返すと、アイリは膝に立てて読んでいた本を閉じた。私は彼女の隣に腰を降ろした。背中の大きな本棚が、私たちを見下ろしていた。
「どうしたの。何か聞きたいことがあるの?」
柔らかなダークブラウンが私に向けられる。寝起きの心地よさに似ている。
「ううん。ちょっとね、アイリに会いたいなって」
そうなの、と彼女は頬を緩めた。
私はアイリの読んでいた本を開いてみた。古い本のようだった。どんな内容なのか尋ねると、幸せについての本だよ、と言った。昔の哲学者が記した書物らしい。私が興味を示すと、彼女は簡単に説明をしてくれた。本文は難解で、全く理解ができなかったが、アイリはそれを私にも分かる言葉に訳してくれた。彼女の言葉は整頓が行き届いた部屋のようで、どんなに乱雑に物が散らばっていても、それら一つ一つを拾い上げ、あるべき場所に置いていった。本をよく読む彼女の言葉は、心地の良い音楽のようだった。
「幸せっていうのはね、自分の外にはないものなのよ」
アイリの声音は涼しげなもので、小川のせせらぎのようだった。
「自分の中にあるってこと?」
「そういうこと。どんな人と付き合おうとも、自分が思ったもの、感じ取ったものが全てなの。多分、そう言っているんだと思う」
「なるほど」
私は本を閉じて彼女を見つめた。
「でも、私はみんなといる方が幸せだよ」
「たしかにね」
アイリは眼鏡の縁を指でつい、と押しあげた。
「それも自分の中にあるものだと思うよ。ほら、寝る時にまぶたを閉じると……」
「みんなの顔が浮かぶ!」
そうそう、とアイリは苦笑する。
「もはや、みんなは自分の中に取り込まれているのよ。だから、それもこの本の、自分の中にある幸せに当てはまるんだろうね」
「じゃあ、私たちはちゃんと幸せなんだね」
寄せ合う肩からは、アイリのわずかな震えが伝わっていた。
会って話をしただけなのに、私たちの時間は、例外なくあっという間に流れていった。
「もう朝になっちゃった。『パパの日』はすごく長く感じるのに」
窓からの淡い光に私はあくびをした。
「それはね、相対性理論っていうんだよ」
「そうたいせいりろん?」
彼女が再びわかりやすい説明をしてくれた。熱いストーブに触ると一分が一時間になり、可愛い女の子といると一時間が一分になる——そんな例え話を交えながら、楽しさと苦しさは時間の速さを変えてしまう、という理論だった。
「それって、タイムスリップができるってこと?」
私がそう訊くと、アイリはしばしの間、きょとんとした顔をした。そして弾けるように、口の端を歪ませて笑い声をあげた。初めて聞いた彼女の笑い声は、涼しいものではなく、暖かい陽光のようだった。「リタも前に、同じことを言ってたよ」と目尻を指でこすりながらアイリは言った。私はリタと同じ考えだったことを嬉しく思った。
「楽しい時間がずっと続けばいいのにね」
「そうね」
私は名残惜しくアイリを見つめた。彼女の腹は初めて会った時よりも大きくなっていた。
そのアイリの腹に、私はそっと手を置いた。この中に人がいることに、実感が湧かなかった。私もアイリもそこから産まれ、全てが始まったというのに。私とは違う境遇に立っているアイリは、しかし辛そうな表情を一切浮かべなかった。私が何度か気を遣おうとすると、「いいよ」と決まって遠慮をした。
「アイリ、つらい?」
彼女は首を振った。
「別に、耐えられないほどではないよ」
「お腹の中で動くんじゃないの?」
「そりゃあもう」
彼女は柔らかな苦笑を浮かべた。
「好き勝手に暴れるよ。内側から破られそう」
「今は大丈夫?」
「うん。少し前はすごかったけどね……今は比較的大人しい、かな」
そう言うと、彼女は私の手の甲に自身の手を重ねた。今にも折れてしまいそうなほどに細く、かさかさとしていて、私以上に温かかった。この温度が、彼女を前へと導いているのだろうか、と思った。
「本が好きでよかったよ。動かずに楽しめるから」
「本を取るのは大変そうだけど……」
そうなのよね、と彼女は天を仰いだ。私も同じように上を向く。私たちを見下ろす、大きな本棚が視界を埋める。
「この大量の本を、一冊の本で読むことができたらいいのに」
彼女の一言を契機に、私の頭の中に一冊の本が現れた。それはただの小さな本なのに、めくってもめくっても、ページが終わることがない。そして、読みたいものが紙の上に浮かび上がる。私の好きな絵本も、アイリの好きな難しい本も、どんな内容でも。
「アイリがその本を作ればいいんだよ」
それいいね、と弾かれるようにアイリが言った。
「本だけじゃなくて、新聞とか、写真とか、誰かが話した言葉とか……いろんな情報が読めたら助かるね」
「絵が描けるのはどう?」
「なるほど。無限に書ける紙ってことね」
「それをみんなで一緒に使える、とか」
思考が創造を始める。私の中で、ムウがきゃっきゃと笑う顔が浮かんだ。
「……そんな紙が、あればいいんだけどさ」
「紙じゃなくてもいいのかもしれない」
アイリも想像に熱が入ってきたようだった。
「たとえば、こう……板とか」
「板か」
私の中で、先入観が壊れる音がした。文字は紙だけのものではないと気付く。
「いいね。いっぱい書けて、いっぱい読める板。まるで魔法の板だ」
「魔法ね……そんな便利な物があればいいのにな」
「そういえばさ、ペンで書いて、かんたんに消せる板のおもちゃ、あったよね」
「あったあった。あれ、書きにくかったよね」
「しかも消したくないところまで消えてがっかりしたりね」
「ある、ある」
私が帰るその時まで、話が途切れることはなかった。




