7
ある夜、私はひとりでムウの部屋を訪れた。
リタとアイリはふたりとも眠ってしまっていた。私は眠るのがもったいないと思い、一縷の望みにかけて下口をくぐった。
ムウは私を見るや否や、一目散に駆け出してきた。華奢な身体を受け止めきれず、私は扉に背中を打ち付けた。ムウはキャッキャと笑っていた。
「こんばんは、ムウ。あなたに会いに来たよ」
異様に明るい電灯が、散らばった玩具たちを照らしていた。私はムウを抱き上げ、この家に来る前の記憶を引っ張り出した。見覚えのある玩具たち。玩具で遊んだ記憶。私の記憶。それらはあまりいい思い出ではなかったが、懐かしさだけが全てを許した。
耳元に顔を埋めるムウからは、ハチミツのような甘い香りがした。彼女は自身の鼻を私の腕に擦り付けていた。鼻水が滴る感覚は、不思議と不快ではなかった。初めて会ったから、彼女はこうして肌心地を味わうように、私の身体に密着をする。高い体温は凍える夜をいくらか暖めてくれた。
ムウの腹は日に日に大きくなっていた。しかし本人がそれを気に留める様子はなかったので、直接確かめるようなことはしなかった。せめて危なくないように、と私は彼女の身体をいたわった。
玩具の中に、熊のぬいぐるみがあった。白かった毛並みはボサボサになり、ところどころ黄ばんでいる。かなり年季が入っていた。二の腕あたりは糸がほつれ、中から綿がはみ出し、眼球を表現する黒いボタンは片方が取れている。それでも、熊は不満を口にすることなく、四肢を伸ばしたまま、動かない。
私はそれをムウに抱きかかえさせた。なぜか、そうしたくなったのだ。熊は、ムウの唾液などで濡れていった。
もし、この熊に感情があるのだとしたら——と考える。何を思うだろう。早く直してくれ? 強く抱かないでくれ? 濡らさないでくれ? 捨てないでくれ? 忘れないでくれ? それとも、自身のことなど顧みずに、いつもそばにいる少女のことを想っているのだろうか。
そんなぬいぐるみが、この世にひとつぐらいあってもいいだろう、と私は思う。
「めっめ」
ムウは喃語を使う。言葉を知る以前の状態だ。私にもこんな時期があったのだろうか。物心がつく前の自分の姿を私は思い描けず、ようやくそれらしき人物像が浮かび上がったとしても、結局はムウの姿を思い浮かべたに過ぎなかった。視界に映るムウと、脳内に浮かんだ子どもの姿が、同時にキャッキャと笑った。
「あっ、懐かしい」
私は落ちていた積み木を集めた。四角と三角の立方体を組み合わせ、簡単な家を造る。ベージュ色の檜の家は、扉も窓もなく、中身もない。私はそこに住む人を想像した。どんな人だろうか。どんな暮らしだろうか。家族構成は、仕事は、趣味は、一日の終わりに何をするか、明日に向けてどんな準備をするか——。
「むふふむ」
私が造った家の周りに、ムウが嬉々としてやってきた。
彼女はあやとり用の太い糸で家の周辺を囲むと、その中にドミノの白い板を寝かせて置いた。途端に、私の中でひとつの風景が広がっていった。大自然の中で羊がのんびりとしている、その風景を。家に住む人が羊飼いになった、その瞬間だった。
私は嬉しくなり、それなら放牧をさせるべきだ、と家の周りの玩具を片付け、野原を造った。ムウは緑色のクレヨンを拾うと、床に直接草木を伸ばした。私も同じようにクレヨンを握り、桃色の花を咲かせたり、樹木に赤い果物を実らせたりした。
手は止まることなく、世界が作り上がっていく。
ムウがキャッキャと笑う声が野原にこだまする。
異様に明るい電灯は太陽の役割を果たしていた。
私はとうとう、この羊飼いと同一化した。目の前に広がる緑。羊たちの鳴き声。真白い大きな太陽。檜で作られた小さな家。少女の笑い声。私はお金のことよりも、この生活を優先させようとする。自然と共に過ごす、この日々がたまらなく愛おしく思っている。
初めに建てた簡素な家から、羊が生まれ、放牧地ができ、世界はここまで大きくなった。始まりはどんなに小さなものでも、想像力でここまで大きくなる。そしてそれは私だけの力では到底作れるものではなく、ムウのような存在が居たからこそ、生まれたのだ。
私は広い世界を見渡した。ほんとうの風が肌を撫でているようだった。
「ぷああ」
最後に、ムウが熊のぬいぐるみを野原の中心に置いた。
そのあまりの荒唐無稽さに、私は失笑する。
こんなに大きな熊が突然現れたら、羊たちはさぞかし困惑するだろうな、と。
しかし、熊はおとなしく野原に佇んでいるだけで何もしない。それなら、それでいいのだろう。だいいち、これはムウという神様の思し召しなのだから、仕方のない話である。
「ムウはすごいね。なんでも作れちゃうんだね」
私はすっかり満足した。ムウはまだ世界を創造し足りない、と目を輝かせていた。




