6
まぶたを開くと、天井が目に入った。
元々白かったそれは日光に焼けて黄ばんでいた。寝起きに見るものではなかったが、大陸やら人の肌やらを彷彿とさせる、馴染みのある顔がそこにはあった。それをぼんやりと見つめ、一息ついた。
ベッドから身を起こす。つんと冷えた鼻の先を指でこする。指の感触があっても、鼻の感覚がなくなっている。その指と鼻の感覚が引き起こす差異が面白く、つついたりつねったりこすったりしてみた。そのうち鼻水が垂れてきたので、すん、と穏やかにすすった。
頭の中はすっかり冴えていた。空気は澄み切り、脳が万全な環境に喜んでいる。うん、と大きく伸びをして、ベッドから飛び降りた。氷のような床だった。
窓の外を覗くと、霧が晴れていた。そして、森は様変わりを遂げていた。
うっとうしいほどの緑はどこにもなく、代わりに広がっていたのは、紅色だった。一瞬で目を奪われた。もっと間近で見たい、と窓に顔を寄せようとすると、どん、と鈍い音がした。鉄格子があることをすっかり忘れていた。両頬が冷たい棒に挟まったまま、私は赤い森を眺めた。
葉っぱは黄と赤に変色していた。目を凝らすと、黄と赤を混ぜ合わせて明度を程よく調節されていることが分かった。ただの黄ではなく、ただの赤でもない、自然にしか作り出すことのできない色彩。さらに、それらは太陽の光を浴びることで、より複雑で、より素敵な色を醸成していた。落ち葉さえ高級な絨毯として大地を彩っていた。まるで宝石の森にいるようだった。
「秋って、いいなぁ」
ふと、誰かとこの風景を共有したい、と強く思った。
秋の色を堪能したのち、首に力を入れるも、なかなか顔は鉄格子から抜けなかった。足を縁に立てて腰に力を入れる。目の中心あたりへ肉が集まり、窓に薄く映った顔はまるで潰れたパンのようだった。あまりのおかしさに笑うと、その反動で顔は抜け、勢いよく床に転がった。頬が冷気に撫でられてヒリヒリとした。頬を触った手のひらには血は付いていなかった。鏡を覗くと白い頬が縦に赤くなっていたが、やはり血は出ていなかった。
空気が澄んでいるおかげか、部屋の中はいつもより広かった。
天井の隅にいる蜘蛛、床の隅にいる飛べない蛾、本棚、壁、鏡、歯ブラシ、窓、鉄格子、床、木目、ベッド、トイレ、電球、電気スイッチ、机、椅子、鉛筆、日記、造花のバラ、絵本、朝食——。
変わらないはずの物たちが、どこか変わっている気がした。ずっと過ごしてきた、ずっと見てきたはずのこの部屋は、私の記憶にあるものとは違う、誰かの、別の部屋のように思えた。
この奇妙な感覚について考えようとした時に、腹の虫が鳴った。私は扉の前に置かれた朝食のトレイを持ち、ベッドの上に飛び乗った。スープが器から溢れた。それを指で掬って舐めると、野菜特有の味が舌の上に転がった。
「うえっ、にが……まずい……」
鼻を摘んで、野菜スープを一気に飲み干す。十秒待ってから指を離すも、苦味はまだ居座っていた。
口直しの硬いパンを頬張りながら、好きな絵本——二匹のネズミが巨大なカステラを作る物語——を読んだ。動物たちが金色のカステラを食べる絵が出てくると、実際に食事を摂っているのにもかかわらず、腹の虫が抗議の音を立てた。もっとウマイ物をよこせ、と言っているようだった。私も、毎日の食事が笑顔になるくらい美味しければいいのになあ、と思った。
頭の冴えた日に読む絵本は格別だった。物語の細部にまで集中できるため、普段の三倍以上は楽しめる。
噛み切ったパンのかけらを口の中で転がしながら、ときおり本の間に挟まったパンくずに、息を吹きかけて飛ばした。その際に勢いあまって、噛んでいたパンが「ポン」と飛び出した。慌ててそれを口に戻すと、唾液まみれのパンは氷を舐めているように冷たくなっていた。紙にべっとりと付いた唾液はワンピースの裾でこすった。絵本に鼻を近づけると、匂いは移っていないようで、紙からは足の裏のような癖のある匂いがした。
パンを食べ終え、食器を洗い、歯を磨き、トイレを済ませ、手を洗い、再び絵本に戻ろうとした時だった。
コンコン、と壁が鳴った。私は待ってたと言わんばかりに壁に吸い付き、二回鳴らした。力を込めすぎてしまったのか、ドンドンと重い音を立ててしまった。自分でも少しやりすぎたと思った。壁の向こう側も困惑したのか、遠慮がちに二回、小さな音が返ってきた。
頭の中は秋の色でいっぱいだった。彼女が入って来たらすぐに共有しよう、と決めた。
やがてノックの主が私の部屋にやってきた。扉の前で三角座りをして待っていると、足元で小さな風が吹いた。私の胸は高鳴っていた。吊り上がる頬を両手で押さえた。
下口から金髪が生えてきた。まだ声をかけてはならない。あえて、気付かないふりをする。すると、「ごん」と重い音がした。私の頬は再び吊り上がった。様子を窺っていると、這い出してきた彼女は、乱れた前髪の隙間から露わになった額を手で押さえていた。
「うぅ、やっぱり慣れないよ……」
「おはよう、リタ」
心の中で温めておいた一言をかける。特定の舌の動きに、何度も名前を呼びたくなる。心の中で何度も「り」「た」と呼んでみる。呼ぶたびに、胸がじんわりと温かくなる。
私は彼女の手を引いて立ち上がらせた。冷たい手に指を絡め、彼女の返事も待たずに、窓際に向かって一緒に歩き出した。
「ね、リタ。窓の外見た?」
「ううん」
彼女が小さく首を振ると、淡い金色の渦が巻いた。
「すごいよ。霧が晴れて、森全体が赤くなっててさ。まるで木に紅い宝石が実ったみたいなんだ」
「宝石!」
彼女が目を見開くと、藍色の瞳が陽光によって光り輝いた。それは、目の前に広がる秋の景色とはまた一味違った美しさだった。
私はルビーやトパーズ、ガーネット、コハク、イエローダイヤモンドなど——紅葉に似た宝石を思い付く限り想像してみた。図鑑で見るどんな宝石よりも、紅葉は煌びやかだった。肉眼で見るものだからこそ、写真とは違う美しさを感じることができるのだろう。あの輝く葉身を、この手で直接掴んでみたいと思った。
隣から感嘆するように吐息が漏れる。その反応が嬉しくなって、私も同じように吐息を漏らしてみた。繋いでいる手は強く握られている。冷たい手のひらはこのまま、私の手とくっついてしまいそうだった。寒かったはずの窓辺は、すでに暖かくなっていた。
「紅葉っていいよね」
リタはこの空気に溶けて消えてしまいそうな、そんな声で言った。
「葉っぱは緑だと思ってるから、それが赤になると、なんだかふしぎな感じがする」
「私も、そう思ってたところ」
木々を照らす太陽が窓の端に隠れるまで、私たちは輝く宝石たちを眺めていた。




