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パパの手を振り払おうとした——それが終わりの始まりだった。
パパはじっと私を見つめた。この頃、パパはまるで別人になったような顔をしていた。頬は痩せこけ、濃いしわはさらに深くなり、瞳は完全に光を失ったように真っ暗だった。ただでさえ暗かった瞳は、窓から差し込んだ朝陽でさえも照らすことのできない闇を抱えていた。まるで死神のような顔だった。人としての心を完全に失ったようだった。
パパはもう一度私の腕を掴んだ。皮膚が千切れるほど捻られ、強く引っ張られる。どんなに力を入れようとも逃げることは叶わない。私の中に残っていた抵抗心、反抗心は廊下を進むごとにその炎を弱めていき、パパの部屋に引き込まれた時には消え去っていた。
パパの部屋に入るや否や、私はベッドに突き飛ばされた。硬い手の感触が背中に残ったまま、雲のような柔らかい毛布が私を包んだ。私の部屋の毛布とは質感が全く違った。
テーブルランプの赤橙色が部屋の隅々まで淡く照らしていた。私の前に立ったパパの背後に、巨大な影が揺らめいている。どちらが本当のパパなのだろうか。赤橙でさえも入り込む余地のない闇の瞳と、巨大な影が、私を見下ろしている。
パパはわかりやすく拳を握った。私はいつものように奥歯を食いしばった。どん、と重い衝撃がして、首から上の力が一気に抜けた。頭がぐらんぐらんと大きく揺れ、横に倒れた。倒れる先が雲の上でよかった、と思う。すぐさま髪を強引に掴まれ、無理やり身体を起こされる。死神が私を見ていた。本物だと思った。
パパは大声で私を罵った。彼の言葉たちは私の全てを否定する役目を担っていた。その間も拳は止まなかった。パパはテーブルの上に置かれた黄金の液体が入った瓶を呷ると、口を大きく開け、私の鼻筋に歯を立てた。酸味の強い匂いと煙のような臭さに前歯がキンとした。パパの口からこぼれてくる液体は、私の頬を伝って口の中に侵入しようとする。唾液と混ざり合って粘り滴る液体に、我慢できずにむせた。私を噛んでいる前歯に力が込められる。今にも噛みちぎられてしまいそうだった。鋭い痛みに耐えられず、私は液体を飲み込んでしまった。ごくりと喉が鳴った。受け入れたその味はとてつもなく苦かったが、幸か不幸か、今ある痛みを少しだけ和らげた。
すぐさま、私の身体に変化が現れ始めた。私の顔からは火が出ていた。対抗心の炎がまだ残っていたのだろうか。分からない。視界がぼんやりと霞む。眼鏡が必要になったのだろう。今度アイリに借りなければ。胃の底でマグマが煮えている。冷やす方法は何かないか。パパが私から歯を離した。吐き出される息に鼻がヒリヒリとする。彼の前歯は紅く染まっていた。わけが分からないでいるうちに、また拳が振り抜かれた。
私は思う。
いったいどうして、こうなっているんだろう?
私は命の危険を感じた。正確には、私にとって命よりも大切な何かが失われてしまう、この男によって奪われてしまう、と。この現状をなんとかしなければ、と必死に頭を働かせても、硬い拳と酸味の強い匂いが、簡単に思考を奪い去ってしまう。考えても、考えても、頭の中は空っぽにされる。
箱庭。
この時、私によって閉じられたあの世界がどれだけ私を救っていたのか、痛みを通して理解した。私はずっと、こんな苦痛に苛まれていたんだ。ずっと痛い思いをしていたんだ。「箱庭」という妄想の世界は、ずっと、ずっとずっと、私を助けてくれていたんだ。私を現実から白い場所へと乖離させ、私を救ってくれていたんだ。
私は私を救ってくれていた存在から自ら脱してしまった。繋がりを断つことを望んでしまった。一度失ってしまったものを都合よく取り戻せはしない。頭の血管が千切れるほど願ったとしても、私を助けてくれたあの白い場所はもうやってこない。全てが遅すぎた。
どすん、と拳とは違う衝撃がして、私は猛烈な吐き気に襲われた。パパの脚が私のお腹にめり込んでいた。この不快感は今までにないものだった。私は呻き声を上げ、胃の内容物を吐き出した。私の腹の上に、私の内側から飛び出した、形の失った固体物と液体物が手を取り合って踊っていた。漂ってくるすえた匂いに口元を押さえると、その手ごと強く殴られた。中指が妙な方向に歪曲した。それでも吐き気は止まらなかった。私はベッドの脇に顔を出し、胃の底をひっくり返した。
パパはもはや人間とは思えない顔をしていた。淡々と命を刈り取る死神はもうそこにはなく、怒りに我を失った鬼のようだった。彼はどうやら潔癖性を持っているようだった。怒りとは私が犯した汚損だったらしい。それはパパのベッドにはしみひとつないこと、『パパの日』には必ず私たちをバスルームに連れて行くこと、私たちの服を定期的に洗っていることなどからも分かる。パパは自身と密接に関わるものを清潔に保とうとする。つまり、そういうことだった。私が彼の脚やらベッドやらその脇やらを汚したことは、彼の穢れない矜持に泥を塗る大問題だった。
私は十分に吐くこともできないまま、再び腹を殴られた。さらにこみ上げてくる吐き気は、しかし首にあてがわれた手によって阻まれた。出ようとする吐物が強引に抑え込まれ、胃袋は破裂しそうになった。声の代わりに悲鳴をあげるように、喉の奥ではぐるぐると音が鳴り続けた。
傷を負うごとに、遅れてやってくる痛みに、私の中から何かが抜け落ちていく。霞んだ視界にぱちぱちと光の粒子が飛び始めた。屋内で星々が流れていた。それらをきれいだと喜ぶ前に、視界は水浸しになった。鬼のような表情も水没して見えなくなった。その方が安心した。誰に殴られているのか分からなくなった方が楽だった。
吐き気、痛み、苦しみ、悲しみ、喪失感。
私はもう何もかもがどうでもよくなっていた。『計画』のことも頭から吹き飛んだ。
もうこの家から逃げ出さなくてもいいのではないか——痛みという恐怖を知ってしまった今、そんな結論にたどり着いてしまう。私の身体はがたがたと震えていた。口の端からこぼれた唾液と、鼻の頭から流れる鮮血が、頬を伝う涙に混ざり合い、パパの手の甲に垂れた。また怒鳴り声が上がり、殴られる。
もう、どうでもいい。
「箱庭」のない世界は、あまりにも冷酷で、過酷で、残酷だ。
こんなことになるなら……希望なんて持たない方がよかった。天から地に落とされたら、誰だって苦しい。どんな人だって、人でなくたって、この絶望には耐えられない。幸せを求めたのに、不幸を叩きつけられたら、生きるのが嫌になってしまう。どうして生きているのか、どうして死んでいないのか、と。
遠くなってゆく音。色。痛み。吐き気。感情。想い。
私の中で芽生える不快な感覚に、どうしてか心地よさを感じていた。痛いだけなのに、苦しいだけなのに、悲しいだけなのに、私の心は満たされていった。私の大切なものを失う代わりに、別の何かが注入されるように。その正体は、歪んだ安心感なのかもしれない。全てを投げ出すことの一時的な快楽。崩壊していく快感。堕ちていく幸福——そんな最低な感情にさえ、縋ってしまった。
もういい。終わりにしよう。全部、捨ててしまおう。未来への希望も、私の好きなものも、みんなのことも、その何もかもを消そう。ただ、私は終わりにしたかった。手に持ったものを捨てる苦しみは、持ち続けた時間に比例して大きくなる。だから、ここで手放すのだ。
沈んでいく意識の中で、私は救いのない世界に向けて呟いた。
おやすみ、メメ。




