19
悪心も夜になると大分楽になった。いつでも盛り返しそうな気配はあったが、そんなものに構っているほど暇ではない。真夜中は私たちの時間だった。
月が窓の隅から消えた頃、こんこん、と壁を叩く音が二回鳴った。私はベッドの上に寝たまま、返事をするように壁を三回叩き返した。間髪入れずに三回、返ってくる。小さく抑えられてはいるが、今から会いに行くことを心待ちにしている、嬉しそうに音が弾んでいるような、そんな音だった。私はベッドから立ち上がると、部屋の反対側にあるトイレに入り、壁を二回叩いた。少し間が開いて、ノックが返ってきた。「いいよ」とおしとやかに喋るように、三回鳴った。
私は下口から廊下を覗いた。すると、遠くの方から足音が聞こえてきた。咄嗟に扉を閉め、引きずるように身を引いた。突然の出来事に、心臓の鼓動が耳の裏で鳴りだし、首筋に汗が噴き出した。閉めた扉の向こうで足音は大きくなっていった。こちらに向かって来ているようだ。足音は一人分で、音の大きさ、歩くリズムから、パパのものだと分かった。疲れているような、ゆったりとした、やけにリズムの乱れた足音だった。
私はいつでもベッドに戻れる体勢を取った。そして余計な音を出さないよう、口呼吸に切り替えた。神経を尖らせ、様子を窺う。冷や汗が時間とともに流れていった。実際には五分ぐらいしか経っていないだろうが、私にとって一時間ぐらいずっとそうしていたように思えた。足音が遠くなっていく中、突然壁が鳴った。不意を突かれ、身体が飛び跳ねた。
ベッド側の壁は四回鳴らされた。「どうする?」と言っているようだった。私はベッドに乗り、「ようす、みる」と壁を三回、二回に分けてノックした。
私は再び扉の前に戻ると、下口から横目で廊下の一角を窺った。パパの音は既になかった。月の光に照らされた廊下を眺めていると、細かい木目には埃やら虫の触覚やらが詰まっていた。木材がすり減って白くなった箇所があり、歩いている時には気付かなかった出っ張りとへこみがたくさんあった。今までなんとなく見てきた物の中にも新しい発見があるのだとぼんやり思った。
そうしているうちに、視界の端に「にゅっ」と白い顔が生えた。私は今度こそ小さな悲鳴を上げた。
下口の扉が遠慮がちに開かれた。「大丈夫?」と囁くリタ。私は「まあ」と返し、続けて「リタこそ、廊下に居て大丈夫?」と訊いた。彼女は不安そうに眉をひそめたが、ふと立ち上がり、パパの部屋の方へとひたひた歩いて行った。私は彼女の行動に「あっ!」と声を出しかけた。リタの姿は小さくなっていき、曲がり角で消えた。彼女は今、どんな気持ちで歩いているのか、想像するだけで息が苦しくなった。動悸が止まらなかった。いつもと違う種類の吐き気がした。
やがてリタが戻ってくると、彼女は合わせた両手を耳元に持ってきて目を閉じたり、頭の上に両腕で大きく円を作ったりした。その身振り手振りを翻訳すると、「寝てるから大丈夫」だった。私は胸を撫でおろし、溜まった息を吐き出した。リタは将来、冒険家になるかもしれないな、と苦笑した。
私が下口から這い出ようとすると、リタは外側から部屋の鍵を開けてくれた。私は苦しむことなく部屋から出ることができた。私は立っているリタを抱きしめた。今までにないくらい、強く抱きしめた。リタは「どうしたの?」と目を瞬かせていた。ほんとうの思いやりとはこういうものなんだろうな、と私は思った。
自室の鍵を閉め、私たちは手を繋いでアイリの部屋へ向かった。
アイリの部屋の鍵をリタが開ける。お先にどうぞ、とリタはくしゃっとした笑顔を浮かべた。ありがとう、と言いかけた時、私はその顔の端にあるものを捉えた。リタの先には鉄の扉があった。私やリタ、アイリの部屋のものと同じだった。
その扉の下口から、顔が生えていた。黒い髪の子がこちらを見つめていた。
「ヘゃあっ」
私と視線が合うと、その子はニッと前歯を露わにした。屈託のない笑顔だった。
「メメ?」
リタが不思議そうに私の手の甲に触れた。気付いた時にはその子は消え、鉄の扉は何事もなかったかのように、闇の中に佇んでいた。
「ご、ごめん。ちょっと行く場所ができたから、先に入ってて」
リタは首を傾げつつも、「気をつけてね」とアイリの部屋に入っていった。私は錆びついた鍵を回した。
背後から差し込む薄月光を頼りに廊下を進む。あの子が生えていた鉄の扉は、私たちと同じものだった。
私は先ほどの子が浮かべていた笑顔を思い出していた。邪な感情など一切ない、楽しいとき、嬉しいときに浮かべる純粋な表情だった。いったいなぜ、そんな表情を私たちに向けていたのだろう。そして、私たちと同じ境遇ならば、どうしてそんな表情を浮かべられるのだろう?
私は恐る恐る下口を開け、室内の様子を窺った。これは罠かもしれない。あの子は実はパパと何かしらの利害関係にあり、夜な夜な部屋を抜け出す私たちを監視する役目を担っているのかもしれない。
ほどなくして、室内から女の子の甲高い声がした。誰かに話しかけているようだった。心臓が鼓動を速めたが、どうやら独り言のようだった。さらに聞いていると、彼女が発するものは言葉というより音だった。「あー」「うー」「ぱっぷ」「むいむい」「めるめ」など、それらは赤子が発する意味のない言葉に似ていた。
それほどまでに幼い子が、あの笑顔を浮かべていた子で、ここに独りでいる——?
そう考えると、一気に不安が押し寄せてきた。気付けば私は下口に足を入れていた。お腹がつかえるのも気にしなかった。吐き気などどうでもよかった。とにかく、この扉の向こう側に行きたかった。この子に会いたかった。下口の縁から飛び出た釘で肩を切ってしまったことも、どうでもよかった。私の身体なんて、痛みなんて、今はどうでもよかった。
室内に入ると、甘い香りがした。ハチミツのような匂いだった。私は暗闇の中で女の子を探そうと目を見張った。次第に目が慣れ、物の輪郭が掴めるようになった時、その目当ての女の子は、私の目と鼻の先にいた。
「んぎぅぃ……」
私は出かけた悲鳴を強く押し殺した。まるで鳥の首を絞めたようなその声に、キャッキャと無邪気な笑い声が返ってくる。薄暗闇の中で、黒い瞳がきらめいた。私が唖然としていると、私の頬に両手が置かれた。小さくて温かい手だった。その高い体温を心地よく感じているのもつかの間、彼女は私の鼻に自身の鼻をくっつけてきた。ぬめりと粘ついたそれは、骨がないと思えるほどに柔らかかった。鼻の頭に出来たにきびが思い出したかのようにツンと痛んだ。
彼女はどうやら熱が入り始めたようで、私の後頭部に腕を回すと、なすりつけるようにさらに鼻を押し付けてきた。私は彼女の濡れた鼻から一切逃げられなくなった。私の鼻をはじめとして、頬、唇、あご、眉毛、まぶた、まつげ等の顔全体が液体まみれになった。もはや抵抗する気力も起きず、熱くなった喉がズキズキとするのを感じていた。
いったい私は何をしているのだろう。これは本当に罠なのだろうか?
執拗なマーキングの後、ようやく満足したのか、彼女はキャッキャと笑うと、私から手を離した。私は苦笑いを浮かべながら、入り口付近の電灯のスイッチを押した。パチンと甲高い音がして、視界が白く染まる。咄嗟に覆った腕に青い筋が何本も透けて見えた。
女の子は、私より一回り小さく、華奢な身体つきをしていた。襟足ほどで揃えられた黒髪はまっすぐに伸び、いつしかリタが見たという黒い髪の女の子は彼女のことだったのか、と理解した。彼女は私やアイリと同じ白いワンピースを着ていた。幼さの残る顔は私の手のひらより少し大きく、頬はまるでゆで卵の表面のように弾力があった。
私は彼女の頭に手を置いた。細い黒髪からほんのりとした温かさが伝わってくる。
「あなたのお名前は?」
この問いに対し、彼女はきょとんとした顔を浮かべた。「わからない」といった様子であったが、それ以前の問題のようにも見えた。まるで言葉の意味がわかっていないようだった。もう一度尋ねてみるものの、彼女が捻り出したのは「むー」の一言だけだった。
私は赤子を相手にしているわけではない。彼女は華奢でも、言葉を話せる年齢には確実に達しているはずだ。こんなに言葉が通じない人は初めてだと、私は混乱した。
助けを求めるように視線を周囲に向けると、室内には遊び道具が散在していた。その大多数は中途半端に手をつけられた積み木やままごと、ブロック玩具、遊び人形、絵本など、幼児向けのものばかりで、やはり彼女の年齢に合っていない。恐らく、彼女が話せない理由もここにあるのではないか、と推察した。
さらに眺めていると、部屋の隅にある戸棚が目に入った。本を納める本棚とは違い、何か物を飾るスペースとして使われているようだった。私が気になったのは、そこに立てられた写真だった。
私は顔を触ってくる彼女の手を優しく振り払い、戸棚に向かった。
戸棚には埃が雪のように積もっていた。フォトフレームに入れられた写真は色あせており、その黄ばんだ世界の中には四つの人影が写っていた。元々は白だった背景に、赤子を抱いて椅子に座っている女性らしき人。その後ろには背の大きな男性らしき人と、小さな女の子らしき人が立っている。家族写真だった。
しかしそれをただの写真と呼ぶには難しかった。
写真には三人の顔がなかった。
女性、男性、子どもの顔があるべき場所には大きな穴が開き、フォトフレームの中に敷かれたコルクにすり替わっていた。ただひとり、女性らしき人に抱かれた赤子だけが顔を持ち、こちらを見つめていた。腫れぼったいまぶたに挟まれた、透き通るような藍色の瞳だった。
私はしばしの間、その赤子と目を合わせていた。二つの円を見つめていると、今にも写真の中に吸い込まれてしまいそうになる。写真撮影の現場に居合わせていないのに、その風景を思い出してしまいそうになる。私はそこに存在していなかったのに、なぜか懐かしいと思ってしまう。
もしかしたら、これは、この家の「真実」に関わる重要な情報なのではないか——そう思った矢先だった。
突如、耳をつんざく轟音が部屋を揺らした。私の心臓が爆ぜ、全身が凍りついた。咄嗟に写真から目を離すと、私の足元で女の子が座り込んでいた。真白かった顔は真っ赤に染まっていた。口を大きく開け、細められた目からは大粒の涙が溢れていた。彼女は顔中をしわくちゃにして泣き叫んでいた。
この部屋はパパの部屋から最も近い場所にある。私は混乱しながらも、足元の彼女を抱き寄せた。歪められた顔を私の胸にあてがい、背中を優しく撫でた。
今はこれしかできなかった。とにかく、彼女を安心させなければならない。
顔と首と腕と手と胸と腹で、彼女の体温を感じた。リタやアイリと比べて彼女は熱かった。こんなに体温が高いと寝つけられず大変そうだと思った。彼女から感じる心臓の鼓動は、興奮のためかとても速かった。そのリズムをなだめるように彼女の背中を優しく叩いた。ハチミツのような甘い香りが漂う。私の首筋がねばねばとする。
私の思いが伝わったのか、彼女はその小さな指で私の腕を掴んだ。強い力だった。縋るものが私しかいない、そう言っているようだった。
慟哭は少しずつ収まっていき、鼻をすすった時には涙は止んでいた。彼女の顔はいろんな液体で濡れていた。私は自分のワンピースの裾で彼女の顔を拭き、鼻に当てた。彼女は目を閉じて一生懸命に鼻を鳴らした。全て出し切った時には、花が咲いたような笑顔を浮かべた。私もつられて口元が緩くなった。
廊下から足音はしなかった。リタが表した通り、パパは寝ているようだった。
落ち着きを取り戻しても、彼女は言葉を話さなかった。依然として赤子が発する喃語のようなものを使っていた。私の言葉を理解できているのか怪しいが、私の言葉に対しては必ず反応をし、自分なりの表現で返してくる。その喃語の真意は私には分からないが、伝えようとする意思だけは伝わってくる。
私がもう一度名前を訊くと、彼女は薄い唇を尖らせて「むー」と言った。
「あなた、ムウって名前で呼んでいい?」
彼女はそれが自分を指していると分かったのか、キャッキャと目を細めて笑っていた。
私の名前を教えると、「めっ」とだけ口にした。「メメだよ」と言っても「めっ」と言った。
ムウの涙が止んでも、私は彼女の身体に触れ続けた。彼女が本当に赤子と同じ状態かどうかは不明だが、少なくとも彼女は何か精神的な問題があってこうなっていると考えた。その原因は明確だった。部屋の構造、彼女の服装、身体の状態などが私やアイリと同じだったからだ。私はとにかくムウと体温を分かち合うことにした。それは、ムウからすれば、大きな温もりになるだろうと思った。ムウは私の腕の中で、蕩けるような笑顔を浮かべていた。光に照らされたその表情は、太陽に仕える天使のようだった。
そんな小さな天使が腕を伸ばし、私のお腹を触った。そして反対側の手で、自身のお腹に手を置いた。彼女は互いのお腹を撫でたり、優しく力を入れたりした後に、キャッキャと笑った。
私が自分と同じ身体をしていることを嬉しくなったのだろうか。
自分と同じ境遇にいる仲間に出会えて嬉しくなったのだろうか。
私は精いっぱいの笑みをムウに向けた。その胸の中では、嵐が激しく吹き荒れていた。私よりも小さな彼女がこんな境遇に立たされ、言葉を発することもできずに、身体も日々変わっていく中、それでもなお、こうして笑って生きている。私に出会っていない頃からずっと、独りで、閉ざされたこの部屋の中で、ずっと、ずっと。
それがどんなに辛いことか、想像するだけで胸の奥が張り裂けそうになる。過酷な状況を受け入れ、ひとりで生きていくことが、どれだけ寂しいことか。私なんて、ひとりでベッドの上にいるだけでどうしようもなく悲しい気持ちになるのに。ムウは、強かった。私にはないものを持っていた。単に私の過大評価に過ぎないかもしれない。しかし、ムウの真黒い宝石のような瞳を見ていると、これまでに彼女はまっすぐと生きてきたように思えた。過酷なんてもろともせずに——。
めっ、と声がした。不意に頬が温かくなる。私の頬をムウの両手が包んでいた。彼女の焼きたてのパンのような、もちもちとした手のひらに触れるまで、私は自分が泣いていると知らなかった。水浸しになった視界の中で、ムウが私の代わりに涙を拭いてくれた。細い人差し指が目元に触れてくすぐったかった。拭いても拭いても、涙は溢れ続けた。
「……ありがとう、ムウ。ムウは優しいんだね」
喉が焼けるように熱い。目尻に溜まった涙がムウの表情をぼやけさせた。
救えないことがあまりにも多すぎて、私は自分自身がちっぽけで無力な存在なんだといつも思う。世界はどうしようもないもので満たされていて、その大半はとんでもない苦痛を伴う現実であり、私たちはそれらを平気な顔をして受け入れなければならない。そんな過酷な世界を、私は生きている。私たちは生きている。何が正しいかも分からない場所で、呼吸をして、心臓の鼓動がして、涙を流して、血を流して、時には苦しかったり、辛かったり、痛かったりもする。嬉しかったり、楽しかったり、ドキドキしたり、ワクワクしたりもする。そうやっていろんな思いをしながらも、それら全てを胸に、毎日を生きている。
私以外の女の子に出会い、私以外のみんなが生きていることが嬉しくて、ありがたくて、そんな私も生きているんだ、と実感する。みんなが生きているから、私も生きている。私が生きて、みんなも生きる。それはまるで終わりなく永久に回り続ける歯車たちのように思えた。
私たちが救われる日は来るのだろうか。もしも、私が「メメ」として願いを叶えられるのならば、静寂の満月に毎夜でも、温柔の陽光に毎朝でも、祈りを捧げよう。
私たちが、何の憂いもなく、ほんの少しの幸せだけで、生きていけますように、と。




