18
アイリと「真実」を話し損ねたあの日以来、体調は悪化の一途を辿った。食事は喉を通らなくなり、それどころか、食事を目にしただけで吐き気に襲われた。匂い、色彩、輪郭、味の想像、そこにあるという存在感。それらは鋭い矢となり、私の食道やら胃腸に射し込んで悪さをした。食事が配膳されるや否や、私はそれらを認識せずに便器に流した。息を止めて空になった食器を洗い、吐き気に耐えきれずにその食器に胃液を吐き出し、食器に満ちた吐物を便器に垂れ流し、また息を止めて食器を洗い、そうして全てを終えて逃げるようにベッドに潜った。視界の端に映った料理の光景が蘇り、暴れだす胃袋を深呼吸で抑えた。水だけは飲むことができた。それが唯一の食事だった。そんなことを毎食続けた。
口元を毛布で覆い、呆然と天井を見つめる。白は太陽に侵食され、黄ばんでいる。いつかあの黄色が広がり、地図上の大陸のようになる日が来るかもしれない。虫に喰われた部分は塗装が剥がれ落ち、その無作為な斑点は地図上の孤島のようだった。それらを眺めていると、今度は遠い目で見た、満月の表面を思い出した。月の表面に浮かんだしわ。大陸のしわ。天井のしわ。しわというよりはしみだ。老人の顔にあるような、濃いしみ。
私はそれ以上考えるのをやめ、目を閉じた。睡魔は私の思い通りにはならなかった。
以前の私ならば——。
こうして何もない時間を過ごすことが嫌で、すぐにでも動きたくなる性分だった。動かない時間はもったいないし、動くことでしか得られない楽しみがある。そう信じていた。日記を描く、絵本を読む、窓の外を見る、床を歩く、バラを撫でる、鏡を覗く——とにかく、何かをせずにはいられなかった。それが私だ。それが私の全てだった。
しかし今の私はどうだろう。今の私は本当の私であると証明できるのだろうか?
何もせずに、こうして目を閉じることしかできない。正常な状態からこのように堕落をしてしまった私は、昨日の私、おとといの私、もっと前の私と、果たして同じ存在であると言えるのだろうか?
おそらく、これは持論だが、現在の私は過去の私とは似て異なる存在なのだろう。全く動きたくない、活力は微塵たりとも湧いてこない、こんな吐き気を催した覚えはない。現在の状態は過去と一致していないのだ。つまり、今の私は昔の私とは同じではなく、私は私ではない——そう言えるだろう。
だが、もう少し考えてみると、私が私ではないことは自明でもある。昔の私と今の私は同じ身体でも魂でもなんでもないからだ。身体の細胞は日々生まれ変わり、機能上同じだとしても、全く別の存在としての細胞になる。記憶だって日々更新され、古い記憶には自信が持てなくなる。習慣、身体構造、思想、趣味や嗜好、私に関わる何もかもは少しずつ変わってゆく。
変わるのは当たり前なんだ。
私は過去の私とは違う。
今の私は、今だけの私なんだ。
そう思えば、この何もない時間を受け入れられる。何もしないことも私にとって必要なことのように思える。ひとりきりでこの寂しさと一緒にいる。それも今の私にしか感じることのできない心地よさでもある。孤独の切なさを毛布で包むと感じる、この安心感も。
ただどうしてか、お腹がギュッときつくなった。痛みというより、居心地の悪さを感じた。この感覚が続いたら嫌だな、と思った。
時間は経っていった。
吐き気は収まり、ゆっくりと睡魔がやってくる——そんな時に、「カタン」と音がした。脳裏に浮かびかけた「料理」という情報。それを必死に振り払おうと目を強く瞑ると、続けて「ごん」と音がした。私はその重量のある音にベッドから視線を向けた。そこには見慣れた姿があった。
「いったぁあ……頭から入るもんじゃないね……」
彼女は頭を強く打ちつけたようで、分かれた前髪から露わになった額を押さえていた。そして、私の顔を見ると、涙目のまま、くしゃっと笑った。
「おはよう、メメ」
口元を吊り上げてリタはそう言った。ニッと前歯を見せた、やんちゃな笑顔だった。
「アイリから聞いたよ。メメ、具合が悪いんだって?」
「あ……うん、ありがとう」
「気をつけてね。これから寒くなってくるから。お腹の冷えには注意だよ」
再び「カタン」と音がした。後から入ってきたのはアイリだった。彼女はぎこちない微笑を浮かべていた。ずれた眼鏡を手で戻し、苦しそうに立ち上がる。眼鏡はまたずれていた。
「……こんにちは、メメ」
「こんにちは、アイリ」
彼女はばつが悪そうに私から視線を外した。アイリはあの日のことをまだ気にかけている様子だった。私はゆっくりと身体を起こしてアイリに現状を示した。
「私は元気だから、気にしないで」
「……ごめんね、メメ。私、無配慮だった」
「いいよ。アイリはなんにも悪くない」
アイリは何度も私に謝った。その度に私は「いいよ」と返した。ダークブラウンの瞳は次第に私を見つめるようになった。この時になって初めて、この色には暖かさも含まれていることが分かった。彼女はぎこちない微笑を浮かべながら、「ありがとう、メメ」と言った。
「ねぇ、いったいなんのはなし?」
「な、なんでもないよ」
私たちの隠蔽に、リタはむすっとして頬を膨らませていた。
ふたりに会うのは久しぶりのように思えた。実際にはあれから数日しか経っていないはずなのに、数年ぶりに再会を果たしたようだった。
リタとアイリの手には果物が握られていた。今日の食事の中にあったものらしく、私が内容を見ないで捨てたものだった。差し出された数粒のマスカットは宝石のように電灯の光を含んで輝いていた。あんなに見るのもおぞましかったはずの食べ物を前にしても、不思議と吐き気はやってこなかった。私は久々に湧いた食欲に生唾を飲み、恐る恐るマスカットを口に入れた。ぷちっと弾けた果実は瑞々しく、酸っぱく、甘かった。皮を噛むと渋味が歯の裏に広がった。種をしゃぶり尽くしてから飲み込んだ。吐き気は一向にやってこなかった。
このマスカットは今まで食べた物の中で一番美味しく感じた。ろくに食事を取らなかったせいだろうか。それとも、他に何か理由があるのかもしれない。私が一生懸命にマスカットを味わう様子を、リタとアイリは静かに見守っていた。その温かい目の存在に気付くと、目尻に熱いものが込み上げてきた。「目に汁が入っちゃった」と私は手のひらで涙を隠した。
私たちはベッドの上で残りのマスカットを食べながら、他愛のない話をした。アイリに「真実」の続きを話す気はもうないらしく、ダークブラウンの瞳は以前より柔らかくなっていた。私たちの間に冷たい風が吹くことはなかった。それはリタが底抜けた明るさでこの場を和ませてくれたおかげでもあった。
なんてことのない時間。
一時的な快楽に過ぎなくとも、私にとっては、かけがえのない時間だ。
今の私は、ふたりの存在に救われている。ふたりがいなかったら、私はこの寂しさと折り合いをつけられなかったし、見ないふりをしてきた孤独に耐えられなかった。大丈夫だと強がっていても、心の孤独はひとりでは解決できない。誰かと一緒にいて、その人が心の中に居てくれることで初めて、ひとりになっても孤独にならない。その境地は、ひとりでは絶対にたどり着けない。孤独に慣れるためには、孤独になってはならない。
このメカニズムの正体は分からないが、少なくともリタとアイリ、ふたりのような「友達」が居てくれてよかったと思う。私が普通の友達にこだわる理由は、ここにあるのかもしれない。
話をするふたりを見ていると、先ほどまで私を蝕んでいた孤独の切なさはなくなっていた。不意に、お腹がギュッとした。それは孤独と同じ症状だったが、この感覚は続いてほしい、と思った。
「おいしかったよ。ふたりとも、ありがとう」
私は口に含んだ最後のマスカットを噛みしめた。




