17
アイリの部屋で朝を迎えてから自室に戻る習慣が定着した。
朝日が侵食する廊下で、リタは眠そうな目をこすると、私の頬に軽くキスをした。彼女の薄い唇は生温かくて柔らかかった。私は頬が腫れぼったくなるのを感じた。「また夜に」と彼女が下口に入っていくのを見送ってから、私は踵を返してアイリの部屋へ戻った。何度やっても慣れない下口を潜ると、アイリは扉の前で身を屈めて待っていた。抱え込んで潰れるお腹は辛そうに見えた。
「おかえり、メメ」
「ただいま、アイリ」
窓から差し込む日差しに片手で顔を覆う。陽光は柔らかくも、ちくちくと目を刺した。私は光から逃げるように本棚の陰に腰を下ろすと、隣にアイリがゆったりとした動きで座り込んだ。陽の当たらない床は凍ったように冷たかった。
何から話そうか迷った。話したいことは山ほどある。あらかじめ用意しておいた言葉たちは待っている。それにもかかわらず、いざアイリと二人になると、私の言葉たちは逃げ出してしまった。追いかけようにも彼らは蜘蛛の子を散らすようで、どれから捕まえればいいのか分からなくなる。
私が考えていると、アイリは何も言わずに私のお腹に手を置いた。それは触れてはいけないものに触れているような、遠慮のある手つきだった。頭の中に「真実」という意識が浮かび上がる。私はその強烈な存在感に戸惑いつつも、アイリのお腹に手を置いた。
私たちは言葉を発さずに目を見合わせていた。ダークブラウンの瞳は初めて会った時と同じく、冷たい、悲しい色をしていた。まるでアイリの感情が、瞳を通して伝わってくるようだった。それだけではない。空気を通して、息遣いを通して、彼女の存在を通して、お腹に置いた私の手を通して、伝わってくる。私は彼女が抱いているものが分かった。
興味だけでは消し去ることのできない、不安な気持ち。
ダークブラウンの瞳は、憂いの色彩なのだと、そう思った。
私たちは改めて互いの服装を確認した。ゆったりとした隙間の多い白のワンピースは、つなぎ目の糸が解れていたり黄ばんでいたりしている。それはどちらも同じだった。部屋に数着ある洋服はこれと同じものだし、洗濯はパパが定期的にしている。これ以外の服はない。
「リタは、私たちと違う服だよね」
アイリは言った。
「あのえんじ色のワンピース、私たちよりも良い素材でできている」
「他の服を見つけたんじゃない?」
「違うと思う。服だけじゃない。彼女、他にも私たちと違うところがあったじゃない?」
アイリは手の力を強めた。お腹が優しく潰される。私は忘れかけていた吐き気を思い出した。それをかき消すように、私は声を張り上げた。
「で、でも。それならリタの部屋にはなんで、私たちと同じ鉄の扉が?」
「さあね。パパの『お気に入り』なのかも」
アイリは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「こんな言い方、したくないけどね」
「お気に入り、かぁ……」
私は彼女から手を離した。部屋の空気は暖かくなっていた。窓から差し込む光に手を伸ばすと、温かいシャワーを浴びているような心地がした。
「メメ、そろそろ『真実』について話し合ってもいいかな。本当はこんなこと、話したくないけど」
アイリは極めて静かに言った。感情を押し殺した、ただの事実確認を行う、といったふうに。
私は腰の裏あたりがぐっと重くなるのを感じた。何か悪いことを打ち明けなければならないとき、あるいは私にとって嫌なものに触れなければならないととき、決まってここが重くなる。そこから不快なものが全身を駆け巡っていく。喉がぎゅっと締め付けられ、胸がぐぐっと押しつぶされ、息が苦しくなる。
「いいよ」
私がひねり出すようにして放った一言は、陽光に溶けてしまった。たった一言発しただけで、声が枯れていた。
アイリは眼鏡の縁を指で上げた。
「じゃあ……メメに一つ、聞きたいことがある」
その言葉が耳に届くと、私は時間を極限に引き伸ばしたような感覚に陥った。目の前の人が言っていた「相対性理論」は既に始まっていた。この時、一分は一時間ではなく、無限だった。次のアイリの言葉が投げかけられるまで、私は地球が終わるその時までずっと孤独に震える生き物のような思いを抱いた。
「メメは『パパの日』に、何をしてる?」
アイリの声は今にも消えてしまいそうなほど、小さかった。私の妄想的な孤独が伝わったのかもしれない。彼女の不安は目に見える形まで大きくなっていた。それでもアイリは勇敢にも『真実』に立ち向かうべく、言葉としてはっきりと形に示した。
この問いは予想できていた。そして、どう答えるかも考えていた。
「は——」
私は声を出そうとした。言葉の代わりに、空気だけがひゅう、と漏れた。
あれ、と思った時には遅かった。
私は全身が強張るのを感じた。座っている感覚さえもなくなった。お尻が冷たくて固くて痛いのも分からなくなった。ぐるりぐるり、と視界が回りだす。本棚がひしゃげている。アイリがどこにいるのか分からなくなる。彼女の名前を呼ぼうとして、ようやく出たものは声ではなく、息でもなく、ドロドロとした液体だった。手で押さえるも間に合わず、指の隙間から生温かい物がボトボトと零れていく。固体と液体が混ざり合ったもの。その不思議な彩色を呆然と見下ろしていると、遅れて身体がひどく震えだした。歯がガチガチとリズムを刻んだ。
状況を理解する前に、私の身体は抱き寄せられると、どこかに引っ張られていった。恐らくアイリがそうしてくれたのだろう。しかしお礼を言う暇はなかった。何もかも一切を飲み込めないままに、私は連れて行かれたその場所で思いのままに吐き出した。ボトボトと水と液体がぶつかる音がした。ここは何を出しても自由な場所だと理解した。
何度も嘔吐を繰り返しては、自分の声とは思えない嗚咽を漏らした。吐き出す物がなくなったとしても、その行為は終わらない。見えないものを吐き出し続けた。何を出しているのか私には分からなかった。それは形のない、何か大切なもののようでもあった。空になった胃の底はグツグツと煮え、擦り切れた喉に鋭い痛みが走った。身体の痙攣はなかなか止まらない。
便器に顔を突っ込んでいる間、私の背中には手が置かれていた。その小さな手のありかだけが、私がここから知らないところへ飛んでいくのを留めてくれた。しかし、気を抜けばその光を見失いそうになる。私は光と闇の境界線上でゆらゆらと揺れていた。
口から糸のように垂れる唾液を虚ろに眺める。酸のきつい臭いが鼻孔に押し寄せる。便器の底で、吐物が泡を立てている。その光景に、再び胃の底がひっくり返る。
私は自分が泣いていることに気付いた。顔中が様々な液体に塗れていた。頬を伝う涙が口元に入り込むと、甘かった。塩辛い涙ではなかった。
アイリに何度も言おうとしたお礼の言葉は、ひとつとして出てこなかった。代わりに出るのは、涙と吐物だけだった。




