十六
薄暗い朝。昨日の深夜から急激に冷え込み、鋭い風が窓を叩いていた。この寒暖差は人々を更に憂鬱にする。
後ろ髪を引かれる思いで快適な自室を後にし、玄関をくぐると、景気よく降る雨の中で左近美夏が微笑んでいた。
「おはよう! 風間君!」
「……ああ」
暗澹たる灰色の空の下で太陽の如く眩しい輝きを放つ彼女は、足元にある水たまりを控えめに蹴飛ばして高く笑った。
「そんな暗い顔してたら全部が楽しくなくなっちゃうよ。特に朝は一日の始まり! 気をつけるように!」
「顔は元からだ」
「いじわるだなー……。まぁいいや! 早く行こう!」
朝からうるせぇなぁ……。ホントに気遣いできんのか、こいつ。
欠伸しながら足を踏み出すと、水が跳ねて制服のズボンにかかってしまった。追い打ちをかけるように強風が襲い、俺の傘を攫っていく。欠伸をしていて握りが甘かったとはいえ、こんなことがあるだろうか。
小さく舌打ちをしてから傘を拾いに行き、左近の後を追った。
「……大丈夫?」
少し先で一部始終を見ていた左近はつまらない常套句を吐く。
「ああ……最高にリフレッシュできたよ」
「ふふ、そんな冗談も言えるんだね。じゃあ行こうか!」
「……おう」
不覚にも彼女の笑顔で心が跳ねた自分に唾を吐き、半歩遅らせて進むという調子で学校へ向かった。
「マーシャは順調かな?」
「そうでないと困る」
「だね! 風間君の護衛は任せてよ! 何があっても私が守るから!」
「地球が滅びても?」
「むー……ホントいじわる」
じめじめした空間だと腐った性根が輪をかけて腐る。
「それに俺だけ護衛したって意味がないだろ? 隕石は俺に向かってくるわけだが、正確に俺の所に落ちるわけじゃない。周りへの配慮も重要だ」
「分かってるよ!」
遠回しに、ずっと近くにいるのはやめてくれ、と言ったんだが……。
「お前は何も知らないのか?」
「何もって?」
「……この厄介な力について。確か……レイズ……だったか」
「うーん……聞いたことないね。というか、ここまで直接的に悪魔が介入するなんてなかったから」
「そうなのか」
「うん。でも、たぶんそこまで深刻な問題じゃないと思うよ」
その言葉に反応して首を振ると、左近は焦った様子で弁解し始めた。
「違うの! 悪魔にとって、ってこと! 私達やあいつらを引き寄せるとか、隕石を引き寄せるとか、単なる暇つぶしで、面白いと思って、いや、面白いかどうか決めるためにやってるだけじゃないかな。それがこの星の命運を左右するとしてもね」
「滅ぶのは人間だけだと」
「それは自己中心的な考え方だよ。地球上でしか活動できない生命体、の方が正確じゃない?」
「……ああ、それもそうだな」
住宅街を抜け大きな通りに出ると、増して学生の姿が目立ってくる。俺に向けられる男子からの視線も、それはそれは有り難いことに盛況だった。
この左近という女子もとい天使はその圧倒的な美貌ゆえに自然と周囲の視線を集めてしまう。それは上位存在が持つ特有の美しさなのだろうか。
謎めいた艶やかさ、強制的に覆す爛漫さ、その他諸々の光が全てを魅了する。
「美夏ちゃん、おはよう!」
「おはよう!」
「今日は湿気が多くて髪がくるくるだよー……」
クラスメイトの女子が左近に話しかけると同時に、俺は歩く速度を落として彼女の後ろについた。
俺と左近が一緒に登校していることに触れられたくない。
それと、先に行くと呼び止められる可能性があるから、この距離で……。
「風間君、どうしたの?」
おや?
「美夏ちゃん……風間君と一緒に登校してたの?」
「うん、そうだよ!」
「へぇ、なんで?」
「それはねー……」
あー、ほら、めんどくさいことになったでしょう? だから、俺は気を利かせて……あ。この場合、背後に回るのはバッドチョイスだったか。グッチョイは少し先を行くこと。護衛を任されている身として視界から対象を外すことがあってはならない。
クソ……判断を誤ったか……!
「あ、そっか! 美夏ちゃんって風間君と席隣だもんね! だからか~!」
何が、だから、なのかさっぱりなんですけど?
「そうそうっ! 風間君と話してると楽しいよー」
「え、話す?」
ツチノコでも発見したかのような顔で俺の方を注視する女子。
「美夏ちゃんってやっぱりすごいね!」
てめぇ、俺のことコケにしてんだろ。カーブしてる傘の柄で貴様の脇腹ぐいって引っ張り潰してやろうか!
チクショウ……俺が本気出したら骨の二、三本軽く……。まぁ? 今回は傘骨の二、三本で許してやろう。集中的に片側の骨だけ折られてベロンってした状態になるがいい! あれ、前から来る人に見られないから結構好き。
…………。
……ダメだ。どうしても楽しい気持ちになれない。何をしていても、何を考えていても、隕石のことが頭から離れない。
俺は……。
「そういえば、風間君の隣って言えば、転入生のマーシャちゃんさー」
「うんうん」
左近は笑顔で女生徒と会話を続ける。そのうち彼女の周りに人が溢れて俺の姿が見え辛くなってくると、輪の中心にいる人気者は急に俺の手を取って囲いから抜け出した。
「じゃあ、みんなまたあとでね!」
そのまま走って生徒達から距離を取る。
「おい」
「ん? 何?」
「お前の傘から水が垂れてきて全部俺にかかってる」
傘をさしているというのに、局地的驟雨でびっしょびしょだぜ! 誠に遺憾である。
「あ、ごめん!」
左近は俺の手を放して横に並んだ。
「いいのか?」
「んー?」
「お前が俺と、その、何か怪しい関係だと思われるかもしれないぞ」
彼女は手を顎に当てて、あざとく首を傾げると、俺に問う。
「風間君は私のこと好きなの?」
「嫌いだ」
「即答!? しかも嫌いって……」
「嫌いは言い過ぎたか。怖い」
「もっとひどいよ!?」
文学少年を気取っている割に語彙が貧困か。
「畏怖の念ってやつだ」
「それは私が天使だから?」
「いいや」
次の言葉を口にしようと唇を開いたが、喉の近くで鎖が絡み、それ以上の吐露はできなかった。
閑散とした自転車小屋を通り過ぎ、普段より人が群がる玄関先で傘をたたんで水を払う。
左近は一足先に支度を終え、下駄箱の辺りで女子と話し込んでいた。
勢いが増してきた雨に表面を抉られるグラウンド。ぬかるみの中、泥まみれになりながら羽虫は何の気なしに、ただ茫然と水辺で安息を得ている。ひたり、ひたり、と忍び寄る影に気が付くこともなく、その愚か者は輪に轢かれた。
「やぁ、おはよう」
どこから現れたか全く分からないが、佐藤が俺の横で傘をたたんでいた。
ってか、やぁ、って挨拶使うの、世界的に人気なネズミさんだけだと思っていたぜ……。
やばい! 消される!
「昨日はどうも」
佐藤は社会人……というか、おっさんみたいな会話入りをする。
「今日はすごい雨だね」
「あぁ……」
「どうしたんだい? 何か嫌なことでも?」
「雨が好きな奴なんかいないだろ」
「僕はわりと好きだけどね、雨」
曇り空を晴らしてくれそうなほど爽やかな笑顔で上を向き、少し間を置いてから呟いた。
「なるほど、これは一雨ありそうな空気だ」
「……は?」
「風間君、左近さんが呼んでるよ。早く行ってあげた方がいい」
後ろを確認すると、確かに早く行かなければ、と思うくらい左近がしきりに俺の名前を呼んでいた。目立ってしょうがない。
「お前も一緒に来ればいいじゃないか」
「僕は遠慮しておくよ。野暮用があるんだ」
「そうか。じゃあ、また後でな」
「うん、またね」
別れを告げて、左近が待つ下駄箱へと足を向ける。
一度だけ振り返ってみると、そこに佐藤の姿はもうなかった。
その日の一時限目は国語。今やっているのは『城の崎にて』という作品で、まぁ高校生が習う定番の小説だ。
俺は授業で中身に入る前から作品を知っていたので、この日の授業も右の耳から左の耳。
もちろん、内容を知っているから、という理由だけで聞き流しているわけではない。
頭からどうしても離れない危惧の念。
隕石の衝突。
意図的な悪意に押し潰され、もがき苦しんだ末、為すすべもなく消えていくのだろうか。それとも、投じた石が偶々イモリに当たった。それだけのことなのだろうか。
いずれにせよ、待っているのは死なのだろうか。
頓狂な顔をして傍観する神。悪魔の手の内で転がされる人間はあまりに惨めだ。
授業終了のチャイムが鳴ると同時に教室内がざわつき始める。
二時限目は体育だ。本来であれば授業は外で行われるが、この雨の中ではさすがに無理な話である。すると、次の体育は必然的に体育館で行われることになり、つまるところ、急遽その内容はバレーボールやバスケットボールなどの球技に変更されるのだ。
棚から牡丹餅。この予期せぬプログラムは生徒達を異様に活気づける。見慣れた光景であった。
団体競技ということに気持ちを一層暗くして、仕方なく体育館へ続く廊下を歩いていく。その間、雷の光で空が明滅繰り返していたが、不思議と音は聞こえてこなかった。
幾つかのグラウンドを囲むように造られた廊下の端まで来た時に、大きな振動と共に悲鳴が反響する。
「な、なんだ!? どうした!?」
そんな風な言葉を生徒達が口々にしながら窓の外を見る。
雨の中のグラウンドに巨大な窪みが生まれ、その中心には岩らしき影が確認できた。
間違いない。あの塊は。
「……隕石」
「ごめん、数が多くて……一つだけ……残っちゃった……」
ずぶ濡れになった左近が俺の隣で嘆く。
「もう時間がないかもしれない。早くどうにかしないと」
「どうにかって……」
こんなに早く決断を迫られるとは思ってもみなかった。心の中で、まだ時間はある、まだ余裕はある、と高を括っていた。
俺の中でようやくその出来事は現実味を帯び、渦となる。
周囲の生徒達の反応は実に多様だった。
呆気に取られて立ち尽くす者。訳が分からず場から逃げ出す者。パニックになって泣き出す者。衝撃の出来事に興奮して友達と騒ぐ者。すぐにカメラを起動して写真を撮る者。そんな彼ら彼女らを鎮めようと奮闘する者。それに対して憤慨する者。
混乱した校内を駆けて、俺と左近は学校から抜け出し、ひとまず自宅へと向かった。




