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結論から言おう。
佐藤と過ごした時間はとても有益なものだった。何をもって有益と無益を判断するのか、それは個人で異なるのだが、少なくとも俺にとって有益であったのは間違いない。
味噌ラーメンを二つ注文した後、佐藤はコップに入った水を半分くらい飲む。そして、飲んだ分を補充するようにピッチャーから水を注いだ。
「今日は左近さんとグエンさんもお休みだったんだ。横並びの三人が同時に欠席したから、何事かと思ったよ」
ただ淡々と事実を述べる。特に責めるような口調ではない。
彼はこちらを一瞥して、また話し始めた。
「それは単なる偶然。そう言っても周囲はきっと疑いの眼差しを向けるだろうね。何らかの因果関係を人は求める。偶然の積み重ねで起こった出来事は偶然じゃなくなるんだ。世は許容してくれない。人の世は理不尽で、世界は不条理。なら、意味なんか求めても無駄なのにね。でも、今日の出来事はきっと何かしらつながりがあるんじゃないかな?」
その発言で心臓がはちきれそうになる。
やはり、こいつは悪魔なんじゃないか。
そう思った矢先、続く言葉でそれは打ち消され、何処かへ飛ばされた。
「うん、でも僕はそれに興味はないよ。答えがあるものに魅力を感じない。可能性を失ったものに輝きを見出せないんだ」
その時、自分の中で何かが壊れて、はずれ、形を残さず去っていくのを感じ、また、それと同時に奥底の方から脳を蝕むような熱が湧き上がってくるのを感じた。
佐藤は一呼吸おいてから微笑んで、一口しか飲んでない水に、さらに水を加えながら言う。
「そういえば、今日の英語は抜き打ちで小テストがあったよ」
え、嘘だろ? よりによって今日かよ……。
「それと国語と数学も小テストがあったね」
職員室で何があったんですか。陰謀ですか。
「まぁ、授業を受けるより楽だから、僕は大歓迎なんだけど」
コップのふちから約一センチ下まで溜まった水を、コップ三分の一くらいの高さになるまで彼は喉に流し込んだ。
「時に風間君。勉強に何の意味があると思う?」
「矛盾だな」
俺の一言に彼はひどく笑って頷く。
「そうだね。結局、人間そういうものだ。でも、この世界に生きているうちは、それは然るべきことで、逆らい抗うというのは、むしろ正しく真っ直ぐあろうとすることなんじゃないかと僕は思う」
こいつは宗教団体の教祖様か何かなんだろうか。
「君には、僕がいかにもそれだという風にでたらめを並べ、武器を作り上げるペテン師に見えるかい? 確かに。けれどね、僕はそれこそが人間らしくある所以で、人間である条件だと思うんだ。なにもでたらめは悪いことじゃない。でたらめは真理への道でもあるしね。それに、自分一流のでたらめを言うのは、人真似で一つ覚えの真理を語るより、ほとんどマシなくらいだよ。特に、他人の知識でお茶を濁すのが楽でいいもんだから、すっかりそれが慣れっこになってしまった今でこそね。おっと、これはまずかったかな。まったく、これだから僕は悪なんだよ。分かっていてもやってしまうんだから」
「……罪だな」
「然り。相応の罰を受けよう。いや、自らの戒めで足るだろうか。で、どうだい。話は逸れてしまったが、勉強については」
本当に。勉強とは何なのだろう。
大人は勉強しなさいと、のべつ口にするわけだが……。
ある程度の知識を身につけることは大切だと思う。社会へ出れば、無知な者は一蹴されるに違いない。
なるほど、知は力なり、もとい、知識は力なり、とは、よく言ったものだ。
しかし、そこまでして、他を犠牲にしてまで、それをする必要があるだろうか?
俺は子供の頃、成績優秀であった。今もなお、それは変わらないとみえる。これは別に自慢ではない。いや、そう捉えられたとしても、俺は一切構わないだろう。こんなところで卑下したって、何の得にもなりはしないし、むしろ、それは自分に嫌悪を抱く種となり得るから、俺は自らを客観的に評価する。
さて、話を戻そう。俺は勉強のできる方であったが、しかし、どうにも報われない気がした。
他にもっと大事なものがあるように思えるのだ。俺に当てはまるかは別として、それは例えば、運動だったり、音楽だったり、プログラミングだったり、人とのつながりだったり……いくらでも。
大人になれば報われる。その時に大きな差がつく。そうかもしれない。けれど、それがすべてだろうか。本当に一番、最も大切なことなのだろうか。きっと違う。違うのだ。
俺は過去に何かを失っていて、そして、これから何かを失ってしまうのが怖かった。
微笑んで待つ佐藤に意識を戻し、言葉を紡ぐ。
「義務だろ。本能から最も遠い事象だな。無理してやることで、苦痛が伴う。それに何の意味なんてないし、役にも立たない。意味があるのは学習だ」
「ほう……」
興味深そうに目を張り付けてくる姿に、少しだけ、ほんの少しだけ心が躍った。
「強制させられていることに意欲なんか湧かない。だから、知識を得て、そのまま吐き出すなんてコンピュータみたいな行為、人が無理にする必要はないと思う。いや、むしろ、それしかできないのなら、コンピュータの方が圧倒的に有能だな。大事なのは会得したものをどう活かすか。分析して、組み合わせて、組み立てて、独自に発展させていく。インプット、アウトプットしかできないウェアなんて使い道がないし、常時アクセス拒否のものは不良品だ。さらに質が悪い」
「君は人間が好きなんだね」
たった一言。それは凄まじく鋭利で重く、しかしながら、錆び付いているように思えた。
「そう限られたことでもない」
「そうか、それは良かった」
慣れないことをして干からびてしまいそうだったので、一口も飲んでいなかった水を一気に飲み干す。
それを見た佐藤が水を注ぎ足そうかと言ってきたが、俺はそれを断って自らの手で一杯の水を注いだ。
「僕もね、人が好きなんだ。でも、それと同じくらい人が嫌い。美しいものって恐ろしいよね」
「……そうだな」
「最初、僕は必死に求められているものを与え続けたんだ。こういうのを世間では親バカって言うんだろ?」
「いや。それはただの馬鹿だ」
「辛辣だね」
怒るような態度も見せず、自嘲気味に小さく笑って続けた。
「うん、確かに僕は馬鹿だった。ある時、気付いたよ。それじゃあ駄目なんだってね。だから、好意と嫌悪の絶妙なバランス。それを望んだ。……いや、どうだったかな。記憶なんて不正確だからね。人は現状と合致するように思い出す傾向があるみたいで、その記憶は過度に一貫性を持ってしまうんだ。だから、本当は最初からそうだったのかもしれない。結局、自分の事は自分が一番よく分からないんだよ。それはさておき、そんな訳で僕は中立を保つことにした。……観測者、とは言い得て妙だね。でも、最近はやり方が分かってきたよ。順風満帆と言ったところかな。まぁ、今まさに君には拒絶されわけだけど……。善行ってのいうは難しいね。僕には善悪の区別がさっぱりだ」
「俺にはそんな風に思えないが」
「慰めてくれるのかい? 嬉しいね。……そんな嫌そうにしないでくれよ。僕に全くそんなつもりはないから……」
唐突に佐藤は割り箸を二膳手に取り、その一つを俺に手渡してきた。
「自分の中で善悪を確立するのは簡単さ。善いと思ったことが善で、悪いと思ったことが悪。この世に偽善って言葉があるだろう? あれの使い方、みんな間違ってると思わないかい? 善かどうか判断できるのは、極端な話、自分だけなんだ。客観的に見て、それがその人にとって善か悪か、なんて分からない。そうなってくると、世界の善悪定義は不明瞭だね。境界は曖昧で灰色だ」
憂苦、苦楚、悩乱、惨痛、何とも言い難い不快で疎ましい気分が胸骨を抉り粉々に砕く。
その時、屋台のおじさんが味噌ラーメンを俺達の前に出した。
二人で同時に割った箸は、不規則な割れ方をする。佐藤は、ほらね、と言って麺をすすった。
親近感を覚える黒い空、月に霞がかかっている。
痛いほど眩しい街灯に群がる蛾を見て美しいと思った。




