九
恒例行事の転入生に対する質問攻め。そんな大合戦を避けるためトイレに逃げ込んだ。ふと横を向いてみると、そこには佐藤の姿が。
めちゃくちゃ文句を言いたい。しかし、俺は佐藤と一度も言葉を交えたことがないのだ。このタイミングで話して良いものか。しかもマイナス方向の会話を。
いや、無理だ。そんな大それたことはできない。あの状況を作り上げた張本人と言えど、俺が崇拝しているぼっち神様だ。不可侵、不可侵。
佐藤が用を足したようで手洗い場に移る。手を念入りに洗った後、蛇口をひねり、水を止め、扉に向かった。背を向けながら彼は言う。
「面白そうだったからね」
え?
初め、誰に対して言ったのか分からなかった。今、トイレには俺と佐藤しかいない。
「それってどういう……」
扉の方に声をかけたが、そこにはもう誰もいなかった。
「お前、佐藤になんかやったか?」
一時限目は英語。先生が授業で使うプリントを配っている間に質問をした。
「佐藤?」
「俺の隣にいたお方だ」
「ああ! ちょっとね。たいしたことはしてないわ。って、お方?」
やっぱり。怪しいと思っていたんだ。俺の佐藤がこんなにおかしいわけがない。
「洗脳しただろう」
「洗脳だなんて人聞きの悪い。マインドコントロールよ」
「どっちもさして変わらん。あまり人に危害は加えるな」
「はいはい、分かりましたよー。私だって、本当だったらそんなことしたくなかったっていうの」
先生はプリントが最後尾まで行き届いたことを確認し、授業を開始する。
この時間はマーシャの独壇場だった。英語の発音はさながらネイティブ。他に何ヶ国語も話せるらしい。無駄に高スペックな天使は英語の授業中、神のように扱われていた。
他の授業でもその天才的才能は遺憾なく発揮され、完璧優等生である左近も眩んでしまうほど。
と言っても、左近の人気が下がるということはなく、それは、仲の良いマーシャと左近の奇跡的美女ユニットが瞬く間に校内で名を馳せたからであった。
こんな二人に挟まれてしまって、俺は憔悴しきっている。周りの目が明らかに攻撃的だった。特に理由の無い罵声が俺を襲う! いや、理由は明白か。まあ、なんにせよ、俺はもうクタクタであった。
「地獄だ」
「なんなら本当の地獄に連れて行ってあげましょうか?」
「お前天使だろ」
朝とは打って変わって人の少ない道を歩く。
部活動に勤しむ生徒達の声が乾いた空気を伝っていた。高く昇った陽はまだまだ沈みそうにない。
この学校で帰宅部というのは珍しく、皆が何かしらの部活に所属しているのだが、協調性の欠片もない俺は当然帰宅部であり、俺を加護する使命を受けたマーシャも帰宅部である。
「あー……私も部活やりたかったなー」
「学校に通えているだけでも有り難いと思え」
「それには感謝しているわ」
「なんだ。嫌に素直だな。気持ち悪い」
「あなた、その口の悪さ直した方が良いわよ」
「安心しろ。お前にしか言わん」
「私だけ特別ってことかしら! いつの間にか境は私に惚れていたのね。ああ、なんて罪な女」
「一生十字架を背負って死ね」
「あ、新しい言い回しね……。新境地だわ。境だけに」
「上手くない」
自然に会話をしている自分に違和感を覚えなかった。無意識で無自覚だった。
しばらく無言で歩き続けていると、マーシャに肩を叩かれる。
「朝通った道と違うんじゃない?」
「商店街に寄るからな」
「初めて会った時にあれだけたくさん買い物していたじゃない。もうなくなったの? もっと計画的に……あ」
「そうだよ、この居候娘」
マーシャが家で暮らすことになっていなければ、今日買い物に来る必要なんてなかった。結局、あの後も俺がマーシャの分の料理を作っている。
毎度おなじみの商店街に入ると心が少し落ち着いた。俺の第二の実家と言っても過言ではない。
「珍しいねえ。境ちゃんが誰かと来るなんて。彼女さんかい? えらい美人じゃないか」
「そんなんじゃないですよ」
「またまた、照れちゃって。彼女さん、境ちゃんは不器用な所あるけど良い子だから。どうか見捨てないでやってね」
「……は、はあ」
マーシャの微妙な笑顔。対して、おばちゃんは満面の笑みだ。
「ところで、今日はアジがおすすめだよ。旬だからねえ。それとも、キスとかがいいかい? キスとかが」
「アジください」
「あはははは! そうだよねえ、キスなんかもう飽きるほど堪能してるよねえ。いやあ、若いってのはいいねえ」
おいこら、喧嘩売ってんのか。
多くの人にこんな勘違いをされ続けながら、商店街で一通り買い物をした。それに伴う疲労は俺の精神を色々な意味で蝕む。
「境って愛されているのね」
「なんだ、お前までそんな皮肉を口にするか。だいたい、お前が一緒にいるせいで変な誤解を招いているんだろう」
「別にいいじゃない。周りの評価はおおよそプラスなんだし」
「そういうことじゃないんだがな……」
俺達は荷物を抱え歩く。
そして、立ち止まった。肉屋の前に。
「いらっしゃいやせー」
「……」
やる気のないバイト店員が仏頂面で棒立ちしている。俺はその顔に嫌悪感を抱いた。
……何かを忘れている。何か大事なことを。
「最近調子はどうっすか」
俺はこいつに会ったことがあるのだろうか。
面識を持つ機会なんてこの場しかない。だが、俺はこいつにいつ会った?
先週、買い物をした時か? ……先週の買い物?
ああ……あの時は色々ありすぎて、すっかり忘れていた。
忘れていたことを忘れていた。
確か俺はあの時……――――――――――!?
瞬間、激しい頭痛に襲われる。脳に、頭の中に情報の波が押し寄せる。
――これは。ああ……そうか。……あの時に。
意識が飛びそうなほどの痛みに耐えて目を開くと、そこには魔神の姿が。
「お前の望みを言ってみろ。一つだけ叶えてやる。……って、んなわけねーだろ! ばーか!」
小学生かよ。
「んだと、こら」
魔神はガンを飛ばしてくる。
ここは……あの時の不思議空間。
「ったく、てめーはホント気持ちわりぃな」
舌打ちをして魔神は煙を出しながらしぼんでいく。
「お前は……」
「いらっしゃいやせー。って、まーそういうことだわな」
肉屋のバイト店員。
分からないことが多すぎる。なんだ、一体、何がどうなっている?
「いいねー、焦ってんねー。てめーは顔に『出さない』から、いや、『出せない』からだったか? ちょっと面白みに欠けるけどさ。ってか、おかしーな。なんで記憶戻った? やっちまったー! まー、いいや。今から消せばいいんだし。それでお咎めなし! ……と、まあ、それはそれとして。てめー、なんでここにいやがる」
彼の目は俺の方を向いていない。
「さあ、なんでかしらね」
取り乱した様子もなく、悠然として立つマーシャ。
「俺が呼んだやつ以外、ここには入れないはずなんだがなあ」
「あら、ガバガバじゃない」
「このクソ女が! 殺してやろうか!」
目を爛々とさせて息を荒立てる。その血走る眼だけで人を殺せそうだ。
死を彷彿とさせる邪悪な空気。
まるで悪魔。
いや、こいつは悪魔だ。
「結界破ってきたのか? 天使か、悪魔か……どっちでもねぇよなあ、てめーは。一体何なんだよ、気持ちわりぃ」
「答える義理はないわ。それより、境に変なもの埋め込んだのはあんた?」
「ケイ? あー、その能面野郎のことか。へー、はーん、でも、そこまで分かってるってことは……」
悪魔は目を細めてマーシャを見る。
「いや、こっち……じゃねぇな。天使か? あと、その偉大な力を変なもの呼ばわりしないでくれよ。レイズだ、レイズ」
「レイズ? 何のためにそんなものを」
「……天使。悪魔に駆け引きで勝とうと思うなや。そんなベタな誘導に引っかかるかっての。ってか、誘導
にもなってねぇか。失敬、失敬」
バカにした嫌な笑みを浮かべ続けた。
「わりぃがここから出てってくれないか? 争いは避けたいだろ?」
「食べようとはしないのね」
「てめーみたいな得体の知れねぇ不気味なもん食えるかよ。悪魔だって体は大事にするんだぜ?」
俺は必死に情報を整理して話を理解しようとする。
だが、そうはいかなかった。
状況は目まぐるしく変化する。
「……あぁ? また変なのが入ってきたな」
悪魔は曇った表情をして舌打ちをしたかと思えば、すぐにその顔を緩め不敵に笑った。
「でも、こっちは美味そうだ。久しぶりに良い食――」
一瞬で。
首。
首が飛んだ。
悪魔の首が……飛んだ。
突然の出来事で思考が追いつかない。
血が噴き出る。
綺麗な赤が身に降りかかる。
生臭い。
悪魔もただの生物だと身を以て理解した。
亡骸を見下す生物。
悪魔と対になる存在。
天使。
血しぶきを浴びながら、その悪魔のような天使はこちらを見る。
信じられなかった。
信じたくなかった。
天使が悪魔を喰らったという出来事を?
違う。
俺が信じられなかった、信じたくなかったことは――
「左近……」
左近美夏がそこにいた。
「風間君!? なんでこんなところに……。え!? マーシャも!?」
一点の曇りもない目をして戸惑った笑顔を向ける。
返り血を浴びて笑う彼女はとても美しかった。
「一般人に見つかるとちょっとヤバいかなーって。あとで忘れてもらうかな!」
彼女は鋭利な刃に変わった翼で、足元に転がった遺体から腕を切断する。
その腕から零れる赤い雫を落とさないよう急いで口に運び、とても満足げな顔をした。
「んーっ! おいしいっ! 悪魔なんて久しぶりに食べた! 獲れ立てが一番だね! あ、ごめん。私だけ良い思いしちゃって。食べる?」
言葉が出ない。
「……いただくわ」
心臓が張り裂けそうだった。
食べる?
存在としては悪魔なのだろうが、これは……どう見たって……人間だ。
「……お前」
「もし、まずかったらごめんね。人間は悪魔食べないでしょ?」
「杞憂よ。私、天使だもの」
「え? マーシャが? ホントに? だって……」
「色々あるのよ」
左近が翼で切り取ったもう片方の腕をマーシャは受け取り、愁いを帯びた瞳でじっと見つめる。
食べるのか? それを?
いや、それよりも先に気になったことが――
「なんで平然としていられるんだ。左近が……左近が天使だったんだぞ」
「知ってたわよ?」
「じゃあなんで」
「言ったじゃない、あの時。天使だって」
あの時……ああ……確かに。確かに言っていたな。なんだ、そうか。……そうか。
「境の記憶は消さなくても大丈夫よ。もし何かあったら、その時は私が責任を取るから安心して。あ、境。あなたがこのことを忘れたいのなら、消すってこともできるけど、どうする?」
こいつは。
「色々聞きたいなー。最近、天使になんて会ってなかったし」
「というか、美夏。その悪魔、貴重な情報源だったんだけど……」
「え! ごめん! ……情報源ってなに?」
「あー……えっとね……」
「マーシャ」
「ん?」
彼女は血まみれの腕を持ったまま、俺の方を向く。
「記憶は消さなくていい。ただ、今すぐにここから出してくれ。それと」
俺はどうして。どうして懲りもせず。
「もう俺の前に姿を見せないでくれ」
彼女がその後、あの腕をどうしたのかは知らない。




