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神様が微笑みかけていなかった頃

 「イヤ」とキムがばっさり謝絶した。

 そしてエリスと目線の高さを合わせて言う。

 「わたしに噛み付いたからって、いちど救った命を捨てたりしないわ」


 「なんで、そこまで――?」とエリスはやや舌足らずにつぶやく。


 泣くとき、人はただ自分の内だけに全意識を捧げている。

 あらゆる虚飾が剥げ落ち、あらゆる誤魔化しが砕かれる。

 抑えがたい感情が、この世の全ての利害を拒んでいるからだ。

 真実は泣く人に最も近づいている。


 どんな男も泣く女性にかなわないのは、その瞬間の一途な心が、美しく儚い印象を運んでくるからではないか。

 エリスを見ながら、俺はそんなことを思った。

 まあ、彼女いない歴=人生 だから女性に面と向かって泣かれた経験はないのだが……。


 「あなたは悪人です」

 キムを見て、エリスが唐突に言った。 

 「だってそうでしょう? わたしたちの神様は悪そのものなんですから。神様が微笑むのは悪人に対してです。ならば善人は、神の前では絶対に善ではなく悪です!」


 天からしたたる水を受け止めるように、エリスの手は空にさしのべられた。

 その手を厳しい眼つきで眺める。


 「みんなわかっていません。わたしたちの神が行う奇跡は、施しは、絶対に善意からではないということに。あれはわたしたちの胃袋を縛る枷です。奪い、踏みつけ、心を砕くための餌です」


 エリスは虚ろな視線を俺にも向けた。

 「この世の秘密は知ってしまいました。善人には天上への道は閉ざされています。だから、わたしは――」


 だから、恩を仇で返したというわけか。

 エリスが言葉しなかった苦痛を、行間に読み取れない俺ではない。

 親兄弟を殺されたりした経験などない。だけど、学校や会社に通う平凡な毎日から、人生を学べないわけじゃない。


 だから。


 ――抱きしめたい。

 善意の中で善意を信じえず、むしろそれを壊そうともがいていたエリスの、凍えた心を。


 エリスは間違いなく、かつての俺と同じ病を発症している。

 自分の力の欠如がどうにもならないから、現実を恨む。世を呪う。

 命を放棄して、負けが見えた人生から一抜けしようと目論む。


 噂によると、かつて「今日から俺は――公共の敵だ!!」などと、著しく中二チックなセリフを天に向かって叫んだ奴がいたとかいないとか。

 今となっては、我ながら赤面してしまう。


 全世界が自分に刃向かって、傷つけようと立ち向ってきていると信じるとき――人間の悪を信ずるとき――人は生を軽蔑する。

 他人も自分も尊重できなくなる。

 自分すら信用できなくなる。

 結果、自分で自分を傷つける。

 人の悪を信じる人間の多くが、命に見合う価値のないものを奪うために自らの命を危険にさらすのは、きっとそのためだ。


 エリスは目に見えない特別な雨にでも打たれているかのように、喉をのけぞらせて天上を仰ぎ見ていた。

 そこに刃が突き立てられるのを期待して、待っているのだ。

 悲劇のヒロイン気分ですか?

 まったく、仕方ないな。


 でもさ、エリスを抱きしめる?

 俺にできんのかそんなこと。

 無理だわー。


 例えばだ。混雑する通勤電車で見知らぬ女子高生が隣に座ってくれたとしよう。

 ここで「せめぇな。でけえケツねじ込んでくんじゃねーよ」と思うのは、何不自由ない外見に恵まれたクソリア充である。

 ホンモノの非リア充ならば、こう思って喝采を叫ぶはずだ。


 「やった、女子高生から見て、俺は生理的に無理なレベルのブサメンじゃないんだ!」と。


 「女子高生に人間として認められたぞ!」とすら思うほど、低自己評価がデフォルトなのが俺たちなのだ。

 その女子高生が美少女だったりしたら、痴漢冤罪をでっち上げる犯罪グループのターゲットになったんじゃねーか? と疑心暗鬼にかられて、速攻で席を移動するのが俺たちなのだよ。

 

 そんな俺がだよ、OL風の女性が隣に座っただけで、緊張のせいかすえたエステル臭を腋から放ち始める俺がだよ、赤髪の極上ガングロ女子高生にも似た外見を有するエリスを、抱きしめられるか?

 

 否!

 そんな勇気などありはせぬ!

 それに拒否られたとき、俺の自尊心はどうなる。取り返しがつかないほど――。


 いや、まてよ。

 俺は単に、自分のちっぽけな自尊心が傷つくのがこわいんだ。

 ただ、それだけのことじゃないか。

 社会のために、他人のために生きると決めたはず。

 だったらそれを懼れていちゃだめだ。


 自分の生命は他の生命を生かし、また生かされている。

 誰かを生かすために、生きている。

 これが、生への絶望のあとで訪れた、俺の個人的な聖なる知識。


 どんな利己主義者でも、経世済民を通じて他者を生かしている。消費税を、住民税を、アパートの家賃を払っている。

 “注文を確定する”のクリック一つ一つが製造業者の在庫を減らし、流通業者を通じて世界とつながっている。

 すなわち経済とはひとつの優しさの形であり、消費という目に見えない結びつきが互いを生かしている。

 ……あの日、そのことを悟ったはずだ。

 まさしくこの部屋で!

 

 会社員時代、お局様のBBAに嫌がらせを受けるたびに唱えていた念仏が頭に浮かんだ。

 それを言葉に出すのははじめてだ。 

 言え、言ってしまえ。いまさら守るべき自尊心がどこにある。

 

 「俺の信念を聞いてくれ」


 誰にでも、言葉が厳粛な響きを発する瞬間がある。

 その言葉が、ある人物の損得を超えた信念から発しているときがそうだ。


 「この世に悪い女などいない。いるのは悪い男と寂しい女の子だけだよ」

 

 実際どうなのかは知らん。

 無論、例外もあるだろう。

 だが俺は何度も唱えてきたこの箴言しんげんを、個人的に真理に任ずる!

 異議は受け付けない。

 なぜなら、ほかでもない俺が信じたいからだ。

 これはそう、信念。

 もしくは信仰と表現してもいいだろう。


 はっきり言って、この世には信念以上に重要なものがあるだろうか?

 信念がない人間は他人との比較でしか幸福を感じられず、終わりのない劣等感と、その場限りの刹那の満足を空しく追いかけて一生を終えるしかないのだから。

 真理とは幻想――自分だけの聖なるおとぎ話だ。

 

 「クアァー」

 突如アクビのようなうめき声をあげ、仰向けに卒倒する人物が現れた。


 オークスだった。


 恍惚の表情を浮かべた顔の口元は、幸福そうな笑みの形を刻んでいた。


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