ベッドの下の危険物
小さなポシェット――に見えて四次元ポケットなステイシス・ボックス。
あれほどあった荷物を全部ぶち込んでも、大きさに目に見える変化はない。
俺は部屋の中を見回し、最後に残った大物、つまりお馴染みのリュックに手を伸ばした。
そのときふと視界の隅で何かが動いた気がして、頑丈な四角い足で支えられたベッドの下に注意を向けた。
キムが買い揃えた品物が一つ落ちていた。
それに手を伸ばしかけて、デジャ・ヴュを覚えた。
――確か、以前もこんなことがあったな。
額に浮いた汗を拭って記憶の糸をたぐった。
思い出した。
あれは何年前だったか。
日曜の夜、明日からはじまる新しい1週間にウンザリしつつも諦めの心境だったことが痛いほど思い出せた。
なんとはなしに無聊をかこっていた俺は、久しぶりに自宅のベッドの下を掃除した。
その折、うっかり発掘してしまったプラスチックのケースを手に取ってみると――TS○TAYAの新作DVD。
新作かぁー。
……ああ、もう旧作みたいだね。
「許してけろ。オラのような純ジャパニーズ風情が欧米人様の真似してベッドなんてハイカラな家具に浮気したのが悪がっだ。反省しだ。布団に戻すから勘弁してけろー」
涙目で心の底から祈りを捧げ、おそるおそる目を開けても、TSUT○YAのDVDは厳然とそこにあった。
俺は絶叫した。
「なんで消えてないのぉぉぉ!?」
どうしてそんなトラウマをいまごろ思い出したんだろう。
不気味な予感に慄きつつ、俺はベッドの下に手を伸ばした。
もうちょっとで品物に指先が届くというそのとき。
ベッドの下によどむ闇の奥から、さっと手が伸びて俺の手首をつかんだ。
人間は本当に怯えたとき、ついつい豚化するらしい。
俺の口をついて出た悲鳴は、「ブキッ」という豚語だった。
「つがまえだぁぁぁぁー」
天上からぶらさがる蜘蛛の糸をつかんだ亡者あたりが発しそうなおぞましい声に、首筋の毛が一本残らず逆立った。
「うぎゃぁぁぁぁ!!」
暗がりからずろんと滑り出てきたのは、見覚えのある黒基調に白フリルも鮮やかな猫娘――即ちクロスウィンドであった。
ひたり、と冷たいものが首筋に触れる。
クロスウィンドの鉤爪だった。
湾曲したカッターの刃に似た凶器が五本、俺の大事な大事な頚動脈の真上で静止していた。
それはそうと、どこからか嗅いだことのない良い香りがする。
クロスウィンドの深緑色の前髪が俺の鼻先まで接近して、はじめて気づいた。
――この子の髪の匂いだ。
目の前に迫った猫耳が、いきなりハタタッと痙攣するように動いたせいで、なお強い香りが鼻腔をくすぐった。
「んー!? 感じるぅ。誰かが近くで屈辱ペロペロを強いられた気配を感じるのぉぉ」
いきなり意味がわからない事を口走るクロスウィンド。
彼女がいっそう屈んで俺に近寄ると、“?”の形をしたしっぽが手の届くところに近寄ってきた。
やばい殺される!
首をかき切られる!
切られる瞬間、首が感じるのは熱さだろうか、それとも刃の冷たさだろうか。
殺気で息がつまり、手足はまるで自分のものではないかのように力が入らない。
窮地においやられたというのに、俺の脳内のどこからか、史上最低の辞世の句が浮かんできた。
――死ぬのなら、触ってみせよう、猫のしっぽ。
こんなときまで、俺は……。
でも、これが俺なんだ、仕方ないだろ。
どうせ死ぬのなら、あのサラサラと気持ち良さそうなしっぽを触ってから死んでやる。
覚悟を決めたそのとき、硬く冷たい金属が触れる俺の首筋に、新たな緊張が走った。
熱く濡れたものが、刃が触れるのとは反対側の頚動脈の上を、強くなめたのだ。
視界に収まらないほど近づいていたクロスウィンドの頭が揺れて、「にちゅう」とどこかが鳴るのがはっきり聞こえた。
耳元にふわりと熱い息がかかる。
「ふう、少しスッキリ。じゃ、死んでねー」
俺はとっさに叫んだ。
「ちょっと待ったコールだー!」
1990年以後生まれの若者には元ネタすら謎のセリフに、クロスウィンドの耳がピクリと動いた。
「は?」
俺との目線がホリゾンタルなレベルになるまで、真紅の瞳がせり上がってきた。
小刻みに左右に動く大きな目玉。
その水平距離、約20センチメートル。
縦に割れた瞳孔が、戸惑ったように人間のそれと猫のそれの間を往復した。
この距離で見つめられると、頭の中身を見られているような気がした。
内心を悟られないように下を向きたい欲求にかられたが、ぐっと我慢する。
そして、ゲスキャラの横柄さで宣言した。
「仲間を売らせてもらおう。その代わり命ばかりは助けてくれっ」
クロスウィンドが小首を傾げた。
「ふーん。他にはぁ? それだけじゃ取引材料として弱いわねぇ」
他に?
「えっとー……靴でもお舐めしましょうか」
クロスウィンドの目が泳いだ。備え付けの耳はぴんっと立っている。
「そ、そんなものが反対給付になるわけないでしょっ」
あからさまに動揺するなや。
喋り方ノーマルになっとるやん。
俺の喋り方も、ついついツッコミ最強言語たる関西弁と化しちゃったことだし、まあ許すけど。
しかしこのゴス猫の反応。これは押せる、押せるぞ。
「ペロペロさせ奉らせていただきたい。体といわずどんなものでも、くまなくペロペロしまくるレロレロマシーンと化させて頂きますゆえ、なにとぞ命ばかりは」
「本当?」と疑わしげなクロスウィンド。
流し目のような冷たい横目をみせるが、長いしっぽは直立しゆっくり揺れている。
実家の猫がときおりみせるサインだ。
しっぽの動きでわかる。明らかに興味アリアリなのだ。
俺は表情筋を精一杯、男前に変化させた。
通常3分しか保たない技だが、いまは10秒保てばいい、120%の男前ブースト発令だ。
「どこなりとペロペロをお申し付け下さい(キリッ)」
「むふう」
満足げな吐息をもらすクロスウィンド。
「それじゃあ……お願いしようかしらぁん」
さすがに恥かしいのか、クロスウィンドは伏せ目がちになる。
鉤爪が俺の首を離れた。
クロスウィンドは刃を腕に当て、ぐっと押し付けた。
数本の傷が斜めに刻まれた腕に血がにじんだ。
下に向けた腕を血が伝い、一本の流れとなって指先からポツポツと床に滴った。
「じゃ、これ、舐めてもらえるぅ?」
なんだこいつは。
血をなめ取れって?
なんで?
いかれてるのか?
しかし、俺はこうこたえた。
「はい、よろこんで!」
ご注文ありがとうございまぁーす。
二つ返事で承諾。犬でいうところの「待て」のポーズで舌を突き出して待った。
ポタリポタリと真上から落下する血液が、舌を濡らした。
こんなものなんだっていうんだ。
思い出せ、数年前の春の日を。
飲み会の二次会でくらったあの罰ゲームに比べればまだマシじゃないか。
外の水がめの中に棲息していたオタマジャクシをサワーで飲み干した、あの夜に比べれば……。
クロスウィンドは次第にのってきていた。
荒い息遣いがさっきから俺の額に当たってる。
「指、じゅぽじゅぽしてぇ」
「はい、よろこんで!」
クロスウィンドの指先をねぶり取ろうとするかのように、舌を巻きつけた。
舌の表面のざらつきは舌乳頭があるためだ。
この舌乳頭がクロスウィンドの爪先に引っかかって、痙攣するかのような軽い抵抗が生まれた。
柔らかい舌が硬い爪をこする。
クロスウィンドは「んふー」と満足げな吐息をもらした。
血液が喉の奥に流れ込んで、濃い鉄の味にむせそうになる。
「はぁはぁ。なかなかの舌使いよぉ。もっと、指の根元までレロレッロしてぇ」
「はひ、よよこんえ」と俺。
「ふなはぁ、体液で真っ赤によごれたアティクシの指ぃぃ、もっとぺルリィィ……」と悶える。
俺はその痴態を冷めた心で眺めていた。
――もうちょっとだ。
さっきクロスウィンドに腕をつかまれた拍子に落としてしまったステイシス・ボックスまで、あと少し。
首を仰け反らせていたクロスウィンドが頭を起こし、とろんとした目で俺を見た。
ステイシス・ボックスを体の死角に隠すために、なお懸命に指を吸いながら、じわじわ位置をずらしてゆく。
やっとのことで小さなステイシス・ボックスに指先が触れた。
このイカレたゴス猫をボックスに閉じ込めてやる。
目論見を実行に移そうとしたそのとき。
ドゴゥア。
吹っ飛んだ扉が高速回転しつつ飛び去り、部屋の反対側の壁に突き刺さった。
ドア枠の向こうからオークスが現れた。
次いでキムも。
「…………」
沈黙が重たくたれこめた。
もだえるゴス猫。その指を咥えた男は、口の周りを紅に染めている。
いまこの瞬間の光景をデッサンして精神科医にでも見せようものなら、どんな奇怪が病名をつけられてしまうかわかったものじゃない。
「部屋まちがった」
オークスが踵を返す。
「間違ってないよ!」
「いや、失礼した。どうぞ続けて」
なお出て行こうとするオークス。
「あらぁ、そこにいるのは昨日の機甲鎧じゃないのぉ」
クロスウィンドはキムに目をつけた。
「そっちは誰ぇ? あら、あとでその髪ちょうだいねぇ」
「断る」
「あらぁ? その口の利き方。もしかしてあいつの妹さんとか? お兄さんはどこにいっちゃたのかなあ。教えてくれないとねー、その首かき切るわよぉー」
のんびりと恐ろしいことをのたまうクロスウィンド。
「シキョー様におこられちゃったんだから。ちょっとイタズラしてからお兄さんに送り返すのもアリかもぉ」
表情一つ変えないオークスを見て、クロスウィンドは肩をすくめた。
いや、おそらく肩をすくめたのだと思う。だって、人間にあるべからざる角度に関節曲げてたし。
「なんだ、面白くないのー」
「どうしてここがわかった」とオークス。
「教えちゃおっかなー? ま、いっか。だって、もう用済みだしねー」
空間に裂け目がパックリと開いた。
「むぐー」
目隠しされた人物が転げ落ちた。
フードつきの地味な外套。フードの隙間から赤毛がのぞいていた。
両手を振り回し、滑稽なほど怯えた様子で縮こまった。
クロスウィンドが鉤爪をふるう。
目隠しが少女の足の間に落ちた。
「うう……」
両目を覆ってうめいているのは、エリスだった。




