サポート満了
オークスの過去についての話になります。
22世紀の社会には、「全性愛者にあらずんば人にあらず」的な空気が確かにあった。
だから、どちらか片方だけしか愛せない人にとり、現代は住みやすい時代ではなかった。
ヘテロはアンエシカル(非倫理的)でエキセントリック(性的に偏った)な人物とみなされ、就職にも苦労する。
そんな時代だから、就職を目前にした大学生の多くが男から女へ、無性から両性へ、またその逆へと、盛んにトランスジェンドしていた。
性的嗜好が正常であることを企業の採用担当者に対し明示的にアピールする。そのためだけに。
オークスは、この“性的に正しい”社会で浮いていることを、早くから悟っていた。
それでも、親の勧めに従い一度はトランス専門クリニックの門をくぐった。
無事に就職できたら、機を見て元の性に戻せばいい。そのような目論みを胸に秘めて。
オークスの周囲では、車を買い替えるよりも頻繁に性をとっかえひっかえする大人も多かった。
一つの性に落ち着けない移り気な者は、とりわけ若者に多い。
18歳で成人した次の日に、トランスしてしまった高校のクラスメートも数人知っている。
現実社会はこんな有様だから、入社半年くらいで男性を捨てて女性に戻っても上司や同僚におかしく思われないかもしれない。
そんな極甘な見通しを弄んでいた時期もあった。
あとでわかったことだが、実際のところオークスの性的指向など、クリニックのストレス診断で丸分かりだったのだ。
分析に立ち会った男性医師――というよりはアシスタントの診断結果の伝言係――は、オークスが既に悟っていた性的傾向だけでなく、まったく想像もしていなかった潜在的な嗜好までも明らかにしてくれた。
ニヤニヤともったいぶった仕草で隠された嗜好を列挙する医師に嫌悪感を抱いた。
早く解放されたい一心で、トランス後のカウンセリングを予約してしまった。
茫然自失のありさまでフラフラとクリニックをさまよい出たところで、色々なものが終わったことに思い至った。
企業が行う一般的な素行サーヴェイだけで、今回の診断結果は簡単にいぶり出されてしまう。
とりわけ優秀なアシスタントじゃなくても、オークスの医療費支出先や交通履歴などから、簡単に一つの結論にたどり着けるだろう。
いずれにせよ、医者にカウンセリングを勧められ、それをうっかりOKした時点でもう公的な記録に残ってしまった。
――もしかしたら。
あとになってオークスはやっと思い至った。
男性医師のいかにも薄気味悪い態度は、カウンセリングの販売実績を伸ばすための演技だったのではないか。
オークスの将来が台無しになることを知った上で、わずかばかりのポイントを稼いでみたのではないか。
仮にそうなのだとしても、もはや完全に手遅れであることに違いはなかった。
もちろん、あらゆる企業は「身体的・遺伝的・精神的多様性に基づく人の独自性を尊重しなければならない」と法で定められている。
異性愛を理由に不採用にすることなど許されるわけがない。
――建前上は。
企業がどれほどコンプライアンス重視のポーズをとろうが、実際のところ採用プロセスは今も昔もブラックボックスのまま。
現代社会においては――不幸なことに異性に“しか”興味がないならば、社会的に抹殺される。
それが現実だ。
聞くところによると、昔の社会は違ったという。
にわかには信じがたいことだが、トランスジェンド以前の異性愛社会では、女性は“守るべき存在”とみなされていた。
完全平等社会の現代では、望むべくもないことだった。
◆
その夜、オークスは空を見上げていた。
数年ぶりにじっくり眺めた夜空には、シンギュラリティやマキネーションといった超巨大多国籍企業のロゴが浮かんでいた。
上空の大気の密度が異なるせいで、そのロゴは旗のようにゆらめいていた。
こうして空の一角を占めるスカイ・アドだったが、景観条項のおかげで天の川の眺めは損なわれていない。
企業がみせる、そうした表向きの法令順守ぶりが腹立たしかった。
向かいに建つ老朽化した復興時代の高層ビルは、ところどころにゆらめく灯りが見える。
不法居住者が煮炊きでもしているのだろう。
無秩序に広がる放棄地帯の向こうに、集約市街の青白い灯りが見えた。
オークスの大学と住居がある街。
――あそこに、戻るのだろうか。
まるで他人事のように自分に問いかけた。
世界はなぜ、ただの女の子でいたいという望みも叶えてくれないのだろう。
なぜ100年前に生まれなかったのだろう。
女らしい振る舞いも男らしい振る舞いも禁じられた現代が憎かった。
オークスが自分の感情を表に出さなくなったのは、小学生低学年の時期だった。
隣席の子とおしゃべりしていて、ふとした弾みで男の子が好きだということを漏らしたのだと思う。
クラスメートたちは微妙な表情で顔を見合わせていた。
その日のうちに職員室に呼ばれたのをオークスは覚えている。
担任の教師が心配そうに顔をのぞきこんでいたことも。
それからだ。
自分のことを極端に隠すようになったのは。
異性が好きだという自らの変態趣味が、将来に及ぼす暗い影に怯えていた。
世界がおそろしくてたまらなかった。
自分が異性の肉体に閉じ込められた事にも、これ以上耐えられそうになかった。
一日生きるごとに、知りたくもない異性の真実に気づかされる。
そんなこと知りたくなかった。
幻想を抱きたいと願うのは、弱いメンタルの持ち主。
そんなことはわかっていた。
「――ハル、そんなことでは落ちこぼれになるだろう。無論、あなたがそれでいいなら構わないが」
合理的で、味気なくて――うすら寒い両親の声が、風に乗って届いたような気がして、オークスは自分の肩を抱き寄せた。
生まれてからずっと――大楠家の一人娘として、エリートになるべく教育されてきた。
エリートになるか負組み単純労働者になるか。
二者択一の社会。
多くの優秀な学生たちは、狭き門に滑り込むためなら魂だって売っただろう。
まして、トランスジェンドのような些細なことで競争者たちが悩むなど、あり得なかった。
「もう、疲れたよ」
オークスは誰にも聞かせたことのない、本来の声音を虚空に放った。
ここでなら誰も聞いていない。
生涯を共にする腕輪を除いては。
オークスのアシスタント――正確にはジェネラル・ライフサポート・アシスタント――には、あるソフトウェアがインストールされている。
体内を血液に乗って巡り、オークスの加齢を遺伝子レベルで防ぐ極微の機械たち、それらをマネージメントする機能がそれだ。
オークスの親は、70年一括レンタルオプションと月々割オプションを賢く利用することで、SecureVictory社製の不老不死を割安で購入していた。
全ては、娘をエリートコースに乗せるために。
衰えない美貌が、就職や出世に有利なことは疑問を挟む余地がない。
共働きで、会社においてそれぞれが重きを成していたオークスの両親は、そのことをよく知っていた。
頭の中を同じフレーズが駆け回る。
「私のアブノーマルな性癖のせいで、両親の生涯をかけた努力が無駄になった」
無駄になった。
無駄に……。
――もう、帰れない。帰りたくない。
オークスは手すりを握った。
長い年月がその表面を流れたせいで、ステンレスですら錆びて元の銀色を失っている。
地上を見下ろすと、アスファルト道路が漆黒の川のようにビルの合間を縫っていた。
悲しげに吹きすさぶ風の音が寂寥感を際立たせているからだろうか。
眼下に広がる寂寞たる廃墟が、死者の徘徊する冥界にも似た不気味極まりない場所に思えた。
風が強まったように思えた。
いつの間にか、空に黒いちぎれ雲が流れていた。
遠く雷鳴が響き、湿っぽく不穏な空気が不意に頬をなでた。
間もなくひび割れた高層ビルの屋上に、ぽつぽつと雨粒が落ちた。
頭を濡らした雨がじわりとこめかみを伝った。
他にも幾筋かが頬を流れ、雨水と合流してつま先に落ちた。
金色に輝く腕輪は、設計された通りに注意深くユーザーの全行動の記録をとっていた。
地面に激突して砕け散るそのときまで、忠実に記録し、分析し、許可があれば解釈すら行い続けるだろう。
だが、ユーザーの行動に対する干渉だけはできない。
もとよりそのような設計なのだ。
朽ちかけたコンクリートの塀に足をかけたそのとき、ストロボのような光で世界が白一色に染まった。
ごく近くに雷が落ちた、とそのときは思った。
激しい雷鳴が耳元で轟くのを、息をつめて待った。
一瞬が重なって、時間が流れはじめた。
薄く目を開けると――そこには人口過密の異世界が広がっていた。
それから半世紀。
オークスは想像もしなかったほど長い時間を男性の肉体で過ごしてきた。
だが、その年月ももうすぐ終りだ。
SecureVictory社製不老不死の、サポート満了期限が迫っていた。




