ナチュラリスト
“糞虫”は、奇遇にも小学5年時の俺のあだ名と全く同じだった。
軽く小学校でのトラウマ体験をフラッシュバックさせつつ、宿の地階でお湯をもらって体を清めた。
――まあ、乙女の前でリリースした不名誉は、どうやっても清められないがな。
物陰で泣きながら海綿で尻を拭ってる間に、俺用の下着やらなにやらを準備していてくれたらしい。
ケツに海綿を挟んでポーズをとったり、「ダイ○ン、吸引力の変わらないただ一つの掃除機ッ」とかつぶやいてゴシゴシこすっていると――すぐそばの床に、たたんだ着替えが安置されているのに気づいた。
部屋に戻った俺はさっそくたずねた。
「下着、買ってくれたの?」
「わたしじゃないわよ」
キムは壁を背もたれに座っていて、帰ってきた俺を見上げた。
「ヴスジーマが困るだろうって、オークスが魔法の箱から替えを出してくれたの」
「そうなの。ありがとうオークス。ところでつかぬことを聞くけど、替えを下まで持ってきてくれたのは――」
「オークスだけど。わたしはスプライトをまだ脱げないもの」
キムは首をひねって俺をみつめた。
「……あなたまた変なことしでかしたんじゃないでしょうね」
鋭いな。
「違うよ。ね、オークス」
鎧戸の隙間から外をのぞいたまま、オークスは微動だにしない。
「……」
無視かよ。
ちゃんと否定してくれ、オークス。
「やっぱり変態ねヴスジーマは」とキムが溜息混じりに決めつけた。
「あのー、弁解するようだけどさ、男はみんな変態なんだよ。俺なんか紳士な方だからね?」
「ふーん。変態紳士なんだ」
「違うけど、なぜだろうな。“変態オタク”より“変態紳士”の方がワンランク上の変態の匂いがするな」
ご覧のようにキムとの親密度急上昇(?)の裏で、このときオークスが密かに動き出していた。
「わたし邪魔」と唐突にオークスは誰にともなく言った。
「え、なによオークス。邪魔ってどういう?」
「とても楽しそう。彼になぐさめられた」
キムは即座に意味を理解したらしく、自分を指さした。
抑揚に乏しく主語までも省略されたオークス語に、だいぶ適応したらしい。
「……わたしがヴスジーマに? どうかしてるわよあなた」
「どうだろう。私が君なら、なぐさめてほしかった」
「あなた男でしょ。え、なに、やだそういう趣味なの? 意外……」
ちょい待ち、話が変な方向に進み始めてるんですけど。
というかオークス、お前は俺をそんな目つきで見るな。
視線がぶつかると、オークスが目を伏せた。
おい、そこではにかむな。
はじめてみたぞ、お前がそんなふうに微笑むとこ。
そんな端正な顔でそんな態度とられたら――アタシまでおかしな気分になっちゃうじゃないのさ。
べ、別にオマエの事なんか好きでもなんでもないんだからなっ。
……自重しろ。
ツンデレキャラを脳内でエミュレートするな俺。
真面目フェイクな表情を浮かべて抗議した。
「そういうきわどい冗談はやめてくれ。変な空気になるしさ……」
「そう」とオークスは短く言った。
なぜかどことなく残念そうな雰囲気をかもしだしている。
キムがオークスを指さした。
「あなたはどうなのよ。さっきの封印された空間にあったの全部シードでしょ。すごい数じゃない。あなたは一体なにがしたいのよ。わたしの秘密を知っておきながら、自分の秘密は封印したまま、なんてことはしないわよね人間として」
ぐいぐい押してくるキム。
「あなたも異世界人なんでしょ。元の世界に帰りたいの?」
「……帰りたい」とオークス。
「やっぱり」
オークスはベッドに仰向けに倒れて、腹の上で指を組んだ。
「帰らなければならない」
その声の指摘できないどこかに、おそろしい疲れが滲んでいるのを俺は悟った。
――半世紀だもんな。そりゃー疲れるわ。
「もしかして元の世界に帰るシードをもう持ってるの?」
「見つけていたら、もう帰っている」
「もう何十年も探し続けて、それでもない」と俺。
オークスは天井を見つめている。
「連れてくることができた。送り返す手段もある」
俺も連れ去られて、ここに来たわけだ。
いろんな時代から連行されてきた。
なぜそんなことを?
俺はただ、国立科学博物館の前で世界に復讐することを誓っていただけだ。
俺がダンジョンの中でひきこもっていた頃から、ずっと考えてきた可能性を確認してみた。
「この世界ははるかな未来なのか?」
「違う」ときっぱり否定するオークス。
「ここは未来ではない。地球でもない。別の宇宙。平行世界」
平行世界。パラレルワールド。
頭の奥に、痺れるような無感覚の感覚が広がった。
これが“途方に暮れる”という感覚の最大級のものだということに、俺は遅れて気づいた。
「ど、どうしてそんなことがわかるんだよ」
「以前……25世紀のヒキコモリがそう言っていた」
確信のこもった言葉。
少なくともオークスは疑いをさしはさむ余地などないと考えているようだ。
異世界も異世界、かなりディープな異世界だったのね、この世界……。
「ってことは別の宇宙に帰る機能を持ったシードを、ずっと――」
探し続けてきたのか。
ご苦労様なことだ。
俺もベッドに寝転がった。
元の世界に帰る?
笑っちゃうほど無理過ぎる。
もう帰れないことなど、うすうす感づいてたこと。
覚悟を決めるしかないよ。
いまの俺なら元の世界でも満足して生きていけそうな気がする。
結局のところどこで生きても同じことだから。
一人の人間が満足できる人生を歩めるかどうかは、生きている場所や環境とはあまり関係がないのではないか。そう思いはじめていた。
百年戦争時代の戦火にまみれたフランスに生まれようが、江戸時代の停滞の中に生をうけようが、幸せの条件は一つ。
自己満足できるか否か――つまり本人の心の持ちようにかかっているのだから。
そして自己満足に至る道は、おそらく一つしかない。
現実への抵抗をやめ、世界を世界として敬い愛する。
あるがままに、勝手な理想を押し付けずに。
誰にだって能力に限界があるのだから、手に入るものにも多かれ少なかれ限度がある。
そうした限度に腹を立てていては、永久に満足などできない。
すなわち、自己満足するためには、幸せになるためには、思うままにならない世界をそのまま受け入れ、思うままにする力のない自分をも許さなければならない。
――ふっ。
考えていて笑いがこみ上げてきた。
俺の考えは、日本人の“大人”の典型的な考え方なのだろう。
狭い島国に閉塞し、固定された身分で一生を送らざるを得なかったかつての日本人が、現実への怒りを諦めに転換するために編み出した心的態度だ。
世界を変えるより、社会の秩序を優先する。
現状に不満があっても、各人が工夫して生きがいや楽しみを見出すことで自己満足を追い求める。
変革より保守、消費より倹約、競走より同調、真実より隠蔽 、お荷物になるくらいなら自ら死を選ぶ。
そんな美徳の源が、諦めと自己満足の哲学だ。
一方、血気盛んな若者は、概して現実の方を変えようとする。
休みなく空気を読みまくらねばならない息苦しい社会で“いい人”を演じるのを拒否する。
それはそれで一つの信念だ。
決して悪いことじゃない。
貫き通せば社会の停滞を打ち破る力となるだろう。
元の世界の日本には、ときにそのような力が必要だったと思う。
そして、この世界にも。
ところで、オークスの別の発言が心にひっかかっていた。
何者かが俺たちを“連れてきた”と言ってたよな。
俺は天井の木目に視線を走らせながらオークスにたずねた。
「もしかしてさ。俺たちをこの世界に拉致ったのが何者か、知ってたりする?」
「わからない。謎の存在。建設者。この世界の仕組みを創り、人々を今も養っている」
「ちょい待ち。ってことは、マニュギアーを世界中に残したのも建設者なのか」
「そう」
「神様?」キムが端的にそう表現した。
「違う」
オークスは唇を舌先で湿らせ、こう続けた。
「なぜなら――ダンジョンの創造主も、建設者だから」
「そんなわけないでしょ。だって降魔戦争で魔王アービットが人間界を侵す尖兵として、レプリケイターをばらまいたのよ」
「それが公式の伝記。真実は違う」
「そうしてわかるのよ」
「双方に同じ技術的特長があるから」
「ギアー神がつくったマニュギアーと、ダンジョンから採れるシードの間に?」と俺。
オークスはうなずいた。
「そう結論した。私の――」
オークスは腕輪をはめた片手を挙げた。
「――アシスタントが。アッシー、自然言語の出力を許可する」
腕輪が百戦錬磨の実況中継アナウンサーのごとき早口でしゃべった。
「みなさまはじめまして。本機はシンギュラリティ社のアシスタント・シリーズSAS201シニアグレードAIです。スタンドアロン状態でも100ペタバイトの参照情報を内臓。コスパ最高のアシスタントAIをお求めならシンギュラティ製品を!」
オークスはこめかみを押さえた。
「宣伝はいい。ボリューム落として自己紹介」
「仰せのままに、大楠ハル。本機はユーザー様の情報生活をサポートするのが今生の定め。あらゆる情報を蓄え、分析し、お許しあれば解釈もいたします。なお本機のことはアッシーと――」
「もういい、自然言語の出力を禁じる!」
けたたましいアッシーの声がぷっつりと断ち切れた。
なぜかオークスは激怒しているようだった。
唇が言葉を形作っているように小刻みに動いているが、言葉は杳として発せられない。
「あのー、オークスさん?」
オークスは俺を無視し、眉間に皺を寄せて言った。
「10年ぶりくらいに聞いた。あの声が嫌いだ」
「大楠ハルさん?」
しぶしぶといった様子でオークスは応じた。
「何か」
オークス=大楠 だったの?
「完全に、その……日本人の名前じゃん」
オークスは表情を消して俺を見た。
彼の唇の端がひくひくしているのは錯覚だと思う。
「初めから日本人じゃないとは言っていない。私の名は大楠ハル」
俺が絶句していると、何を勘違いしたのか、オークスは耐えかねたかのようにまくし立てた。
「……仕方ないのだ。流行が一周してトヨとかヒサとかヨシなどの名前が赤ん坊につけられた時代に生まれた。すぐに廃れたけど。だからハルと呼ばないでくれ」
「別に恥かしくないでしょ」
むしろなかなかカッコイイんじゃないか。欧米人みたいなラストネームじゃん。
「はずかしいんだ。ハル婆さんだなんて」
「婆さんてw」
と俺は笑いかけて、何かが頭の奥にひっかかった。
キムへの無関心。
美しいとすらいえる、小ぶりな顔。
言葉数は少ないけど、優しく響く声。
え、でもユニティ邸の寝室で見たよな……こいつの。
オークスは自分の体を抱くように、自分の肘を強くつかんだ。
「帰りたい。帰って元の性に戻りたい」
「元のって――まさか」
「私は大学生だった。親が、就職するなら一度はトランスジェンドしとけって。ナチュラリストで逃げようと策を練ったが、病院の深層診断でバイアスがバレた」
オークスは蒼白な顔を俺たちに向けた。
「変態だと笑ってくれ。私は異性が――男が好きなんだ」




