括約筋封鎖できません
空中に出現した下半身は、足をばたつかせてもがく。
少しずり落ちて、くびれた腰までがあらわになった。
下腹部はすっきりとして、贅肉など全然見当たらない。むしろ筋肉質だ。
そしてお尻からは、黒くしなやかなしっぽが。
ほう!
なるほど。
パンティー腰ばきの半ケツ状態だから、下着としっぽは干渉しないのか。
そしてめくれ上がったスカートには、しっぽを通す穴が!
謎は全て解けた!
って、どこでそんな疑問を抱いたんだっけか。
んーと。
――そうだ、今朝夢で……。
夢で見た顔を思い出した。
あれ相当な美少女だったよなあ。
やっぱ願望としては、語尾にニャがついてないかなあ。
「カリカリ大好きだニャ。ご主人様もっとくれニャ!」とか。
かわいいニャー。
お持ち帰りしたいニャー。
「なに、これ……」と、キムが戦慄を声の響きに乗せる。
俺は無意識のうちにつぶやいていた。
「ゴスロリ猫娘幽霊ちゃんニャ」
「ニャ?」
「あ、いや――」
そのとき実にタイミングよく、「アーティファクト」と、オークスが意味ありげな単語をつぶやいてくれた。
「アーティファクトとはなんだい?」
若干食い気味に謎のワードを拾いに行く俺。
「ギアー教会の秘儀によりモディファイされた異形のもの。リザレク十二方位の一人」
リザレクねえ。
ドラクエっぽい名詞がまたまた出てきましたよ。
にしても……。
いつの間にか、ゴス猫ちゃんのまわりに垣間見える“向こう”の空間――虹色のマーブル模様に魅入っていた。
無秩序な虹色の中に、一定のパターンがあるような気がした。
なんだろう、あの黄色い渦巻き。
その渦が左右どちら回転なのか、むしょうに確かめたい。
「見てはだめ」
オークスは俺の目の前に手をかざした。
はっと我に返る。
あれ、俺いま何をしていたんだ?
すっぽりと記憶が抜け落ちていた。
オークスはキムにも目配せした。
キムにはそれだけで真意を悟るに十分だったらしい。
疑問も挟まずにバイザーを下ろした。
あの虹色がヤバイものだと本能で察したのかもしれない。
ゴス猫は相当な高さから苦もなく地面に降り立った。
パッパッと両手でスカートをはたいて整えると、破損したオライオンを一瞥してクスリと笑った。
「やっぱりねー」
次にオークスの目を真直ぐにみつめた。
「また会うってぇ、言ったでしょ、オークス」
オークスが表情を変えずに言った。
「クロスウィンド」
「よく覚えていてくれたわねぇ」
クロスウィンドは間延びした声でのんびり喋った。
「あなたを殺す者の名くらい、知っていて欲しぃものぉ」
そう言い放ち、彼女は片目は見開いたまま片や目を細めるという、器用な表情を披露した。
「出て来い出て来いアトリビュートー」
傍らの空間が割れて、そこからせり出したモノを首にかけた。
それは一見ドリームキャッチャー。
実際はどういうものかわからないが、いずれにしろ危険なものに違いない。
「じゃあ、行きますねー」
クロスウィンドの手から鋭い爪が突き出した。
のんびりした口調からは想像できない早わざで襲い掛かってきた。
猫耳が生えているだけあって、その動きは俊敏だ。
オークスは攻撃をかわそうとする。
紙一重でかわせない。
彼は爪がかすった腕を押さえた。
俊敏さではクロスウィンドが上らしい。
オークスはどこか収納場所から取り出したジュワユーズで、続くクロスウィンドの攻撃を防いだ。
だがそこまでだった。
いきなりオークスの動きが鈍る。
危ない!
振り下ろされたクロスウィンドの鉤爪が、オークスの頭皮をかすめた。
髪がはらはらと散り、こめかみを鮮血が伝った。
オークスは地面に両膝をついて震えている。
再び血塗れた爪が振り下ろされた。
ガギィッ。
クロスウィンドの攻撃は、スプライトの左腕に弾かれた。
キムが割って入ったのだ。
だが助太刀に入ったキムも、すぐに表情を変えた。
キョロキョロと落ち着きのないキムの眼つき。
「や、やめて。なんておそろしい……」
なんだ、どうした?
どうしたんだ?
すぐにわかった。
クロスウィンドが俺にウィンクしてから、体ごとドリームキャッチャーをこちらに向けたからだ。
俺はがっくりと地面に両手両膝をつき、どこからどう見てもOTLな格好を自然にとっていた。
――うぉぉ。これは。なんておそろしい。
子供の頃、夢の中でトイレを我慢していて、だけどトイレがどこにもない。そんな悪夢を見たことはあるだろうか。
実際、起きると本当に尿意が限界だったりする。
――なんでいきなり……。
俺は生まれたての小鹿のごとくプルプル震えながらも、辛うじて立ち上がった。
内股で尿意のビッグウェーブに耐える。
尿意の猛攻に気が遠くなる。
悪夢だ。
夢なら覚めてくれ。
ん、なんだ?
プレートがメッセージを発していた。
データ表示が空に浮かび上がった。
『【警告】
神経干渉波を探知
大脳辺縁系にパルス異常』
そうだ、プレートのサーチ機能で分析をセレクトしたままだった。
偶然、自分が分析されたままになっていたらしい。
神経干渉波だって?
俺はクロスウィンドの胸元を見た。
たぶん、首からさげているアレのせいだ。
キムがクロスウィンドの斬撃を食らって倒れた。
どんな強兵でもトイレ我慢しながらは戦えない。
ドリームキャッチャー、なんて恐ろしい兵器なんだ。
「キム、この感覚は幻だ」
ほとんど声にならなかった。
俺の警告も届かずに、やられるがままのキム。
彼女はもはや立つこともできないようだ。
いくらスプライトの外殻に守られているとはいえ、中身は生身の人間だ。
吹き飛ばされれば衝撃は内側を傷つける。頭を殴られれば、加速度が脳を揺さぶって意識を失う。
やべーよ。
俺が歩なら、さしずめキムとオークスは飛車角なのだよ。
君たちが負けたら、俺なんか鎧袖一触、問題外なんだから頑張ってくださいお願いします。
――そうだ。
俺はプレートのメニューを呼び出した。
その項目のひとつに注目する。
可能か?
わかるもんか。
捨て身の作戦だ。
でも、やるしかないじゃん。
プレートを抱え、クロスウィンドの注意を引いた。
「そこの猫耳!」
振り上げられた爪が弧を描く寸前、動きが止まった。
首をかしげて俺を横目で見た。
「んー? なにかなぁ人耳」
「お前の技は俺には効かない」
「ほへぇ。そうかな?」
ドリームキャッチャーがこちらを向いた。
瞬間、猛烈にトイレが恋しくなった。
「ほれほれ、どぅお?」
猫耳は数歩、近寄る。
クロスウィンドの目をはじめてのぞいた。
その瞳孔は縦に割れていた。
俺は脂汗を流し、震え声で答えた。
「全然平気だわー」
「ほへぇ。じゃ、これは?」
ギン、とクロスウィンドの目が黄金色の閃光を放ったような気がした。
下腹部に金属バットをフルスイングされたような衝撃が走った。
ぐぉぉぉ、来たぁぁぁ。
ぐんぐんこみ下げて来たよこれ。
腸から届くこの感覚の質感、そして重厚感。
とても幻とは思えない。
――これはもしや。
そういえば俺……朝トイレまだじゃね?
ってことは。
この感覚、リアルモンじゃん。
完全に実弾込められてるじゃん。
俺がそのことを理解した直後、強烈なビッグウェーブが下腹部に押し寄せた。
膝から力が抜けそうになる。
だめだ、プレートを支えなければ。
俺は、プレートを――。
「ホクホクダヨー」
!?
突然、ヘリウムガス吸引済みの変声が聞こえたような気がした。
誰だ、誰なんだお前は。
……そうか。
俺は自分の腹を見下ろした。
あのお方だ。
そうに違いない。
貴様、すでに我が絶対防衛圏、直腸までおいでませやがったか。
キュピイィィィーン。
「うっ」
鋭い便意が直腸から頭の天辺まで突き上げた。
なつかしのフラワーロックのごとく、全身をもだえさせて耐える。
そのとき一瞬の隙を突き、素敵じゃないサムシングが表舞台に召喚されかけた。
「コンニチハー」
うおい!
あのお方がひょっこり顔を出しそうになった。ひっこめこの野郎。
とある括約筋に全身全霊で死守命令を出す。
死守せよ。
第6軍並みに死守せよ。
「ネーネーコンニチハー」
我慢。
「ホックホクダヨー」
だめだめ我慢して。
肩の筋肉が石のように硬く緊張し、首がこわばる。
俺は……分別盛りの30代……そんな、醜態を……さらすわけには……いかない!!
カッと鋭い眼光が俺の目に宿った。
「俺は勝つ!」
気合を込めたのも束の間。
頭の中に真空が差し込んだかのような戦慄が走った。
「んんっ――」
戦慄が背中を走った。
そして。
「――ふぅ」
……やっちまった。
俺の内なる戦いの一部始終を、キムが目撃していた。
封鎖に失敗し、唐突に悶えるのを止めた――その瞬間を。
「あの……ヴスジーマ?」
数メートルの距離を挟んで、キムが俺に声をかけた。
その声は、仔猫にでも話しかけているかのように優しい。
だが俺には語るべきことなど、もはやなにもなかった。
ゆっくりと目を閉じ、蓮華の上で結跏趺坐する菩薩のごとき静かな微笑みを浮かべた。無言で。
「ブスジーマ、まさか……」
これこれキム。男には沈黙を守らねばならない刻があるのだ。無粋なことは聞かないでくれ。お願いだから。
ふと思い出した。
ああ、そういえばもう十分記録できただろう。
プレートのとある機能をセレクトした。
――反撃開始だ。
プレートにしかるべき命令を与えた。
直後、クロスウィンドの顔色が一変した。
余裕の笑みが口元から消え、目を大きく見開いた。
「はひぃ!?」
強度を最強に上げた。
クロスウィンドが両手で尻を押さえた。
「ふぁぉぉぉ、これ、しゅごぉい、産まれ……ちゃぅょほう……ぉあっ」
クロスウィンドは必死にトイレットペーパーを探す人のように、手で空を探った。
空中に裂け目が現れた。
彼女の全身が空間の裂け目の奥に消える寸前、「あわわわ、ふやぁぁぁぁん」などと、一線を越えたような声が漏れた気もする。
俺様大勝利だ。
そう、とりあえず俺は勝った。
クロスウィンドとかいうイカレたゴス猫を俺が撃退したのだ。
多大な犠牲を払って。
ああ、戦いは空しい。
勝利したとはいえ、勝ち得たものが全てを埋め合わせられるわけではない。
いや、どのような争いにおいても、勝利した側ですら、埋め合わせられないほどの傷を負うことが大半なのだ。
戦争とはなんと壮大な無駄なのだろう。罪なのだろう。悲劇なのだろう。
奴はとんでもないものを俺から盗んでいってしまったのだ。
平和が戻ったキム宅の庭に、一陣の風が通り抜けた。
俺は青空をふり仰いで、風が髪を乱すに任せた。
元の世界でもこの世界でも、大空はこんなにも深く、青い。
考えてもごらん、大自然の大きさと悠久の歴史に比べれば、俺たち人間の悩みなどちっぽけなものじゃないか。
そうだろう、キム。
俺は遠くに視線を投げかけ、しんみりと言った。
「風が――出てきたな」




