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チョコディップバー

 真空の静寂の中にぽつりと浮かんだその惑星は、いま夜の側をみせていた。

 人工的な光はほとんどない。

 それよりも、海洋生物の発する燐光が、大海をかき回す海流に沿って渦巻いているのが幻想的だ。

 もしも赤外線を見ることができる生物が見下ろしたとすれば、この惑星の大陸は赤外線で輝いて見えただろう。

 際限なく増殖した土着生物の、あらゆる活動――食事や呼吸、排泄といった――のせいで陸地全体が熱を帯び、大気を熱し、最終的に熱は遠赤外線の形で宇宙空間に逃げていたからだ。


 惑星の広大な海洋に浮かぶ大小二つの大陸のうち、大きいほうはヴィクトリー大陸と呼ばれている。

 そこには、肩を接するようにして1000億体以上の土着生物がひしめきあっていた。

 びっちり建物に覆われた大陸は、まだらに緑のものが混じった灰色を呈す。

 まるで惑星の苦悶を示しているかのように、大陸の表面に刻まれた黒い皺は、大河だ。

 それらの川は、海洋の注ぎ口で海を茶色に汚している。

 温室効果により、極地の氷も全て失われていた。

 一方、わずかに地表を覆う植物は高濃度の二酸化炭素を呼吸することで早く成長する。

 そのうえ温暖な気候のおかげで、一年中緑の葉をつけた。


 この惑星には、技術レベルに見合わぬ過剰な個体数という特徴のほかにもう一つ、明らかな異常があった。

 ただでさえ土地が狭すぎるというのに――小さい方の大陸には土着生物の活動がまったく見られないのだ。

 聖ギアー教会機甲士修道会テンプルナイツは各地に支部を持っている。

 この2000年、際限もなく巨大化し複雑化を極め、今では俗世の利権にくい込む世界最大の権力集団に成長した。


 もちろんそのことについて表立って批判を口にする者はいない。

 仮に居たとすれば、長生きは望めない。

 なぜなら、テンプルナイツの精神的支柱であるギアー教会は、死を“祝福”と呼ぶ危険な武装集団だからだ。

 批判は命取りだ。


 異端審問を執り行う絶叫が、この1000年絶えたことがないのを誇りとするギアー教会。

 その強力な私兵がテンプルナイツだ。

 総戦力は他のどの国家の正規軍をも上回る。


 この夜もフェアボーテンの中心街に位置する聖ギアー教会の高い塀の内側からは、高く低く、幻聴か耳鳴りのごとく、かすかな悲鳴が漏れていた。


 この街で“医療行為”を働いた愚か者が血祭りにあげられているのだ。


 ただでさえ過剰な人口を増やし、魂を御許に返すのを阻む“医師”。

その言葉は、悪魔の代名詞として使われている。

 その昔、ギアー教会の総本山であるシオンから発せられたありがたい託宣に従い、ヴィクトリー大陸全土にわたり医療行為は厳しく取り締まられている。


 ギアー教会は医療行為を働く忌まわしき背教者を根絶するために、昼も夜も絶え間なく、涙ぐましいほどの努力を傾けているのだ。


 それなのに、今の世でも絶えず悪魔と契約し、魂を売る背教者が現れ続けている。

 聖職者にとっては実に嘆かわしいことだ。


 “医療行為”という悪魔の技に傾倒し、ギアー神のもとに返されるべき魂をこの世に留めようとする、悪しき背教者ども。

 人々の一部はなぜそこまで愚かなのか。

 何十億人もの聖職者たちの祈りは、神の耳には届いても、同じ地上に生きる同胞たちには届かないのだ。


 毎夜の礼拝で聖職者たちは絶望を神に告げる。

 ああ、あなた様によって養われている人々が、どうして逆らうことができるのでしょうか、なぜなのでしょうか、と。


 しかし神は黙して語らない。

 背教者を戒めるために雷を落とすこともしない。

 その答えを、シオン神学教書は次のように語る。


 「信仰の試練」である、と。


 背教者は主が与えてくれた試練なのだ。

 ならば聖職者たちは戦う。

 彼らを必ず撲滅しなければならない。

 そのためなら、多少の犠牲はやむをえないのだ。


 「悪魔を崇拝しているのを見た」という情報が入れば、即座に捕縛すべきだ。

 悪魔的に醜い顔面の男女も念のために捕縛しよう。

 子といえど、親が悪魔に魂を売りかねない気配を察すれば、容赦なく教会に密告しないさい。お小遣いをあげるから。


 善良なる民の中にも背教者は人の皮を被って潜んでいる。

 あなたの隣人の部屋から、悪魔への崇拝を連想させる物音は響いてこないか?

 なに、夜中にイビキがうるさい? 

 それは悪魔を崇拝している可能性が高い。

 すぐ教会に知らせなさい。

 なに、子供の夜泣きがひどい? 

 その子は悪魔にとりつかれている可能性が高い。

 すぐ教会に知らせなさい。

 問答無用で屈強な聖兵が押し寄せて、悪を芽のうちに根こそぎにしてくれるから。 



 赤く塗装された回廊、通称“拷問回廊”をシグリクは早い歩調で進んでいた。

 彼の後ろを金魚のフンのようについてくるのは、伝令の任にあたる聖兵だ。


 異端審問にあたる特別司教のひとり――つまりテンプルナイツの元締め――の呼び出しにより、シグリクは司教座聖堂に向かっていた。


 回廊に囲まれた内庭には、拷問道具がたっぷりとしたスペースに設置されている。

 なにも無駄に広くスペースをとっているわけではない。

 平民やそれ以下の信徒にとって、ごちゃごちゃした過密な生活空間こそが、彼らの知る唯一の環境だ。

 背教者の多くは、広いスペースを見るだけで落ち着きを失うのだ。

 つまりこの空間そのものが拷問道具といえる。


 この季節は神学校を卒業したての若者が研修に来ている。

 “若い”というよりは“幼い”という印象を受ける少年少女たちは、熱意に溢れている。

 「じゃあ、知ってること全部吐いてもらいますね」とにこやかに拷問する様は、まるで数年前の彼自身の映し鏡だった。


 ほんのいっとき足を止め、若者の奮闘ぶりに目を細めた。

 そのうち何人かは眠たそうにしている。 

 この時間だと、若き聖職者たちは第二交代班のはず。慣れない深夜作業で疲れているようだ。


 中庭にそそり立つ大木は“真実の木”だ。

 樹幹にすがりつくようにしている一人の信徒は、今まさに拷問を受けている最中だ。


 その女性は上半身が裸だった。

 まだ齢若い様子なのに、まるで老人のようによちよちとぎこちなく歩いていた。

 片手で下腹部を押さえ――はらわたを引きずって。

 かき出された彼女の腸の一端は、釘で木に打ちつけられている。


 神学生の頃に暗記した内容を、シグリクはかろうじて思い出すことができた。

 H488CN9066(聖歴488年シオン神学教書覚書9066号)、「その者立ち木を一周できねば、悪魔に魂を売り渡しているであろう」

 一歩ずつ、自ら腸を引きずり出しつつ木を一周できれば、めでたく身の潔白を証明したことになる。


 潔白だろうがそうでなかろうが、いずれにせよこの拷問の被験者はほどなく魂を天に返却するわけだが。


 嘆かわしいことに、身の潔白を証明できる者は稀だ。シグリクが若い頃も稀だったし、血肉を吸って盛んに成長し続ける“真実の木”は、年々ハードルを上げている。

 しかも木の根元は血糊で滑りやすい。


 ついに膝がいうことをきかなくなった若い女は、その場にうずくまってしまった。

 そして、地面についた両手の間に垂れ下がった、自分の腸の上に嘔吐した。


 「進め!」

 まだ年齢14、5の少年は、両手で握った槍で女を脅す。

 少年が滑稽なほど前かがみなのは、直立するには少々障りがある状況になっているからだろう。


 シグリクは同情した。

 彼も同じだったことを、ふと思い出したからだ。


 「シグリク様?」


 聖兵が促す。


 「ん、ああ。急ごう」


 シグリクが司教座聖堂に着く直前、天井まで届く重厚な扉がベストなタイミングでゆっくりと開いた。

 歩みの速度を一切ゆるめることなく、シグリクはスムーズに室内に入った。


 さすがは司教座、よい使用人を使っている。


 扉の内側で“恵みの洗礼”が頭髪と肩に降り積もった。

 高い天井の聖堂は、視界が悪くなるほどに降り注ぐ大量の米粉で、真っ白に霞んでいる。


 ここでくしゃみをするのは礼儀に反する。

 口を使って浅く呼吸をすれば、くしゃみを抑えるのは意外と簡単だ。

 聖職者は誰でも、神学生の頃からこの技術に習熟している。


 床に柔らかく積もった米粉が、ブーツの足音を消す。

 あらゆる物音があいまいにぼやけて、まるで粉雪の舞う霧深い森に迷い込んだような錯覚を覚えた。


 やがて司教座が輪郭となって浮かび上がった。

 入口から司教座までの実際の距離は、シグリクにもわからない。

 毎回のことだが、歩数から計算できる距離よりも、ずっと長く感じた。

 米粉のカーテンが神秘の雰囲気を醸し出すことで、自然の感覚を狂わせているからだ。


 シグリクは司教の前にひざまずいた。

 「お呼びでしょうか、司教」


 司教はチョコディップバーをレロレロなめながら丁寧に会釈した。

 「んっ、来たかシグリク。夜分遅くに呼び出してすまぬのうレロッ」


 「とんでもございません。教会に全てを捧げるのがテンプルナイツの務めであり、喜びでありますゆえ」


 司教は「ホッホ」と小さく笑った。

 「一つどうだ、お前も。ノンカロリーじゃぞレロッ」

 そう言うと、司教は食べかけのチョコディップバーをシグリクに差し出した。

 ヨダレまみれの茶色い雫が先っぽから糸を引いて落ちた。


 使用人がさっと司教に近づいて、新しい菓子が山盛りになった皿をうやうやしく差し出す。


 シグリクは甘いものが割と好きだったが、もちろん司教の申し出を受け入れるわけにはいかない。

 決して食べかけが汚いからではない。断るものと決まっているからだ。


 「日々恩寵を頂いております。これ以上は――」とシグリクは固辞した。


 この小さなやりとりにも、聖職者が神の恩寵を司ることの暗示、メタファーが含まれている。

 つまりこれは一種の儀式なのだ。


 司教はチョコディップバーを口にくわえなおすと、大柄な体を前に乗り出した。

 「実はの、聖遺物ジュワユーズが見つかったようじゃレロッ」


 「ついに見つかりましたか。どの階層にあったのでしょう」


 「それがな――」

 チョコでべたついたアゴを絹布で拭こうとする使用人を、司教は手でさがらせた。


 「われらの探索隊が発見したのではないのじゃレロッ。告発者の言によると、D街区の宿にあるそうじゃ」


 「では、何者かがダンジョンから回収したのですね」


 「うむ。それがな、ユニティ家の一人娘のやつが見つけたらしくてなレロッ」


 「あの女が? なるほど、それで合点がいきました。そのユニティ家の娘、今日の昼A街区で目撃しました。ダンジョンを攻略した後だったわけですな」


 「どうもそのようじゃレロッ。ダンジョン・ギルドの支配人からも裏をとった。確かに件の剣を持っていたようじゃな」


 本来なら教会の聖遺物が発見されたのだから朗報のはずだが、司教の顔に喜びの色はなかった。


 「ルウィンの死について、何か感づいた可能性は――」


 司教は次のチョコディップバーを手に取り、それを左右に振った。

 「わからん。ルウィンの死体をダンジョンのどこか深奥部で発見したのだとしても、奴の死の真相まではわかるまい。しかし――」


 シグリクはあとを引きついた。

 「始末すべきでしょう」


 「うむ、自儘にせよレロレロ」

 司教はいつものように、否定とも肯定ともとれぬ言い回しで明言を避けた。


 「ハル・オークス捜索は後回しでよかろう。聖遺物が奴の手に渡ることのないよう手を打て。奴のことだ、既に嗅ぎつけておるやもしれぬ」


 「承知しました。奴がユニティ家に現れたならむしろ好都合、我が機甲鎧オライオンの刀の錆にしてくれましょう」


 「期待しておるぞ。先日発掘したアトリビュートも携えてゆくがよい」


 「ケージですね。あれなら奴も――」


 司教はうなずいた。


 「ユニティ家の娘は、既に今夜のうちに父親のところに向かったようだ。そなたも行けレロッ」


 「はっ」


 シグリクは駆け足で司教座聖堂を出て行った。


 扉が閉まると同時に米粉の雪が止んだ。

 聖堂の壁が音もなく開き、大勢の使用人が箒を手に現れた。

 床に散った米粉がみるみるうちに片付いてゆく。


 桜の木を粉砕した粉がきれいになった床にまかれて、再び箒ではき清められた。

 聖堂に桜の木の香りが満ちる。


 どこからか風が吹いた。

 すると唐突に、司教のすぐそばの空間がぱっくりと口を開けた。

 空間の向こうは、七色の輝きがマーブル模様を描いている。

 

 「シキョー」


 裂け目から声が漏れた。

 女の声だった。


 裂け目を直視すると正気を失うことを知っていた司教は、視線を向けずに耳だけを傾けた。


 「あの娘ぇ、教会から出ますよぉ。このまま帰してよいのかしらぁ?」 

 司教は動物のようにチョコディップバーを激しくなめた。

 「レロッ! レロッ!」

 

 「ああん、なめなめ激しすぎぃ。マジ排卵しちゃいそ」


 「レロレロレロレォッ!」


 「ふやぁぁぁぁんん、恐ろしいほどの舌使いぃ。はふーはふー、さすが司教、おそろしいお方ぁ。あたしたちアーティファクトをここまで狂わせるなんてぇ。わかりましたよぉ、あの子はまだ泳がせておくのですねー」


 謎のやりとりをする司教と“声”。


 その様子を立ち止まって見聞きしようとする使用人など皆無だ。

 司教の周りで起きる怪異など、日常的なことだからだ。

 それに実際のところ、見られたとしても問題はない。

 不測の事態を避けるために、教会の使用人は全員、30日ごとに始末されるからだ。


 「レロォ」

 司教が再びチョコディップバーを激しくしゃぶりはじめた。


 “声”が不意をつかれて艶めかしい喘ぎをもらした。

 「んあっ、さとった、完全に悟りましたぁっ。シグリクの後を追うのですね? で、とりあえずテンプルナイツに暴れさせ、あたしらが確実に奴を仕留めるのですね。クロスウィンド了解ですぅ」


 時空の裂け目はすうっと閉じた。


 司教は柔和な微笑みを絶やすことなく、黒々としたバーを舐め続けていた。

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