この世にタダのものなどない
エリスは俺のパーカーを羽織っていた。
パーカーはこの世界の標準的な衣服に最も似ている。
丈が若干不足気味だが、エリスにはサイズが大きいせいもあって遠目にはさほどおかしくは見えなくなった。
鬼軍曹ハートマン氏は階段の木が軋む音で俺たちが降りてくることを承知していたらしい。
一階のあるドアの奥から彼が手招きしていた。
エリスは黙って手招きに応じた。
ドアの視線の高さには『養民歓迎・敬語不要』と、ブドウの房や蔓をあしらったアール・ヌーヴォー調の飾り文字で記されていた。
何度も塗りなおしているらしいドアと木枠は、かさぶた然とした塗料の強度に支えられている恐れがあるほどの老朽っぷりだった。
鬼軍曹が招いた部屋は、どうやら食堂と酒場が一緒になったような場所らしかった。
濃密な煙草の煙が雲海のように層になっている。
ただの泊り客なのか、はたまた凶悪な企みの相談をする犯罪者なのかわからないが、薄青い発光藻の灯りが十分届かない暗がりで、大勢が隠れ潜むように飲み食いしていた。
「よう、飲みに来たんだろ。フェアボーテン、バドロン、ロッカ、有名酒精ギルドの銘柄は押さえてるぜ」
「いいえ、衣服を買いに。取り置きはありますか?」
鬼軍曹が両手を広げた。幅2メートルはありそうだ。
「もちろんあるぜ。衣服ギルドの営業がうるさくてな、間貸ししてるんだ。奥の戸棚に来てくれ」
奥に進むにつれて、驚くほど大勢の人が室内にいるのが見て取れた。
みな、暗がりに溶け込みたいと願っているのか、暗色の服を着ていた。
手入れされていない髪、油じみた顔からして、養民階級なのだろう。
どう見てもお上品な連中ではない。
横目でこちらを観察しているのか、やけに白目がちなのが印象に残った。
壁際に小柄な少年たちが目立たぬように控えていた。
服装からして、ここの従業員らしい。
エリスは鬼軍曹を見上げて言った。
「平民用の服の上下を2揃いください。それにこの外套も」
エリスが指さす先には、フロックコートに似た灰色の上着がかけてあった。
俺は思いついた品を横から追加した。
「そうだ、それに下着もありますか?」
「あんたが着るのか? じゃあ平民用でいいな」と鬼軍曹。
――下着も身分で分かれてるのかよ……。本当に残念な世界だな。
エリスがテキパキ注文した衣服は一抱えの量になった。
大丈夫かこれ、高くないか?
だが杞憂だったらしいことがすぐにわかった。
鬼軍曹が太い指を空中で彷徨わせる仕草をみせた。
計算しているらしい。
「えーと、〆て1ソルド4コペイニだ」
エリスは一つうなずいて俺を見た。
ああ、金ね。
銅色のソルド硬貨と、それより一回り小さなコペイニ硬貨を手渡した。
そのときふと疑問に思った。
――1ソルドが日本円で1200円くらいだったよな。1コペイニが100円。
1ソルド4コペイニは?
暗算の答え。
1600円相当。
どっさり買った服に視線を落とした。
こんだけあって1600円?
ユニ○ロだって1万円はするだろこれ。
なんでこんな安いんだ?
驚くことはもっとあった。
無数の人が使ったせいで光沢を帯びた木のテーブルに腰を下ろした俺たちは、食べ物を注文した。
メニューは壁に貼り付けてある。
『ヤミツキ肉の塩包み焼き 1ソルド11コペイニ』
微妙に2ソルトより安い料理から、
『フラッシュソイ 1コペイニ』
まで20種類ほど。
1コペイニとはまた安い。
隣に座った客が偶然にもフラッシュソイとやらを頼んだ。
壁際に並んだ少年たちは給仕だったようだ。
注文を記憶すると、彼らは駆け足で厨房に消えた。
おそらく一分と経たずに出てきた料理は、皿一杯の湯気が立ちのぼる豆の山だった。ケチャップのようなものがぞんざいにふりかけてある。
見るからにまずそうだった。
まあ、それでも1コペイニというお値段ならばコスパは良好といえる。
そのうえどの料理を頼んだとしても、基本的にドリンクつきのようだ。
俺たちのテーブルにも、ドリンクバーのコップのようなものが置かれた。
アルコール以外は飲み放題らしい。
エリスは『香味揚げパン(チーズつき)』を頼んだ。
どういうものかわからないが、俺もウェイターに同じものを頼んだ。
料理が出てくるのを待つあいだ、沈黙を破って俺はエリスに当たり障りのない話題を振ってみた。
「エリス、お腹すいたね」
どこまでもあたりさわりのないネタである。
むしろ話す価値もないくらいの話題だ。
ところがエリスは顔色を変えた。
声を低めて言う。
「こんなところでいかがわしい真似はやめてください」
え、なにがイカガワシイの?
まさか声をかけただけで性犯罪者扱いですか?
きょとんとした俺に、エリスは顔を近づけ、抑揚の乏しい声でささやいた。
「212B423と呼んでください」
完全に怒ってるよエリス。
うーん、嫌われたくないんだけどなあ。
そういえば、氏名を持つことが実質的に禁じられている――キムがそう説明していたけど。そんなに厳しいタブーだったのか?
「エリスでいいじゃん。誰も聞いてないよ」
「だから止めて、ヴスジーマ……あっ」
発せられた言葉を押し戻そうとするかのように、口元を押さえるエリス。
「供給番号を使うのが当たり前でしょう。あなたの番号も教えてください」
「俺はないんだよ」
「ないって?」とエリスは首をかしげる。
「俺の番号、まだないんだ」
「まさか。ではどうやって今まで食べてきたんですか?」
そんなに驚くことなのか。
俺は頭をポリポリと掻いた。
「それが一言で説明できないんだよ。いや、本当なんだよ?」
エリスは疑わしそうに目を細めている。
「にしてもさあ」
俺は隣の客がガツガツ食べていフラッシュソイという料理を親指で示した。
「ここの料理ってずいぶん安くね? たった1コペイニでしょ」
エリスは不思議そうに言う。
「別に普通だと思いますけど」
「そうかな」
「どこでも同じじゃないですか。フレーバーギルドがマニュギアーで召喚して、それぞれのデリが運ぶ」
待て。召喚ってなんだ?
エリスは眉をひそめた。
「召喚は召喚です」
エリスは目だけで周囲を油断なく探り、普通の声量で「神より盗みて生きる罪深き我らを許したまえ」と聞こえよがしに唱えた。
保身のために仕方なく唱えているのが丸わかりだ。
「実は俺、この世界のこと何も知らないんだ。教えてくれないか? いいでしょ、メシ奢るからさ」
「奢る? まさかこれ、キム様のお金ではないのですか?」
「俺の金だよ」
正確にはダンジョンから掠め取ったマネーだけどな。
エリスは気まずそうに表情を変えた。
「なぜです? わたしのような養民にお金を使うなんて」
どうやら、犬が仔猫を産むなんて――並みにアンビリバボーなご様子。
目を丸くしている。
「ごめん気にしないでいいよ。ほら、安いしさ」
恩着せがましいこと言っちゃったかな。
心配する俺に対して、エリスは頑なな態度を一瞬だけ解いた。
「あり……がとう」と戸惑いがちに感謝を示した。
シャキリと背すじを伸ばし、エリスは椅子に深く座りなおした。
「奢られたのでは断れません。質問してください」




