ありがとう
イリュージョン・パウダーが空気に運ばれて、わずかに芳香を感じた。
身構えて数瞬。
何も起きないのを意外に思った。
あ、でも胸が締め付けられるような――不思議と懐かしく、切ない感情をそこはかとなく感るな。
と、思ったときには、その気持ちを感じた場所と時間に、俺は戻っていた。
中学の制服、手には学生鞄。
頬を刺すような冷たい風が、今は冬だと教えてくれた。
唐突に悟った。
――そうだ、今日はバレンタインデーじゃん。
ここは通学路、あともう少しで自宅だ。
家に帰ったらチョコをもらえるとわかっていた。
毎年のことなのだが、母さんが用意してくれているはずだった。
……もちろん学校の女子からもらえるはずもないですがなにか?
そんなこと分かりきっていたけど、ごくごく淡い期待はしていた。
風の噂によると、中学生にもなると、チョコをもらうばかりか、あまつさえ女子の方から告白される男子さえいるという。
どこの異世界の話かとも思うが、どうやら割と現実の話らしい。
僕は怒りのあまり両手の拳をプルプルさせて断罪した。
――とんでもないことです。とんでもないことですよ、それは。
それはいわば、男が異性にチョコという食料を供給させたうえに不純異性交遊まで強要する、おそるべき悪の所業。
キィィ! 自由恋愛ですって?
現代の若者の軽佻浮薄な風潮、断じて許すまじ。
――おや?
電柱の影にスカートがひるがえるのが見えた。
誰かいるのか?
黒縁のしゃれっ気のない眼鏡が、電柱の影からのぞいていた。
あの子は――隣のクラスのNさんじゃんか!
いやまさか。
僕に用があって、あそこで待ってたりして。
オウフ。
だっさださの眼鏡と長い髪、そして飾り気のない態度。
あかぬけないところがあるけど、真面目で優しいNさんのことが、僕は好きだった。
清楚でいて、好きになった異性には一途なところがありつつも、時には大胆――そんな人物像を勝手に描いたりしていた。
下手にオシャレづいている、かわいいと評判の子よりも、Nさんは100倍は好感が持てた。
僕は気づかないふりを貫き、そのまま歩いた。
少しずつ電柱が近づくにつれて、心臓の高鳴りも激しさを増す。
間違いない。
Nさんは片手に小さな紙袋を持っていた。
そのシックな色あいの薄っぺらな紙袋は……間違いなく値が張るカカオマス加工食品を収めている!
値が張るということは、即ちそれ本命。
緊張のあまり、足がもつれて転びそうになった。
歩きながら、なぜか右手と右足が同時に出ているのに気づいた。
必死に手足を正常に動かし、冷静をとりつくろう。
Nさんが電柱から姿を現した。
チョコの袋をスカートの前に提げて、恥かしそうに地面に視線を泳がせていた。
僕は気も失わんばかりだ。
「ど、どどどどうし、どうしたにょ?」
こんな言葉を紡ぎ出すくらいならば、舌を噛み切って死んだ方がなんぼかマシ――というほどに激しく噛んだ。
動揺を抑え、我ながら不自然極まりないとわかる、硬い微笑みを浮かべた。
そして、チョコを受け取った後の感謝の言葉――「ありがとう」の5文字だけは、死んでも噛まないぞ、噛みませんように、と心の底から祈った。
彼女はこう言った。
「あの、あなたは3組の人ですよね。家このへん? ちょっと聞きたいんだけど、3組の山田君の家ってどこか知らない?」
「あっ、ありがとうっ」
うああああああああああああああああ!
我に返った。
ここは日本でもなければ、俺は14歳でもない。
底冷えがするダンジョンの中だった。
リアルでも悲鳴をあげていたらしい。
包囲を狭めていたモンスターたちが、怯んだのかいくぶん後退していた。
せっかく20年かけてほとんど忘れかけていたのに、こんなときに思い出すなんて最悪だった。
イリュージョンパウダーこえーよ。
そのとき、モンスターたちの間に緊張が走った。
同じ様子を何度も見たことがある。
これは――侵入警報だ。
ダンジョンに侵入者が現れたんだ。
後ろ髪を引かれているのか、何度も俺を振り返りつつ、モンスターは俺から去っていった。
ダンジョンの強制力のおかげで助かった。
俺にも蜜の影響力がまだ少し残っているのか、モンスターを突き動かす暗示の誘引力をかすかに感じることができた。
ダンジョン中央部寄り、霊安室付近に急いで駆けつけなければならない気がする。
おそらく、霊安室近辺のダンジョン表方に、一階から侵入者が降りてきたのだろう。
とにかく、これはチャンスだ。
忍び足で立ち去ろうとした俺は、数十体のワーカーがまだ取り囲んでいるのを見て取った。
ん、そうか。ワーカーはダンジョンの暗示が優先しないのか。
まだまだ絶体絶命らしかった。
どこかに逃げられないか。どこか、どこか……。
救いを求めて視線を走らせる途中、数メートル離れたところに大きな赤い矢印が見えた気がした。
プレートがイメージを表示している。
ご親切にもダンジョンが道案内してくれているのだった。
この矢印は侵入警報と連動していて、ダンジョンの表方との最寄りの連絡口を示す。
ここから脱出すれば、ダンジョンを攻略している勇者様か冒険者かわからないが、とにかく人間に救いを求められる。
かもしれない。
ワーカーに切り刻まれて挽肉になりたくなければ、このチャンスに賭けるしかない。
俺は座った状態から、そのまま足の力で立ち上がった。
肥満体の頃なら、膝を痛めかねない愚行だが、今では余裕だ。
プレートまでは目測で5メートル程度。イシキリを槍のように構えて突進した。
正面のワーカーにイシキリが突き刺さる。
刺したまま、力任せにもう一体のワーカーを弾き飛ばした。
重みを増したイシキリのせいで、腕の関節が痛んだ。
横なぎに振ると、急に軽くなった。ワーカーが刃から離れたのだ。
壁と俺との間に立ちふさがった最後のワーカーは、ジャンプしてかかとで踏みつけた。
気味の悪い感触が足裏に走った。
一拍おいて、ワーカーの胴と首の接合部から透明な蜜と赤黒い液体の混合物が噴出する。
もうプレートは目の前だ。
両手は剣とたいまつでふさがっている。
しかし、体ならどこで触れても同じ。手で触れなければならないわけではない。
とっさに頬をプレートに押しつけた。
タッチダウンだ。
『連絡口
解放可能
←ON/OFF→』
迷わずONにする。
石がふっと消えた。
たたらを踏んで、裏方とそっくりな通路に出た。
数十センチの厚みを挟んで、裏方と表方は隣接していた。
気配を感じて振り向くと、ワーカー数体が俺めがけて近寄ってきた。
足を広げた巨大なタラバガニにのごとく、俺の顔めがけて飛来するワーカー。
その口元に尖った金属がきらめいた。
裏方のプレートのちょうど反対側に、同じようなプレートがあった。
青色の矢印が浮かんでいる。
これもダンジョン自らがが安全な退避口の存在をモンスターに教えるために表示しているのだろう。
――そうか、表方にもプレートがあるんだ。
そこに腕を押し当て、『OFF!!』と念じた。
連絡口がふっと黒く変色し、ざらついた石肌が再出現した。
直後、ゴヅンとかすかな振動が腕を伝った。
これだけの厚さの石を震わす衝撃にぞっとした。
本当に紙一重だった。
せっかく改心してヒキコモリを止めようと決意したとたん、一斉に困難が襲ってきてないか?
そのとき、背後でなにか物音が聞こえた気がして、さっと振り向いた。
誰もいない。
表方の通路は薄暗く不気味で、裏方に比べると荒廃した印象を受ける。
俺はリュックのサイドポケットからマジックインキを引っ張り出した。
そして、正方形のプレートの上に、
ココ↓
と記した。
また戻ってくることがあるかもしれない。
モンスターの出没するダンジョンで、ただえさえ見分けにくいプレートを探して歩くのは難しいだろう。
しるしをつけるのは理にかなった行為だった。
このときはそこまで考えたわけではなかったが、自分の用心深い性格が自然にそうさせた。
ダンジョン内での経験から、本能が慎重な行動を命じるときには、後になってから自分でも感心するほど立派な理由があることが多いと知っていた。
さすが俺というべきか。
ん、足音?
ガシャガシャと鎧を鳴らすような物音が、どこか遠くを移動していた。
冒険者がモンスターと戦っているのかな?
よくある中世西洋風世界観では、アーマープレートのような防具の存在はデフォルト設定だ。
剣と鎧、戦争と恋愛。
ふふ、ついに俺の異世界冒険譚がはじまったか。
この危険な状況にあって、自分が希望を覚えることができることを、意外に思った。
はっと我にかえる。
おっと、ファーストコンタクト大事。平和超大事。
何事も最初が肝心ですぞ。
異世界での本当の第一歩がはじまろうとしているんだからスマイルスマイル。
マイナススタートは避けたいところだ。
と、そこで重要なことが明らかになった。
……って、俺裸じゃん。キノコフェイクじゃん。
やべえ、手遅れになる前に気づいてよかっ――。
白い閃光がいきなり通路の奥を照らした。
溢れる光の中に、何体かのキノコが影絵のように一瞬浮かび上がってから飲み込まれた。
ドゴォフ。
耳の奥が痛んだ。
身を切り刻むような爆風が過ぎった直後、熱い肉片が体じゅうにぶつかる。
粉々になったモンスターの一部だった。
薄く目を開けて見た。
通路はまるで、元の世界の高速道路のトンネルのように、オレンジ色に染められている。
燃え盛る炎が灯りになっているのだ。
ゆらめく熱気の奥に人影が見えた気がした。
ドゴゥワァ!
また閃光が走り、こんどは石つぶてが体に当たった。
おいおい、石が砕けたのか?
表方の戦いってのはこんなに激しいものだったんだな。
いや、霊安室に運ばれる死体は切り傷や焼け焦げはあっても、粉々にはなってなかった。今日の侵入者は、ひょっとすると、いつもより強い敵なんじゃねーか?
戦いは徐々に近づいているように思えた。
次々と起こる爆発と爆風。
モンスターたちはひとたまりもなく死んでゆく。
俺の間近に連絡口が開き、10体以上の芋虫とキノコの混成部隊が表に吐き出された。
新手のモンスターたちは、ひっそり背後から見つめる俺には全く気づかず、イリュージョンパウダーをせっせと放出しはじめた。
美しいきらめきが傘の縁を彩るのがはっきり見えた。
しかし、キノコ渾身の攻撃は無駄だった。
侵入者は圧倒的な火力でパウダーを空気ごと焼き尽くした。
侵入者の懸絶した力を向こうに回して、モンスターたちはまるで勝負になっていなかった。
これほどの威力、これほどの戦力。
侵入者は魔法使いか、それとも神意を司る神官か。
想像は膨らむ。
もしかして、必然性皆無のビキニアーマーで要所を覆っているだけのセクシー美女軍団だったりして。デュフフw。
爆発音――というか、もはや音というよりも空気の壁みたいなものが全身を叩く。
侵入者はもう間近に迫っている。
―ーあれ、でも何か重要なことを忘れているような……。
いきなり近くの石壁にまばゆい閃光が走った。
ひび割れに光の筋が走り、次の瞬間には通路の四つ角が粉々になった。
体が宙に浮いたのがわかった。
それと同時に大きな石材の塊が目の前に迫り――なにもわからなくなった。




