16-5
ある港町の魚のスープの匂いが立ち込める薄暗い酒場で、数人の男が頭を突き合わせて何やら話し込んでいた。
入り口の戸は開け放され、そこだけ白く眩しかった。
既に昼飯の時間は過ぎており人はまばらだ。
男達は長細いテーブルの隅の一角に陣取り、テーブルに肘をついたり壁に寄りかかったり、様々な格好で中心に座る大柄な男の話に耳を傾けている。
「……これでおしまいだ」
最後に一言そう言って口を噤んだ男に物足りなさそうな眼差しが向けられた。
ずっと知りたかった物語の結末を聞いて満足な筈なのだが何か釈然としない。
「でも、船長」
船長と呼びかけられた男はくすぐったそうな顔をした。
「その何とかって奴らは何故こんなにあんたを憎んでいたんだ? 」
「子供の頃の喧嘩が原因でこんな歳になって復讐されるなんて、船長はいったい何をやらかしたんですか? 」
「やっぱ女ですか? 」
にやにやしながら紺色の帽子を被った男が尋ねた。
「まあな。昔のことだ」
「そこまで話したんだから最後まで話してくださいよ」
「そうだ、そうだ。俺達にもちゃんと説明してくださいよ」
「トリポルト陸軍兵学校の連中は皆知っているんでしょう? 」
「俺達だって当事者なのに、信頼してもらえてないんですかね」
問い詰められた男は溜息を吐いて肩を竦めた。
「仕方ないな。奴らも当然の報いを受けた訳だし、もう思い出したくはなかったのだが……あれは海軍兵学校に入って7年ぐらい経った頃だったか。夏の休暇に珍しく俺が家に戻っていた時のことだ。学校で窮屈な思いをしていた俺は鬱憤を晴らすように幼馴染の少年達を引き連れて悪戯ばかりやってたんだ」
「ガキ大将の船長が目に浮かびますよ」
「しーっ」
「ある日、村の外れの林を歩いていると女の悲鳴が聞こえてきて俺達はそちらに向って走って行った。別に助けようとかそんな偉そうなことは思っちゃいなかった。何もない日常が退屈で何か面白い事件はないかと思ってたのさ」
男は素焼きのジョッキに入ったビールで喉を潤した。
「それで? 」
「俺んちの隣の領地に俺と大して歳の違わぬ双子が住んでいてな。そのうちの一人が処刑されたフェリックス・ド・ラ・クールだったんだが。子供の時から弱い者虐めが好きな卑怯なやつらだったんだ。その時は駆けつけてみると丁度やつらが村の娘を捕まえて服を捲り上げて悪さをしようとする所だった。二人の首根っこを捕まえてどかせて見ると、下敷きになっていたのはまだ胸も膨らんでいないような子供じゃないか。殴られたのか鼻血を出していて涙と血と鼻水でぐしゃぐしゃの酷い顔だった。どうしてやろうと思った時に林に迷い込んだ羊が2頭ばかり暢気に草を食べながら近付いて来たんだ」
ジョッキに残ったビールを一息に飲み干すと男は口元を袖で拭った。
「それで言ってやったのさ。今すぐ女にやろうとしたことを俺達の目の前でこの羊とやれって」
見回すと周りの者達は引き攣ったような顔をしている。
「……それで、やったんですか? 」
正面に座った男が恐る恐る尋ねた。
「俺が短剣を突きつけて、すぐにやんなきゃ、みじんこみたいなお前らの一物をちょん切ってやるって脅したからな」
その場面を想像してでもいるのだろう。
話を聞いていた男達は大げさに顔を顰めて悲鳴を上げた。
「そりゃあ、恨まれても仕方ないですよ」
「そうだろうな。やつらは屑だったが俺もやつらと大差なかった」
「その羊達も災難でしたね」
「あーあ、これから羊肉の串焼きを食べる時にはこの話を思い出してしまいますよ」
軽口を叩きながら船乗り達は、子供の頃の争いが原因で一生を棒に振りそうになった男と、その男を恨み復讐の為だけに生きた男達のことを思った。
もしもその時、辱める代わりに双子を戒め正しい道を教えてやった者がいたらどうなっていただろうか?
悪人は生まれた時から悪人なのか?
それとも悪い偶然が重なって徐々に悪に染まっていくのだろうか?
今となっては分からないが、幸いなことに船長は天に見放されなかったのだろう。
「でも、奥さんのこと。ほんっとに良かったですね!! 」
部下の言葉に男は真面目な顔で頷いた。
「だから、もう人に恨まれるようなことは絶対にしないと決めた。家族を危険な目に遭わせたくないからな。まあ仕事柄、偶々恨みを買っちまうことは避けられないだろうがな」
男はまるで恋人のように膝の上に乗せた楽器を爪弾いていた。
港から少し離れた丘の上には海事裁判所の立派な建物がある。
男は連れの者が用事を済ませている間、背負っていたリュートを下ろして建物の裏に周り涼しそうな場所を見つけると海の方を向いて腰を下ろしたのだった。
同じ節を何度も繰り返して弾いたかと思うと考え込んでぶつぶつ独り言を言っている。
暇潰しに歌おうよ
美しい娘の過去の恋
娘は水夫のなりをして
船に乗り込み職を得た
「ここまでは本当の話と一緒だからいいんだ。ここからが問題だ」
航洋船の船長は相手にまったく気付かず
空を眺めて溜息吐いた
「いや、ここは景色を眺めての方が良くないか? 溜息ってのもちょっとなあ 」
景色を眺めて涙する
海も空も黄金色に輝く太陽も
優しげな顔や金の巻き毛、たおやかな姿
あの人を思い出させるのだ
海に流した愛しい人を
「いいぞ、いいぞ! 」
興奮したように絃から放した右手でパシンと膝を打った。
三日月のようにしゃくれた顎をした男は帽子を脱ぐと額の汗をシャツの袖で拭った。
この分だったら明後日の出港に間に合いそうだ。
次の章は後で考えるとして……
彼らはそのようにして二年間暮らした
異なる空の下、心は相手を求めて
彼らはそのようにして二年間暮らした
天が再び二人を引き合わすまで
確かに二年の方が現実味があるよなあ。
七年間も相手を想い続けるなんて信じられないとアレンが文句言っていたが、あのまま七年も経っていたら船長は病気になってしまっただろうし、奥さんだって誰か別の……
いや、あの人は違うだろう。
男は澄んだ瞳と優しい笑顔を思い浮かべた。
あの天使のような人は多分一生心変わりなどすることはないだろうな。
もう今は分かっているだろうが、うちの船長は本当に幸福者だよ。
ラテディム海の西部、タルヘブ海峡付近にあるスチュヌアの港では、出発を控えた船が準備を進めていた。
頭を布で包んだ男達が波止場から船へと続く細い板の上を次から次へと大きな樽を転がして上っていく。
数日前からの晴天で数多くあった水溜りも干し上がり、石畳に埃を巻き上げて荷馬車が次々と荷物を運んでくる。
出港は明日の朝を予定している。
半年近くかかる船旅には到着するまでの食料や水を積むことは不可能だが、全ての船を合わせれば乗組員は二百人以上いるのだ。
驚く程の数の樽や麻袋が荷積みされていく。
そこには会計係とその助手以外の乗組員の姿はない。
船乗り達は馴染みの女に会いに行ったり買い物をしたり、この港でしか味わえない南国の酒をたらふく飲んだり、それぞれ忙しいのだ。
夕方近くに見回りに来た航海士は問題なく荷積みが終わったことを確認し、満足そうに茜色に染まった空を見上げた。
明日も良い天気だ。
絶好の航海日和となるだろう。
また船長と同じ船に乗ることが叶うなんて思わなかった。
畜生、嬉し過ぎるぞ!!
男は一人笑いをしながら誰もいなくなった波止場を歩いて行く。
向こうに着いたらどうしようか?
新世界で新しい生き方を探すってのもいいかも知れないな。
まあいい、考える時間はたっぷりある。
今は明日の出港のことだけを考えよう。
「お母様、見て! あんなに沢山!! 」
幼い子供が纏わりついているのは白い頭巾をぴっちりと被った小柄な女性だ。
地味だが傍目にも仕立てのよさが分かる服に身を包んでいる。
子は4歳ぐらいだろうか?
黒い巻き毛に明るいハシバミ色の瞳、薔薇色の頬の元気な男の子だ。
ぴょんぴょん飛び跳ねながら指差しているのは船の周りを飛び交っている鴎だ。
船に餌があるとでも思っているのか鳴き声が騒がしい。
「ヴァル、お昼寝の時間よ。エヴ、一緒に行ってあげて頂戴」
エヴと呼ばれた女の子は、弟よりも頭ひとつ分背が高く、母親とそっくりの大きな青い瞳とブロンドの巻き毛が愛らしい。
「でもお母様、マリシアの岬が見えなくなるまでここにいちゃ駄目? 」
「そうね。今度いつ見ることができるかわからないものね」
ゴンヴァルは手を叩いてはしゃいだ。
「じゃあ、お父様の所に行ってもいい? 」
「駄目よ。お父様は今お仕事しているんだから。後で船室に来てくださるわ」
子供が海に落ちたりすることのないように母親は甲板では船尾楼から出ることを禁じていた。
三人は手摺りに寄りかかりこの距離だと明るい緑色に見える岬をじっと見つめていた。
子供達は単に自分達の暮していた陸が海から見えることが嬉しいのだったが、母親の方は少々感傷的な気分になっていた。
まるで自分の一部を切り取られたような気がする。
小さな港町の墓地に並んでいる苔の生した古い墓石が頭に浮かんだ。
いつになったらまたこの古く懐かしい大陸の土を踏むことができるのだろうか?
段々遠ざかる岬を見つめながら背筋を真っ直ぐに伸ばし口元を引き締める。
何心細くなっているの?
渋る夫を説得して新大陸行きを決めさせたのは私じゃないの。
これからわくわくするような素晴らしい冒険が待っているのだ。
ここには私の愛する全てがある。
後ろの方でワッと歓声が沸き起こり親子は振り返った。
船乗り達の中で一際背の高い男が良く通る声で号令をかけ皆は速やかに持ち場についた。
体全体を使って縄を引く男達の中から歌声が上がる。
よく知っている節だが大分歌詞が違うようだ。
広げられた帆が大きく風を孕み、船は速度を上げて陸から遠ざかって行く。
――――――― 白い飛沫を上げながら波を掻き分けて進む帆船。
雲ひとつない青い空がそのまま映ったような青い青い海 ――――――――――――――――――――――
暇潰しに歌おうよ
美しい娘の過去の恋
娘は水夫のなりをして
船に乗り込み職を得た
航洋船の船長は相手にまったく気付かず
景色を眺めて涙する
海も空も黄金色に輝く太陽も
優しげな顔や金の巻き毛、たおやかな姿
あの人を思い出させるのだ
海に流した愛しい人を
陸に上がった娘は決心した
山を越え谷を越え
いつか恋人の許に帰る
あらゆる障害を乗り越え
勇気ある娘は歩いて行く
後悔に押し潰され甲板に佇む男を想って
彼らはそのようにして二年間暮らした
異なる空の下、心は相手を求めて
彼らはそのようにして二年間暮らした
天が再び二人を引き合わすまで
航洋船の船長は恋人の前に跪き
涙を流して許しを請うた
娘は微笑みながら頷いた
もう一度、今度は
死が二人を引き離すその時まで
これは甲板員のティムが作った歌
勇気ある仲間達よ
さあ、大檣帆を広げよう
キャプスタンに皆集まれ
力を合わせて引け、引け、さあ引くんだ
じゃなけりゃ食事はお預けさ
力を合わせて引け、引け、さあ引くんだ
じゃなけりゃ葡萄酒もお預けさ
FIN




