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お嬢様Saga:ドラゴン肉のポワレ〈焦がしバター〉 狂食淑女の微笑みを添えて  作者: 財務白関
最終章:王女様、Sagaになる

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28話「闇を持つ二つの存在」

その日の夜の私有林は、音という音を失っていた。

月明かりに照らされた空間で、エレオノールは一体の存在と向き合っている。


漆黒のドラゴン。

その巨体は闇そのもののようで、鱗の一枚一枚が月明かりを拒むように光を吸い込んでいた。

そこから溢れ出る気配は冷気ではない。

世界の終わりを思わせる、万物を凍りつかせる闇だった。


一目で分かる。

かつて倒したタラスクとは、比べること自体が意味を持たない。

抗うという発想そのものが、滑稽に思えるほどの隔たりがそこにあった。


エレオノールは小さく息を吸い、言葉を紡ぐ。


「……あのドラゴンは、あなたの子供だったのですわね。あの時、あなたの子供を食べていなければ、あなたと会うこともなかったのでしょう。でも、そうでなければタラスクは倒せなかった。なら、これはもう運命ですわね」


受け入れるしかない。

そう告げる声には、恐怖よりも諦観が滲んでいた。


漆黒のドラゴンは、音を立てながらその黄金の瞳をエレオノールへ向ける。

怒りも憎しみもない。ただ、世界の理としてそこにある視線だった。


「……私を食べないのかしら。そう……殺すだけで良いのですわね」


直後、切迫した声が響いた。


「レア! レア、無事なのか!」


聞き慣れた声が、夜を裂いた。

ギヨームが白毛の愛馬ブランシュに跨り、全速力で駆け寄ってくる。

その背後には、必死にしがみつくリュシールの姿もあった。


「お父様! 来てはいけませんわ!」


ギヨームは白馬を躍らせ、迷いなく漆黒のドラゴンの前に立つ。

同時に、白馬から飛び降りたリュシールが地面に膝をつき、詠唱を始める。


ギヨームは鞍上から腰へ手を伸ばし、〈ゲンエイ〉を抜き放つと、刃を低く構えた。

その瞬間、ドラゴンが明らかに警戒の気配を見せる。


ギヨームは馬腹を軽く蹴り、半歩分だけ前へ進ませた。

鐙に踏みしめた足裏から、馬の体温と大地の鼓動が伝わってくる。

深く息を落とすと、世界が静まり返ったように感じられた。


〈ゲンエイ〉の柄に込めた魔力が、低い震えとなって掌へ返ってくる。

刃が微かに鳴き、夜気が歪む。

ギヨームは鞍の上で重心を沈め、馬と己の力を一点に束ねた。


リュシールは、ギヨームの攻撃に合わせて魔法を放とうとしている。

足元を中心に、夜気が吸い寄せられるように渦を巻き、低い風音が広がっていった。

エレオノールは喉が裂けるほどの声で叫んだ。


「だめ、お父様! リュシール! 逃げて――」


言い終えるより早く、ギヨームは鐙を強く踏み込んだ。

鞍上で身を低く沈め、白馬と完全に一体となる。


白馬が、恐怖と闘志をない交ぜにした嘶きを轟かせ、大地を蹴った。


「『螺旋息吹風(スッフル・スピラル)』!」


巻き起こった竜巻が、漆黒のドラゴンの巨体を包み込む。

風に押され、白と黒、二つの影が一つに溶け合いながら異様な速度で迫る。

ギヨームは刃を限界まで引き絞り、黒い影の懐へと身を投げ込んだ。


〈ゲンエイ〉が、漆黒のドラゴンの前腕へ深々と噛み込む。

硬質な鱗を断ち割る感触が、確かな抵抗として掌に返ってきた。

鈍く濁った火花が散り、金属とも骨ともつかぬ重苦しい衝撃音が夜を打つ。


見れば、ドラゴンの指の一本が破片のように宙を舞っていた。

黒く太い指は空中で一度回転し、ずしり、と――

生き物の一部とは思えぬ質量をもって地面に落ちる。


だが、次の瞬間だった。


ドラゴンの腕が、振るわれた。

怒りでも反射でもない。

ただ、目の前にあった“邪魔なもの”を払う――それだけの動作。


轟音。


衝突という言葉すら生温い暴力が、空間を叩き潰す。


ギヨームの身体は馬上から引き剥がされ、宙へと放り投げられた。

巨木がへし折れるような鈍音が続き、外套が闇の中で力なく翻る。


――人が、ドラゴンに殴り飛ばされた。

その単純な事実が、両者の隔絶をあまりにも明確に刻みつけていた。


地面に叩きつけられた衝撃で、土と枯葉が跳ね上がる。

ギヨームの身体は人形のように転がり、数度跳ね、ようやく静止した。


漆黒のドラゴンは、切断された指先を一瞥しただけで、興味を失ったように視線を戻す。

その瞳に、痛みの色はない。

あるのはただ、底知れぬ闇と、獲物を見下ろす冷たい静寂だけだった。


「お父様!!」


エレオノールは駆け出した。

背後でリュシールも息を詰めたまま追いすがった。


倒れ伏したギヨームの身体の下で、血が瞬く間に広がっていく。

胸元から腹部にかけて抉られたような裂傷から、赤黒い液体が止めどなく溢れ出していた。


呼吸は浅く、断続的だ。

鎧の継ぎ目から滲む血が落ち葉を濡らし、土へと吸い込まれていく。

それでもギヨームは、かすかな気配を辿るように、ゆっくりと瞼を持ち上げた。


「……レア……」


血に濡れた唇が、擦れるように名を紡ぐ。


「お父様、だめ……しゃべらないで……! 今、治します……!」


エレオノールは膝をつき、父の胸に手を押し当てた。

布越しにも伝わる鼓動は弱く、頼りない。

エレオノールは息を吸い込み、両手を重ねて傷口へとかざした。


淡い青白い光が、掌の下に滲み出す。

夜の冷気の中で、そこだけが不自然に揺らめいた。


「……お願い……効いて……!」


だが。


血は止まらない。

裂けた肉は閉じる気配すら見せず、傷口はなおも赤く口を開いたままだ。

――まるで、癒しそのものを拒絶しているかのように。


「どうして……っ!」


息が詰まり、声が震える。

エレオノールは歯を食いしばり、さらに魔力を注ぎ込んだ。

指先が痺れ、腕の奥が焼けるように痛むほどの勢いで力を流し込み、光は一段、強さを増す。


「もう一度……! お願い……! お父様の命を――!」


しかし、結果は変わらなかった。


掌の下で、確かにあった温もりが、少しずつ遠のいていく。

血の匂いだけが、夜気の中で濃く、重く広がっていく。


エレオノールは声を張り上げ、半ば叫ぶように詠唱を継いだ。

時間が、命を削っていく音が――はっきりと聞こえる気がして。


「天に満ち、地に降り注ぐ清き光よ。穢れを祓い、痛みを照らし、失われし血と熱を、あるべき場所へ導け。命の灯を再び燃やし、この身に安らぎと息吹を与えたまえ――『白耀(ゲリゾン・)癒命光(ピュイサント)』!」


しかし、光は傷の縁で弾き散らされた。

癒しの輝きは、肉へ染み込むことなく霧散する。

傷口の奥には、冷たく、粘つく闇が貼りついていた。

回復の力を押し返す、異質な何か。


エレオノールは、はっと顔を上げ、漆黒のドラゴンを見た。

その存在から滲む闇が、ただ周囲を凍らせているだけではないことを理解する。


――侵している。


生き物の内側へ、命の流れそのものへ、ゆっくりと食い込んでくる闇。


「……これが……あなたの……」


言葉は、喉の奥で震え、ほとんど音にならなかった。

怒りと恐怖が、同時に胸を灼き、呼吸を乱す。


エレオノールが視線を戻すと、ギヨームはかすかに瞼を持ち上げていた。

意識はもう、途切れ途切れなのだろう。

血に濡れた唇が、ゆっくりと動く。


「……レア……」


「お父様……! 今、治しますわ! だから……だから、目を閉じないで……!」


縋るように、エレオノールは再び手をかざし、魔力を込めた。

だが、光は傷に届かない。


ギヨームは視線だけを、地面に転がる漆黒の指先へ向ける。


「……あれを……」


息を吸うたび、胸が苦しげに上下する。


「……ドラゴンの……指の肉を……食え……」


「まさか……! そのために……そのために、お父様は……!」


声は掠れ、言葉にならない。

回復魔法の光が、意味を失ったまま弱々しく揺らぎ、消えかける。


ギヨームは、最後の力を振り絞るように、エレオノールを見た。


「……生きろ……」


その言葉を最後に、身体から力が抜ける。

胸の上下が止まり、焦点の合わない視線が虚空を彷徨い――


そして、完全に静止した。

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