27話「最後の晩餐」
ラ・ロシュ家の館に、久しぶりに穏やかな夜が訪れていた。
王都の喧騒から戻ったシャルルが屋敷に帰り、家族四人が同じ食卓を囲める、数少ない夜だった。
厨房では、エレオノールが火台の前に立っている。
指先で火打石を打ち鳴らすと、澄んだ音とともに小さな火花が散り、乾いた薪に小さな炎が宿った。
魔法を用いず、人の手で起こされた炎は、頼りなくも誠実に揺れている。
フライパンに落とされたバターは、ゆっくりと溶け広がり、やがて縁から淡い泡を立ち上らせた。
白から黄金へと色を変えながら、甘く深い香りが生まれ、厨房の空気を満たしていく。
それは強く主張する匂いではないが、一度吸い込めば胸の奥に残る香りだった。
フライパンに置かれたのは、〈ケーヴ〉に残されていた最後のモンスターの肉――ドラゴンの肉。
エレオノールはそれを置く直前、ほんの一瞬だけ手を止める。
祈りとも、別れともつかない沈黙が、そのわずかな間に宿った。
肉が熱に触れると、低く澄んだ音が立つ。
表面が引き締まり、ゆっくりと焼き色が深まっていく。
火は強めず、弱めすぎず、旨味だけを閉じ込めるように保たれていた。
焼き色が整ったところで火を落とし、溶けたバターをスプーンで掬う。
泡立つ黄金色の脂が、何度も肉を撫でるように巡り、そのたびに香りが重なっていった。
バターの甘み。
肉の持つ深い滋味。
そして、言葉にし難い、熱を帯びた余韻。
それは力強さではなく、包み込むような豊かさだった。
まるで、この料理が誰かを満たすためだけに存在しているかのような、静かな優しさ。
エレオノールの所作に迷いはない。
料理を仕上げるというより、ひとつの命を、誰かの時間へと渡しているように見えた。
やがて皿が運ばれ、食卓に《ドラゴン肉のポワレ〈焦がしバター〉》が並ぶ。
派手な装飾はない。
ただ、完璧な焼き色と艶を帯びた表面が、そこにある。
それだけで、この一皿が二度と同じものにはならないと、誰の目にも分かった。
「わあ……すごい匂いだ!」
真っ先に声を上げたのはシャルルだった。
目を輝かせ、椅子に座る姿勢まで前のめりになっている。
「これは……間違いなく傑作だな」
ギヨームも感嘆の息を漏らす。
四人は短い祈りを捧げ、ナイフを入れた。
一口ごとに、感想が自然とこぼれる。
香ばしさ、柔らかさ、口に残る余韻。
シャルルは少し大げさな身振りを交えながら、「今まで食べた中で一番です!」と何度も繰り返した。
エレオノールはその様子を、少しだけ寂しげに、それでいて眩しいものを見るように目を細めて見つめていた。
ギヨームも、アデルも、シャルルも、ただ美味しいものを口にし、自然に笑っている。
やがて話題は、館を離れて暮らすアルマンとリュシールのことへと移っていく。
幸せそうな未来の話に、食卓の空気は和らいでいった。
「向こうの屋敷にも、もう慣れたかしら」
と、アデルが言う。
「お父様が用意してくださった家は、とても使い心地が良いと申しておりましたわ」
エレオノールが答える。
「アルマンも仕事熱心だ。いずれは男爵に引き立ててやらないとな」
「そうね。当家を支える貴族になって欲しいわ」
それは遠い未来の話ではなかった。
特別な決断を要する話でもない。
時間が流れれば、自然とそうなるだろうという前提で語られる、ささやかな将来だった。
ひとしきり話が落ち着き、ギヨームはナイフとフォークを置いた。
皿を見下ろし、短く言う。
「……うまいな」
それだけ言って、もう一口食べる。
「初めてドラゴンを食べたときは、『信じられないくらい美味い』で終わった」
少し間を置き、率直に続けた。
「だが、これは違う。食べていると、自然と周りを見てしまう」
エレオノールは、何も言わずに父を見る。
「理由は分からん。分からんが――誰かと一緒に食べることが前提みたいな味だ」
ギヨームは視線を上げ、娘を見た。
「レア。お前が何を考えているかは、正直、俺には分からん」
そう前置きしてから、低く続ける。
「だがな、こんな料理を作るお前には、ちゃんと生きていて欲しい。美味いものは、生きてこそ味わえるものだ」
エレオノールは真っ直ぐに父を見た。
「ええ、お父様。私は、私が愛した味が誰かの血肉になって、その人を笑顔にし続けるように生き続けたいですわ」
食卓に、穏やかな沈黙が落ちる。
灯は静かに揺れ、皿の上の料理は、ただ美味しくそこにあった。
シャルルは皿に残る肉をしばらく見つめ、声を落とす。
「……でも、これでモンスターの肉は、最後なのですよね?」
問いは責めるものではなく、楽しい時間の終わりを確かめるような響きだった。
「ええ。〈ケーヴ〉に残っていた分で、これが最後ですわ」
シャルルは小さく頷き、フォークを持つ手をきゅっと握る。
「……美味しかったです。だから……少しだけ、寂しいです」
その正直な言葉に、エレオノールは首を横に振らなかった。
悲しみを否定することなく、包み込むように言葉を選ぶ。
「大丈夫ですわ、シャルル。今日の味は、あなたの中に残りますわ。忘れなければ、最後にはなりませんわ」
シャルルはその言葉を噛みしめるように聞き、やがて小さく笑った。
「はい。僕、忘れません」
少ししてから、シャルルが顔を上げる。
「……では、お姉様。次は、いつ食べられますか?」
あまりにも自然な問いだった。
次があることを、疑いもしない声音。
エレオノールは思わず小さく笑い、ゆっくりと頷いた。
「そうですわね。では――次に皆がそろったときに、また作りましょう。今日みたいに、火を起こして、バターを溶かして。家族で食べる料理を」
シャルルの顔が、ぱっと明るくなる。
「約束ですよ?」
「ええ、約束ですわ」
守れるかどうかを考える必要すらないほど、小さな約束。
魔法がなくとも、特別な力がなくとも、こうして分かち合える幸福がある。
エレオノールは、その事実を胸の奥で確かに感じていた。
この日常が、永遠であればいいと。
その願いが、あまりにも静かだからこそ――
やがて訪れる喪失は、取り返しのつかない輝きを帯びることになる。




