22話「災厄襲来」
それは、深海のさらに底――
光も、音も、時の流れさえ希薄な場所で起きた。
長い眠りの中で、タラスクは世界の変化を知覚しない。
潮の流れも、海底火山の脈動も、ただの雑音にすぎない。
だが、その日、わずかな歪みが生じた。
海底の岩盤が、低く軋む。
沈殿していた魔力が、まるで濁った水を掻き回されるように動き出す。
鼓動が一つ、深海に響いた。
眠っていた巨体の奥で、雷が瞬く。
鱗の隙間を青白い光が走り、閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。
意識が戻ると同時に、周囲の魔力が引き寄せられる。
海水が沸き立ち、圧が歪み、深海は一瞬で騒然となった。
巨体が身を起こすだけで、海底が割れる。
尾が一振りされれば、岩は砕け、濁流が生まれる。
タラスクは、獲物を探すように首をもたげ、海底を蹴った。
圧倒的な推進力が生まれ、海水が爆ぜる。
深海から中層、そして浅海へ。
雷を帯びた魔力が、螺旋を描いて後を引いた。
やがて――
海面が、盛り上がる。
嵐でもない。
地震でもない。
海そのものが、内側から押し上げられたかのように隆起した。
膨大な水塊を弾き飛ばしながら、鱗に覆われた巨影が這い上がる。
雷鳴が轟き、空が白く焼き切られる。
水を滴らせたその身体は、地に触れる前から浮き上がり、
まるで空を泳ぐかのように、ゆっくりと高度を取っていく。
雷が集い、雲が渦を巻く。
空と海の境界が、意味を失った。
――そのとき。
王都ヴァロリア、王城の中庭で。
エレオノールは、ふと動きを止めた。
風もないのに、白銀の髪が揺れる。
胸の奥で、光が鋭く脈打った。
(……起きましたわね)
遠い。
目では見えない。
だが、確かに感じ取れる。
海の向こうで、世界を狩るものが、再び歩き出したのだと。
エレオノールはゆっくりと両手を胸の前に重ね、夜空を仰ぐ。
深く息を吸い込み、体内に満ちる光を天へと解き放つと、空が赤く揺らいだ。
炎ではない。
煙でもない。
天穹そのものが薄紅に染まり、布が波打つように揺れ動き始める。
赤い光の筋が幾重にも空を走り、夜を覆い尽くしていった。
――タラスクが、現れた。
城壁の見張りが息を呑み、鐘楼の兵が一斉に顔を上げる。
赤い光は夜空に揺れ続け、世界に再び訪れた災厄の始まりを告げていた。
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王都ヴァロリアの夜空に、赤い光が揺らいだ。
それを見た瞬間、街は一斉に動き出す。
鐘楼の鐘が力いっぱい打ち鳴らされ、低く重い音が王都全体に広がった。
家々の扉が閉ざされ、人々は明かりを落とし、訓練通りに地下へと姿を消していく。
「臨戦態勢だ!」
「持ち場につけ!」
兵士たちの声が夜を切り裂き、鎧と武器のぶつかる音が続いた。
恐怖はあった。
だが、混乱はない。
一年をかけて積み上げてきた備えが、彼らの足を地に縫い留めていた。
海を引き裂くようにして姿を現したタラスクは、曇天を這うように、重々しく空を泳いでいた。
雷を帯びた魔力がその身から滲み出るたび、空気は軋むように歪み、呼び寄せられた雲が絡み合って、不吉な天蓋となり空を塞いでいく。
タラスクは一度、陸地の方角を見据えた。
アメリの大地がある方向だ。
だが、その瞬間。
(来なさい!)
王都ヴァロリア。
エレオノールの胸の奥で、光が鋭く脈打つ。
(世界で最も大きい魔力が、ここにいますわよ)
それは声ではない。
しかし、世界そのものを通して届く意志だった。
タラスクの瞳が、ゆっくりと向きを変える。
雷鳴が一つ空に走り、海面が大きく波打った。
巨体は空を蹴り、黒雲の中へと消えていった。
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赤い光が空に現れてから、一日半。
ヴァロリアの空は厚い雲に覆われ、昼なお薄暗い。
城壁の上では、兵士たちが空を睨み続けていた。
汗が鎧の内側を流れ、誰もが喉を鳴らす。
「……来る」
雲が割れ、影が落ちる。
獅子の顔に剣の歯。
馬を思わせる鬣が垂れ、背は斧の刃のように切り立っている。
錐のような鱗が重なり、六本の脚の爪が空を掻く。
蛇の尾がしなり、亀を思わせる甲羅が雷を纏う。
その巨体が雲間を抜けた瞬間、城壁の兵たちは言葉を失った。
城が、街が、あまりにも小さい。
西の城壁で砲兵を指揮するヴァンサンは、拳を握り締める。
「まだだ。十分に引き付けろ」
タラスクが前進するたび、空気が震え、城壁の石が低く唸る。
雷が走り、避雷針に火花が散った。
「撃てーっ!」
号令と同時に、砲撃が始まった。
轟音が連なり、砲煙が城壁を覆う。
西だけでなく、北、南、東の城壁からも次々と砲弾が放たれた。
砲弾は確かに命中した。
だが、タラスクは止まらない。
砲煙を突き抜け、悠然と空を泳ぐ。
グヴォオオオオオ!!
タラスクが咆哮すると、内部で渦巻いた魔力が収束し、雷となって吐き出される。
白い稲妻が空を裂き、西の城壁へと一直線に落ちた。
轟音とともに石積みが弾け、砕けた破片が雨のように降り注ぐ。
「被害報告!」
ヴァンサンが叫び、担架が走る。
それでも砲列は崩れず、導火線に火が近づけられる音は途切れない。
「ブランシュ、頼みましたわよ」
王宮中庭で砲撃の音に続いて怪物の咆哮の声を聞いたエレオノールは白馬の首筋を撫で、短く息を整えた。
白馬が一度低く嘶くと、エレオノールは体勢を整え、〈天駆騎装〉の翼から風を噴射させた。
脚で発進の合図を送り、白馬が地を蹴ると、風を裂く音とともに一気に空へ躍り出た。
エレオノールは高度を上げながら〈ハクエイ〉を抜き放つと、そのまま高速で空を駆け、一直線にタラスクへ向かう。
どれほどの大きさだろうか。
徐々に迫る巨影が視界を覆い、圧倒的な存在感が全身を震わせる。
タラスクは正面から向かってくるその姿を認めると、獅子のような顔を持ち上げ、剣のような歯が並ぶ大口を開いた。
エレオノールは身体を左に傾け、右翼の噴射を強くすると、進路を流れるようにずらす。
次の瞬間、エレオノールを丸呑みしようと迫る巨口の脇をすり抜け、タラスクの側面へと回り込んだ。
顎が閉じる衝撃で空気が震え、風圧が背中を叩く。
そこへ〈ハクエイ〉による一閃。
鋭い光が甲羅を斬りつけ、火花が散る。
だが、刃は深く入らず、弾かれるように跳ね返った。
「……さすがに甲羅は硬いですわね」
声は落ち着いていたが、その視線は一瞬で次の手を探っていた。
距離を取り、白馬を旋回させる。
エレオノールは空中で体勢を整え、次々と魔法を放った。
『煉溺焼夷弾』の炎が連なってタラスクの身体を包み、爆ぜて鱗を赤く照らす。
続けて『風水凝冷滴』が放たれ、氷霧が巨体を叩きつける。
熱湯の雨が降り注ぎ、炎を纏った真空の刃が幾筋も走った。
爆音と蒸気が空を満たす。
だが、その中からタラスクの咆哮が響く。
雷光が一直線に走り、空気を焼き裂く。
エレオノールは即座に〈ハクエイ〉を振るい、その一撃で雷を打ち払った。
衝撃で視界が白く弾け、白馬が大きく身を翻す。
再び距離が詰まる。
タラスクは雷を連続して放ちながら、巨体を急加速させてさらにエレオノールに迫った。
獲物を逃がすまいとする、圧倒的な質量と速度。
巨口がエレオノールを捕えようとした時、目の前が七色に染まった。
渦を巻く風が生まれ、巨大な壁となってエレオノールとタラスクを隔てる。
巨体が思わず動きを止めた。
その隙にエレオノールは距離を取り、息をつく。
「アルマン、リュシール、感謝しますわ」
エレオノールの視線の先、城門の上でアルマンが弓を引き絞っていた。
砕いたオパールの粉を詰めた袋が放たれ、空を切って飛ぶ。
それを、リュシールの『螺旋息吹風』が捉え、空中で弾き散らした。
砕けたオパールは七色の粒子となって風に乗り、王都の上空へと薄く広がっていく。
オパールの結晶は直接ダメージを与えるものではないが、魔法を用いるモンスターが本能的に忌避する性質を持つことをマリアンヌが突き止め、弾幕用として直前にエレオノールが生成していたものである。
雷鳴と炎や氷、砲撃が交錯する、凄まじい攻撃の応酬。
だが、誰もが悟っていた。
これは、まだ戦いの始まりにすぎないのだと。




