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お嬢様Saga:ドラゴン肉のポワレ〈焦がしバター〉 狂食淑女の微笑みを添えて  作者: 財務白関
第5章:王女様、世界最強を喰らう

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22話「災厄襲来」

それは、深海のさらに底――

光も、音も、時の流れさえ希薄な場所で起きた。


長い眠りの中で、タラスクは世界の変化を知覚しない。

潮の流れも、海底火山の脈動も、ただの雑音にすぎない。


だが、その日、わずかな歪みが生じた。

海底の岩盤が、低く軋む。

沈殿していた魔力が、まるで濁った水を掻き回されるように動き出す。


鼓動が一つ、深海に響いた。

眠っていた巨体の奥で、雷が瞬く。

鱗の隙間を青白い光が走り、閉じられていた瞼が、ゆっくりと持ち上がった。


意識が戻ると同時に、周囲の魔力が引き寄せられる。

海水が沸き立ち、圧が歪み、深海は一瞬で騒然となった。


巨体が身を起こすだけで、海底が割れる。

尾が一振りされれば、岩は砕け、濁流が生まれる。


タラスクは、獲物を探すように首をもたげ、海底を蹴った。


圧倒的な推進力が生まれ、海水が爆ぜる。

深海から中層、そして浅海へ。

雷を帯びた魔力が、螺旋を描いて後を引いた。


やがて――

海面が、盛り上がる。


嵐でもない。

地震でもない。

海そのものが、内側から押し上げられたかのように隆起した。


膨大な水塊を弾き飛ばしながら、鱗に覆われた巨影が這い上がる。

雷鳴が轟き、空が白く焼き切られる。


水を滴らせたその身体は、地に触れる前から浮き上がり、

まるで空を泳ぐかのように、ゆっくりと高度を取っていく。


雷が集い、雲が渦を巻く。

空と海の境界が、意味を失った。



――そのとき。

王都ヴァロリア、王城の中庭で。

エレオノールは、ふと動きを止めた。


風もないのに、白銀の髪が揺れる。

胸の奥で、光が鋭く脈打った。


(……起きましたわね)


遠い。

目では見えない。

だが、確かに感じ取れる。

海の向こうで、世界を狩るものが、再び歩き出したのだと。


エレオノールはゆっくりと両手を胸の前に重ね、夜空を仰ぐ。

深く息を吸い込み、体内に満ちる光を天へと解き放つと、空が赤く揺らいだ。


炎ではない。

煙でもない。


天穹そのものが薄紅に染まり、布が波打つように揺れ動き始める。

赤い光の筋が幾重にも空を走り、夜を覆い尽くしていった。


――タラスクが、現れた。


城壁の見張りが息を呑み、鐘楼の兵が一斉に顔を上げる。

赤い光は夜空に揺れ続け、世界に再び訪れた災厄の始まりを告げていた。


-----


王都ヴァロリアの夜空に、赤い光が揺らいだ。

それを見た瞬間、街は一斉に動き出す。


鐘楼の鐘が力いっぱい打ち鳴らされ、低く重い音が王都全体に広がった。

家々の扉が閉ざされ、人々は明かりを落とし、訓練通りに地下へと姿を消していく。


「臨戦態勢だ!」


「持ち場につけ!」


兵士たちの声が夜を切り裂き、鎧と武器のぶつかる音が続いた。

恐怖はあった。

だが、混乱はない。

一年をかけて積み上げてきた備えが、彼らの足を地に縫い留めていた。



海を引き裂くようにして姿を現したタラスクは、曇天を這うように、重々しく空を泳いでいた。

雷を帯びた魔力がその身から滲み出るたび、空気は軋むように歪み、呼び寄せられた雲が絡み合って、不吉な天蓋となり空を塞いでいく。


タラスクは一度、陸地の方角を見据えた。

アメリの大地がある方向だ。

だが、その瞬間。


(来なさい!)


王都ヴァロリア。

エレオノールの胸の奥で、光が鋭く脈打つ。


(世界で最も大きい魔力が、ここにいますわよ)


それは声ではない。

しかし、世界そのものを通して届く意志だった。


タラスクの瞳が、ゆっくりと向きを変える。

雷鳴が一つ空に走り、海面が大きく波打った。

巨体は空を蹴り、黒雲の中へと消えていった。


-----


赤い光が空に現れてから、一日半。

ヴァロリアの空は厚い雲に覆われ、昼なお薄暗い。


城壁の上では、兵士たちが空を睨み続けていた。

汗が鎧の内側を流れ、誰もが喉を鳴らす。


「……来る」


雲が割れ、影が落ちる。


獅子の顔に剣の歯。

馬を思わせる(たてがみ)が垂れ、背は斧の刃のように切り立っている。


錐のような鱗が重なり、六本の脚の爪が空を掻く。

蛇の尾がしなり、亀を思わせる甲羅が雷を纏う。


その巨体が雲間を抜けた瞬間、城壁の兵たちは言葉を失った。

城が、街が、あまりにも小さい。


西の城壁で砲兵を指揮するヴァンサンは、拳を握り締める。


「まだだ。十分に引き付けろ」


タラスクが前進するたび、空気が震え、城壁の石が低く唸る。

雷が走り、避雷針に火花が散った。


「撃てーっ!」


号令と同時に、砲撃が始まった。

轟音が連なり、砲煙が城壁を覆う。

西だけでなく、北、南、東の城壁からも次々と砲弾が放たれた。


砲弾は確かに命中した。

だが、タラスクは止まらない。

砲煙を突き抜け、悠然と空を泳ぐ。


グヴォオオオオオ!!


タラスクが咆哮すると、内部で渦巻いた魔力が収束し、雷となって吐き出される。

白い稲妻が空を裂き、西の城壁へと一直線に落ちた。

轟音とともに石積みが弾け、砕けた破片が雨のように降り注ぐ。


「被害報告!」


ヴァンサンが叫び、担架が走る。

それでも砲列は崩れず、導火線に火が近づけられる音は途切れない。



「ブランシュ、頼みましたわよ」


王宮中庭で砲撃の音に続いて怪物の咆哮の声を聞いたエレオノールは白馬の首筋を撫で、短く息を整えた。

白馬が一度低く嘶くと、エレオノールは体勢を整え、〈天駆騎装(シュヴァル・ダストレ)〉の翼から風を噴射させた。

脚で発進の合図を送り、白馬が地を蹴ると、風を裂く音とともに一気に空へ躍り出た。


エレオノールは高度を上げながら〈ハクエイ〉を抜き放つと、そのまま高速で空を駆け、一直線にタラスクへ向かう。


どれほどの大きさだろうか。

徐々に迫る巨影が視界を覆い、圧倒的な存在感が全身を震わせる。


タラスクは正面から向かってくるその姿を認めると、獅子のような顔を持ち上げ、剣のような歯が並ぶ大口を開いた。


エレオノールは身体を左に傾け、右翼の噴射を強くすると、進路を流れるようにずらす。

次の瞬間、エレオノールを丸呑みしようと迫る巨口の脇をすり抜け、タラスクの側面へと回り込んだ。

顎が閉じる衝撃で空気が震え、風圧が背中を叩く。


そこへ〈ハクエイ〉による一閃。

鋭い光が甲羅を斬りつけ、火花が散る。

だが、刃は深く入らず、弾かれるように跳ね返った。


「……さすがに甲羅は硬いですわね」


声は落ち着いていたが、その視線は一瞬で次の手を探っていた。


距離を取り、白馬を旋回させる。

エレオノールは空中で体勢を整え、次々と魔法を放った。


煉溺焼夷弾(ブール・ド・フー)』の炎が連なってタラスクの身体を包み、爆ぜて鱗を赤く照らす。

続けて『風水凝冷滴(ヴァン・ドゥ・グラス)』が放たれ、氷霧が巨体を叩きつける。

熱湯の雨が降り注ぎ、炎を纏った真空の刃が幾筋も走った。


爆音と蒸気が空を満たす。

だが、その中からタラスクの咆哮が響く。


雷光が一直線に走り、空気を焼き裂く。

エレオノールは即座に〈ハクエイ〉を振るい、その一撃で雷を打ち払った。


衝撃で視界が白く弾け、白馬が大きく身を翻す。

再び距離が詰まる。

タラスクは雷を連続して放ちながら、巨体を急加速させてさらにエレオノールに迫った。


獲物を逃がすまいとする、圧倒的な質量と速度。

巨口がエレオノールを捕えようとした時、目の前が七色に染まった。


渦を巻く風が生まれ、巨大な壁となってエレオノールとタラスクを隔てる。

巨体が思わず動きを止めた。

その隙にエレオノールは距離を取り、息をつく。


「アルマン、リュシール、感謝しますわ」


エレオノールの視線の先、城門の上でアルマンが弓を引き絞っていた。

砕いたオパールの粉を詰めた袋が放たれ、空を切って飛ぶ。


それを、リュシールの『螺旋息吹風(スッフル・スピラル)』が捉え、空中で弾き散らした。

砕けたオパールは七色の粒子となって風に乗り、王都の上空へと薄く広がっていく。


オパールの結晶は直接ダメージを与えるものではないが、魔法を用いるモンスターが本能的に忌避する性質を持つことをマリアンヌが突き止め、弾幕用として直前にエレオノールが生成していたものである。



雷鳴と炎や氷、砲撃が交錯する、凄まじい攻撃の応酬。

だが、誰もが悟っていた。

これは、まだ戦いの始まりにすぎないのだと。

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