21話「人に非ざる者」
マリアンヌは膝を折り、岩肌に手をついたまま浅い呼吸を繰り返していた。
瘴気を吸い込むたび、胸が締めつけられ、息が肺に届かない。
喉の感覚が鈍くなり、足元から力が抜けていく。
その姿を見て、リュシールが駆け寄り、背嚢の留め具を外す。
中から冷気を帯びた小瓶を取り出そうとした瞬間、マリアンヌは力を振り絞って首を横に振った。
「だめ……それを分けたら……下山できない者が、二人になるだけです」
掠れた声だったが、その言葉ははっきりしていた。
〈サルファー〉の瘴気が薄れる地点まで下りきる前に『風水凝冷滴』が尽きれば、最初から持っていないのと変わらない。
エレオノールはすでに全魔力を使い果たし、予備の背嚢は野営地に置いてきている。
補充の手段は、もはや存在しなかった。
「マリアンヌ、全員で帰りますわよ」
エレオノールは迷いのない声で言い切った。
「少しの間、呼吸を最低限にして耐えてくださいまし。リュシール、マリアンヌを高い位置へ。そこから下手に向けて『息吹風』を絶やさず使いなさい」
「はい!」
リュシールは即座に応じ、マリアンヌの肩を支えながら、岩の張り出した高所へと導いた。
そこから瘴気の溜まる下方へ向け、風を送り続ける。
「ヴァンサン、盾の側面でオパールを割ってくださいまし」
その指示に、場の空気が張り詰める。
オパールを割れば、不死鳥に逃げられる可能性がある。
それでも、他に手はなかった。
ヴァンサンは歯を食いしばり、大盾の縁を慎重に振り下ろした。
乾いた音とともにオパールが割れると、中から人の頭ほどの大きさの卵が姿を現す。
「マリアンヌ殿が先ほど、不死鳥は灰から蘇ると言っていましたが、こうして生まれ変わることもできるのですね」
アルマンが、呆然とした声で呟いた。
エレオノールは〈ハクエイ〉を抜き、卵の上部に正確な一撃を入れて小さな穴を穿つ。
中身が凍っていないことを見ると、躊躇なく持ち上げ、そのまま一気に中身を飲み干した。
しばらくして、エレオノールの身体が強張る。
目を見開き、苦しげに息を詰めた。
金髪は色を白銀に変え、四色のグラデーションを持つ瞳も同じ色に染まる。
だがやがて、その白銀は七色の遊色のような光を帯び、エレオノールの存在そのものが、この世のものとは思えぬ気配を放ち始めた。
エレオノールが足元に置いた〈ハクエイ〉を拾い上げると、剣はまばゆい光を放ち、そのまま鞘へと収められる。
エレオノールは息を整える素振りすら見せず、そのままマリアンヌのもとへ歩み寄った。
背嚢の蓋を開き、掌をかざすと、『風水凝冷滴』が満たされていく。
そのまま隣へ、さらに次へと歩を進め、他の四人の背嚢にも同じ冷たい滴を次々と行き渡らせていく。
詠唱はない。
魔力を練る気配すらない。
まるで「そこにあるのが当然」であるかのような、あまりに自然な所作だった。
最後にエレオノールはヴァンサンの前へ立つと、そっと手を伸ばす。
淡い光が一瞬だけ揺らぎ、鎧の下で赤く滲んでいた傷が閉じ、焼け焦げた皮膚から熱が引き、深く沈んでいた腫れが、まるで内側から撫で伸ばされるように消えていった。
痛みも、灼ける感覚も、鈍い衝撃の余韻さえ残さず――ただ、最初から傷などなかったかのように。
「……今のは……?」
ヴァンサンが呆然と呟く。
その横で、ようやく理解が追いついたリュシールが、息を呑んだまま声を震わせた。
「ま、待ってください! 不死鳥を閉じ込めるのに、姫様は全魔力を使い切ったはずです! それなのに詠唱もなく、全員分の『風水凝冷滴』を……! しかも、聞いたことのない治癒魔法まで!? それに姫様、そのお姿は一体……」
信じられない、という言葉すら追いつかない表情だった。
エレオノールはその視線を受け止め、ただ穏やかに微笑む。
「これで大丈夫ですわね」
そして振り返り、瘴気の薄れ始めた山道を見据えた。
「さあ、ヴァロニアに帰ってタラスクを倒す準備をしましょう」
七色の遊色に光り輝くエレオノールを前に、誰一人として声を発することができなかった。
ただそこに在るだけで、エレオノールは周囲のすべてを沈黙させていた。
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一か月の航海を経て、五人はヴァロリアへ帰還した。
港に船影が見えた時点で王都には急使が走り、エレオノール一行は上陸とほぼ同時にダミアスとともに王宮へと迎え入れられた。
謁見の間で、エランソワ国王レオンはエレオノールの姿を認めるや否や、余計な前置きを省いた。
タラスクの存在、目覚めの兆候、そして迎撃手段の可能性――エレオノールが淡々と語る内容を、国王は一つひとつ遮ることなく聞き終え、即座に決断を下した。
迎撃地点は王都ヴァロリア。
民の避難と戦力集結、そしてエレオノールの存在。
ヴァロリアをタラスク襲来までに最も効果的に戦闘できる場所にする。
「異論はない。できる限りの権限を与えよう」
短いその一言で、王都は災厄迎撃体制へと舵を切った。
その後、王立学術院の奥室にて、エレオノールは改めて自身の魔法について説明を行った。
エレオノールがナタリ―のタンジガロ火山で得た魔法は光魔法――原始の魔法の一つである。
火、水、風、土、そしてタラスクが使うとされる雷。
現在知られている属性魔法は、すべて光魔法と、もう一つの原始の魔法から派生したものに過ぎない。
光魔法を得たことで、エレオノールは万物に宿る魔力そのものを媒介として扱えるようになった。
結果として、これまで使用していた四属性魔法は、事実上、消費制限のないものへと変質している。
「……ほぼ、無制限に、ですか」
ダミアスが思わず確認する。
「ええ。正確には“足りなくなることがほとんどない”という表現になりますけれど」
エレオノールはそう前置きしたうえで、続けた。
「もし、もう一つの原始の魔法まで扱えるようになれば……理の上では、あらゆる魔法を使うことが可能になりますわ」
「あらゆる、魔法……?」
ダミアスの声がわずかに掠れる。
「はい。極論を言えば――世界そのものを壊すことさえ」
静かな口調だった。
だが、その言葉の重さに、室内の空気が一段沈む。
「そもそも魔法は、本来あってはならない世界の歪みなのかもしれない。そう思っておりますわ」
付け加えられたその一言が、誰よりも学者であるダミアスの背筋を冷やした。
タラスクの迎撃の要となるのは、ミスリル双剣の片剣〈ハクエイ〉である。
この剣は触媒として機能し、タラスクの体内へ光魔法を直接流し込むことができる。
タラスクに突き刺して全力で光の魔力を注ぎ込めば、タラスクは膨大な魔力を失い、幼生の姿へと退行するはず――
それが、エレオノールの導き出した唯一にして最短の討伐手段だった。
王命を受け、エランソワは即座に周辺諸国へ使者を派遣した。
災厄対応に関する情報共有と役割分担のためである。
迎撃はエランソワが担う。
各国は物資支援、エランソワ民の避難受け入れ、国境警備の強化を受け持つ。
混乱に乗じた犯罪や流言を防ぐために厳戒令が発布され、同時に相互不可侵の確認も行われた。
また、タラスク覚醒の合図として、エレオノールが空に赤色の火の揺らぎを発生させることが各国に通達された。
それを目にした時点で、支援は即時発動される。
各国は、一人の少女をただの公爵令嬢としてではなく、災厄対策の鍵を握る存在として受け止めた。
この百八十年という長い歳月の間、いかなる知恵と時間を費やしても、他に有効な対策は見いだされてこなかったのである。
ゆえに各国は、すでに三体の強大なモンスターを屠り、複数の属性魔法を自在に操る少女を支援することこそが、奇跡を起こす唯一の選択であると結論づけた。
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王都ヴァロリアは、急ピッチながらも一年という時間をかけ、タラスク迎撃のための体制を整えていった。
街は表向きには平穏を保っていたが、その裏では休むことのない準備が進められていた。
ダミアスは王立学術院の資料庫に籠もり、過去の伝記や記録を徹底的に洗い直していた。
タラスクがどのような経路で現れ、どこを破壊し、どのような攻撃を行ってきたのか。
その共通点と相違点を洗い出し、地図の上に書き込んでいく。
一方、ヴァンサンは実務の指揮を執っていた。
王都の要所には新たな見張り所が設けられ、街路や城壁周辺には避雷針を林立させる。
地下には簡易ながらも多数の避難所が整備され、ヴァロリア城壁に据えられたカノン砲も、最終的に三十門まで増設されることになった。
アルマンは王都民の避難計画を引き受けていた。
通りごとの動線整理、退避区画の指定、誘導要員の配置。
万一に備えた訓練も繰り返され、王都は少しずつ「逃げられる街」へと姿を変えていった。
また、アルマンはリュシールと共に魔法の鍛錬を重ねていた。
魔力の底上げと、互いの動きを意識した連携の確認。
その時間は短くとも、確実に積み重ねられていった。
そして、マリアンヌはタラスクに唯一対抗しうる手段の一つに取り組んでいた。
空を泳ぐように飛ぶというタラスクに、直接到達するための魔道具〈天駆騎装〉である。
当初、エレオノール自身が風魔法で飛行する案も検討された。
しかし、空中での安定性に欠け、何より両手が塞がるという致命的な問題があった。
飛ぶのは人ではなく、馬。
そこに飛行のための機構を与える。
馬体を包み込むように、専用の鞍と留め具が取り付けられ、その延長として、胴体の左右と腰の後方に翼が設けられた。
これらの骨組みはすべて鋼製で、外側には雷を避けるため、蝋を染み込ませた厚革が重ねられている。
左右の胴体には大きな翼が、腰の後方には小さな翼が備えられ、飛行中の姿勢を安定させる役割を果たす。
さらに、大翼と小翼には左右合わせて四つの噴口が設けられており、エレオノールの風魔法を整流して推進力とし、進行や旋回を自在に制御できる仕組みとなっている。
また、エレオノールも来るべき決戦に備え、特訓を重ねていた。
朝はヴァンサンを相手に、剣と盾による実戦形式の打ち合いを繰り返す。
攻撃を正面から受け止めず、力を殺し、流れを変える――
巨大な敵の一撃を想定し、受け流しと体捌きを徹底的に叩き込まれた。
昼過ぎからは、マリアンヌの指導のもと〈天駆騎装〉による飛行訓練が行われた。
直線飛行や旋回だけでなく、身体の向きや重心の使い方、失速寸前での姿勢制御、そして空中での捻りの運動まで、実戦を想定した機動が課される。
夜になると、アルマンとリュシールとともに魔法の合同訓練が始まった。
アルマンからは『地砕罠』を、リュシールからは『息吹風』も教わる。
こうして王都ヴァロリアは、表には見えぬ緊張を内包したまま、迫り来る災厄を迎え撃つ準備を着実に整えていったのだった。




